21/12/19 2021年、水戸・歴史に学ぶ会 秋期講座。
那珂市 後台ふれあいセンター。
仲田昭一先生
水戸烈公と農人形

■歴代藩主の領民への思い。

■6代藩主徳川治保。
[1766年16歳で家督を継ぐ。1805年死去まで藩主]

■1791年 治保から郡奉行への達し。
君は民の父母なれば、何卒百姓共の困窮せぬように致度ものに兼々存る也。
然れども、我等一人何ほど右之通り患い候ても、
其方共能我らが意をうけてとり計い候わねば、
届きかね候事難主義やと思われ候。・・・

■文化年間の布達。
[文化年間1804〜1817年].
村々の中で、極貧の上に子供大勢で育児不行届きの者がある。
これらが、万一心得違いがあれば (間引きなど) 相済まないので、
それぞれに御救いもあるので村役人へ申し出ること。
養老の思召を以て、 百姓の内90歳以上の者へ、
1カ年籾2俵づつを下し置かれるので、
正月中に男女名を書き付けて差し出すこと。

■1804年。治保から入江忠八郎に対して。
子、間引之風俗不改候而ば、 公辺へ対し不相済義に有之候。
猶又、人情に背候儀不宜候間、小人共迄得と為呑込、心得違無之様。
此上、少も油断有之候而ば、元へ返り候義に有之候間、
何分同役共申合行届樣可扱候。・・・。

■1804年。治保から大子郡奉行増子幸八郎宛て。
御百姓之義は公方様より御訳御預ケ被遊候物之義に候えば、
別而大切成義、 民は国之元に候えば、 所務等は減候様相成候共、
村々傷不申様取扱、総而成功を急候義は不宜候事に候。
育子之儀は、 別而致出精候様可致。
人別減候故之義には無之候。
唯人道を弁、取挙さへいたし候へえば、其者之心得次第に而、
如何様成身之上にも相成候事に候。・・・

■7代藩主徳川治紀。
[1805年33歳で家督を継ぐ。1816年死去するまで藩主]
奥御殿の西へ座敷を造作せしめて、袋棚の唐紙へ農村の景色を描かせた。
常に領民の艱難ぶりを見て忘れずにいたいと思って描かせたと語った。
あはれなり 田面の露の かり庵に 
ぬれつつあかす 賤か心は
と詠んだ。

■明治天皇御製 
暑しとも いはれざりけり にえかえる
水田にたてる しずをおもへば

賎がすむ わらやのさまを 見てぞ思ふ
雨風あらき ときはいかにと

■9代藩主徳川斉昭・水戸烈公。
[1829年30歳で家督を継ぐ。1844年まで藩主]

■斉昭の愛民専一。
■斉昭(烈公)は
ちちに思ふ ひとつ報も 有らぬ哉
三十年民に 恵まれし身の
と詠み、
「民は国の本也と申せば、御遺領相続仕候ては愛民専一と存ぜられ候」
と述べ、「愛民」を政治の根底に置く決意を示した。

1833年、初めて水戸へくる。
告志篇に、朝夕食する所の米穀は、粒々民の辛苦にして、
人々祖先の勤労等を以て先君より賜りたる所なれば、
食する毎に此の所を忘れず、一拝して箸を取ても然るべき程の事なり。
と述べた。

■1837年の斉昭の掛軸書。
専力稼穫勿忘飢饉。
専ら稼穫に力め、飢饉を忘るるなかれ)

■万里小路睦子の農人形の記より。
斉昭は農民への報恩として、青銅製の約6cmの農夫像をつくり、
朝な夕な 飯食ごとに わすれじな 
めぐまぬたみに めぐまるる身は
と詠み、 まず初穂を供えてから食した。
この作法は、斉昭以後に諸公子たちも倣った。
斉昭の農人形の精神は、後に模型品が造られた。

