21/12/25 那珂市本米崎 
上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
藤井智師 常陸太田市 青蓮寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御讃題。
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
と聞こえた。
[正信偈にある龍樹大士の教え。
阿弥陀如来の本願を憶念すれば、自然に即の時、必定に入る。
私を救ってやりたいという阿弥陀如来の本願をいつも心に願っていると、
私の浄土往生は決定する]

■コロナのため外にでにくかった。自分の事を考えてみた。
■教誨師として少年院にいく。
少年院の少年は外に出ることができない。
外を見ることなく自分をみている。
ある少年のはなし。
少年は皆と一緒に生活できない。
少年はいう。他の人は仮面をかぶって生活している。
私は仮面をかぶらない。本当の自分でいる。
他の人は少年院をでたら仮面をぬぐはずだ。
何かがちがうと感じて別れた。
本当の自分と仮面の自分について1か月考えた。
1か月後再会した。
仮面をかぶらない自分が、自分の隣にいたら友達になりたいかと聞いた。
少年はしばらく考えていた。そしていった。
そんな自分とは付き合いたくない。友達になりたくない。
こたえた後、少年は考え込んだ。
恐ろしいのが。本当の自分か怖いのか。
少年の仮面とは帽子を真っ直ぐにかぶらない、
大きな返事をするようにいわれても小さな返事をするようなこと。
[仮面をかぶらない自分は煩悩のままにいきている自分か]
■本当の自分とは、欲望をかなえる自分。煩悩を満たす自分。
自分の煩悩のままにいきることか。
南無阿弥陀仏を呼べ。
私はいのちをいただいている。私はこれを願われている。
私を救ってやりたいという阿弥陀如来の本願が私にとどいている。

■法事をすると参加した人は仏に手をあわせる。
法事は私たちに手を合せてくれる。
自分でするよりも向こうから手をあわせてくれている。
尊いものに手を合わせる。法事の場にはご先祖からの願いがとどいている。
法事のときにご婦人から質問された。南無とはなにか。
説明したあとになぜ質問したのかきいた。
おばあさんが何回も何回もいつも南無阿弥陀仏といっていた。
どのようなことか知りたかった。
南無阿弥陀仏、もったいない、もったいないといっていた。
向こうからの声、阿弥陀如来からの声をきいた。
北陸ではごもっともないという。
おかげさま。おとさま。
南無阿弥陀仏、もったいない、おかげさまの世界。
自分にみえないものに手を合わせる。
称名念仏をしていると360度回ってものがみえるという。
私がお願いするのでなく阿弥陀如来から願われている世界。
本当の自分を見直す機会。
つまらない日常と思っていたものが、おかげさま、
大切な日常がみえてくる。それが念仏。
安田理深師は
称名念仏は今まではけとばしていたものが尊くみえてくる世界といった。
■現代はストレス時代といわれる。社会がストレスを作っている。
少年院の少年が言っていた。少年院に入る前は携帯を3個もっていた。
少年院では携帯を持てない。2か月の間は携帯をもたずイライラした。
その後は携帯がなくても落ち着いてきた。
■青蓮寺の周辺は住んでいる人が多くない。
しかし人々のあたたかさ・やさしさをいつも感じている。
大根などいろいろな物をいただく。
お返しができず寺の大きなイチョウの実をあげている。
■釈尊のおられた2500年前とくらべ安心できない時代になったか。

■禅宗の寺に西洋哲学をひと通り学んで帰国した若者がやってきた。
若者はお寺の年配の僧に仏教とはなにかとぶしつけに質問した。 
年配の僧は若者にまずお茶をどうぞとお盆にお茶碗と湯と茶をもってきた。
そしてお茶碗に茶を注ぎだした。お茶が茶碗に一杯になっても注ぎつづけた。
若者は年配の僧にこぼれているといった。
年配の僧は一つの湯のみにはお茶は全部入らない。
話しても全部は入れられないといった。
■本願寺派の信楽先生は、自分のものを捨てると何かがきこえてくるといった。
自分のものを捨てることは喜捨すること。
空になるといろいろときこえてくる。最終的にみえてくる。
自分の欲を捨てるのが称名念仏。
■鈴木大拙先生は、妙好人と高僧のめざめの信心は同一になるといっている。
■常陸大宮市で聞いた人権作文。
中1女の子の作文。難聴のお母さんとのはなし。
お母さんは耳が悪かった。小学校低学年のとき授業参観があった。
授業が終わり皆が自分のお母さんにかけより話をした。
女の子はいつものようにお母さんと手話で話をした。
まわりの友達は驚いたようだ。あとでいろいろと質問された。
毎年授業参観日には同じことが繰り返された。
女の子は外で母との手話をさけるようになった。
中学生になった。
全く同じ人はいないことに気づいた。
耳が悪いことは恥ずかしいことではないと思った。
たったひとりの母。はずかしいと考えた自分がはずかしかった。
母のことと周りのひとをみるめが変わった。
360度・一周まわって考え方が変わった。
それは念仏だったとおもった。
[念仏は私が阿弥陀如来に御願いすることではない。
阿弥陀如来はいつも私を助けようとしてくれている。
阿弥陀如来は私を救おうと願われている。
わたしはただ南無阿弥陀仏と名前を声に出してよばせていただくだけ。
それが御恩報謝の念仏]
■縁起。自分のいのちをささえてくれている阿弥陀如来は人の姿をしている。
私をひとりにしない。私にとっての南無阿弥陀仏。向こうからみせてもらう。
[私を救ってやりたいという阿弥陀如来の本願をいつも心にかけて
念仏を称える日々を送りたい。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏]

■御文章
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたり往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ、あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
必らず死ねる 必らず参れる 必らず仏になる
いそぐことはない 安心して苦を生きていく

ここに本当の人生があります
仏様といっしょの人生が