■模型農人形
■昭武の模型農人形。
■11代藩主徳川昭武
昭武は農人形を模した・陶製。
1911年、水戸高等女学校に寄贈。寄宿舎食堂に置かれた。
1932年、水戸高等女学校で第1回農人形祭。
豊田芙雄が「水戸高等女学校にて農人形の祭ありとききて」と題して講演。
みたからは 乳母にひとしと 言ひましし
その御こころは 世にも輝く
と詠んだ。
1933年、水戸高等女学校で第2回農人形祭。
豊田芙雄が「勤倹精神について」と題して講演。

■1921年頃、水戸市の広田松が模した農人形をつくり偕楽園入口で販売。
古より賢君は、民を見ること猶慈母の赤子におけるがごとしといえり
されどわれは少しこれに異なりて、百姓をば我が乳母なりと思う。
我は百姓に向いて何等の憐みを施さざれど、
百姓はわが為に命をつなぐべきものを与へぬ。
その恩や乳母と何の択うところあらんと。
侍臣たちは、この農人形を呼びて御百姓というに至れりとぞ。

■常陸太田の小泉源三郎。
1908年、昭武から許可を得て原型に則り青銅で鋳造。
栗田勤の由来文を付して販売。
由来文。
斉昭の盛徳大業、愛民の志ふかく、賦税を均一にし、
穀倉を設け窮民を賑わした。・・・
朝な夕な 飯くふことに 忘れじな
恵まぬ民に めぐまるる身は
と詠む。常に農人形を食膳の上におき食べた。・・・
諸公子の方々に至るまで具始めて食膳に就くの日より皆之にならはしめ、
是を以て御家訓の初となる。・・・
後に昭武、更に陶にてそのみかたのままに、
御手づから作りて之を親しく仕うる人に賜わり
又は心ある人々にも賜わる。

■大正初め水戸公園梅細工元祖佐久間丑太郎の梅細工。

■昭和初期、
長野県での講演会、
島根県教育会総会などで参加者に頑布。

■茨城県庁前の農人形。
1930年、茨城県農事試験場を酒門村から細谷へ移転。
1931年、記念式典が挙行され以降農人形建設の気運が盛高まる。
1932年、県庁玄関前に農人形をつくる募金をはじめる。
建設目的は、尊農の精神を喚起・斉昭遺徳の顕彰。
発起人、酒井為太郎・県会議長他。
後援は県知事・部課長、県農会、県穀物協会など。
銅像高さ約1.7m ・台座高さ約3m。
1933年、除幕式。徳川圀順・農相陸相代理・阿部知事ら参列。
銅像は戦時協力のため壊された、台座も壊された。

■南部家の農人形。
南部利剛の夫人は斉昭の子女松姫。
松姫は農人形を持って嫁入り、南部家に農人形が広がった。

南部家家令の太田時敏の甥が新渡戸稲造。
新渡戸稲造は農人形に接し感化された。
新渡戸稲造は農学博士・法学博士となる。
「われ太平洋の架け橋とならん」との理想を抱いた。
南部家の農人形をもとにアンチモニーで模造。
「粒々辛苦」と題し織田完之の説明書と自分の英文説明書を付し外国に出した。
1908年、報徳会大会の講演時に百数十個の模型品を頒布。

■最新女子修身書・1931年昭和女子修身訓に農人形の図がある。

■弘道館の農人形

弘道館内に大型の農人形がある、
農人形は険しい表情である。
1930年、 茨城県農事試験場は東茨城郡酒門村から大野村へ移転。
酒門にあった桜の老樹で斉昭の遺徳顕彰として富岡桂山が農人形を彫った。
製作への注文が多く富岡桂山の心乱れ興奮、
だんだんと険しい表情の農夫となったと云う。
農人形は、農事試験場・武徳殿にあったが、
1932年、弘道館へ移り現在に至る。

■農業を愛した先人。
橘孝三郎・兄弟村・愛郷塾。 「土とまごころ」 「土に還れ」
加藤完治・満蒙開拓青少年義勇軍。「立国の基礎は農業に在り」
白土松吉・甘藷栽培研究所「さつまの神様」