21/10/25 那珂市本米崎 
上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
山本昭淳師 東京都 長玄寺住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御聴聞の心得・・・全員で。
一、今日のこのご縁は、初事と思うべし。
一、今日のこのご縁は、我一人のためと思うべし。
一、今日のこのご縁は、今生最後と思うべし。

■ご讃題 以下のように聞こえた・・・。
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

■私たちは宗教をいただいている。宗と言う字が大事。宗はムネとも読む。
阿弥陀如来のいる本堂で何が大事か。阿弥陀如来が大事。柱と梁も大事。
本堂をつくるときは棟ムネ上げをする。身体で大事なものは心臓。
宗は大切なもの・拠り処となるものの意味がある。宗教のひとつに仏教がある。
仏教は釈尊の教え。釈尊は阿弥陀如来の本願を説いた。
正信偈に如来所以興出世 唯説弥陀本願海とある。
釈尊がこの世間に出た目的は、私を救ってやりたいという阿弥陀如来の本願が、
私に差し向けられている、その事実を私に教えるため。
私が仏に成るのが浄土真宗。本願は阿弥陀如来が私を救うという根本の願い。
私を救うとは私を浄土に往生させること。
阿弥陀如来から願われる、阿弥陀如来から私に届いている願い。
[阿弥陀如来の名前・南無阿弥陀仏は私の口をとおして発せられる。それが念仏。
私は阿弥陀如来からの念仏を私の口から発声させ念仏をきかせてもらう。
私は南無阿弥陀仏を称えさせてもらい浄土に往生させもらう。
私は南無阿弥陀仏を称えるだけ。すべて阿弥陀如来におまかせする]

■ミタという言葉は、かざる・はかるという意味。
インド語を中国語に訳すときに音をあてはめた。
アミダは、はかることができない無量・無限であるという意味。
ブッタ・阿弥陀如来は、はかることが出来ない光といのち。
無量・無限はよくわからない世界。空の上・宇宙がある。宇宙は無限。
私たちにはわからない。私は無量のものに関係しているがそれを知らない。

■阿弥陀如来は立っている。躍動している。娘が女子サッカーをやっていた。
娘が高校生の時応援に行った。高校生のサッカーは相手選手との激しい
接触プレイもある。怪我をしないか心配だった。応援の親が何人かいた。
試合が始まるまでは親同士でお茶を飲みながら話し合っていた。
試合が始まると親は一斉にグランド近くに移動。一生懸命応援。
立ち上がり・前に倒れるように応援した。心配な親・最前列で前に倒れている。
阿弥陀如来も立って少し前にでるようにしている。
阿弥陀如来はこの私がどのようになるか心配している。

■南無阿弥陀仏の南無は、ナマスというインドの言葉を中国で訳したもの。
意味を訳さないで、インドの言葉の発音を漢字に写し換えた。
依り処として、敬い信じて順いますという気持ちを表わしている。

■無量の阿弥陀様を信じます。親鸞聖人はいう。私が信じる。
しかし弥陀にまかせよ。信じるのは私。
その前にはたらきかけているのは阿弥陀如来。
あなたのいのちを阿弥陀如来にまかせなさい。私は仏にならせていただく。

■仏さまとはどんなかた?? ウルトラマンの歌。胸につけてる・・・。
光の国から私たちのためにきてくれている。
阿弥陀如来も私を救うためにきてくれている。
仏さまとは、おこらない・むさぼらない・ぐちをいわない・平等に。
私たちにはできない。目覚まし時計で起きられないと目覚まし時計に怒る。
腹がグーとなる・食欲がでる。食べ物がないとぐちる。
私たちはぐちをなくすことができない。
平等、これはできない。蚊が私に止まったら蚊をパチンする。
失敗するとスプレイ攻撃。蚊のいのちを考えない。仏さまは蚊に血を吸わせる。
千葉県の房総でイルカが浜にうちあげられた。なんとか助けようとした。
あれがイルカでなく、可愛くない生き物だったら私は平等にできない。
私には仏になる要素がないことになる。

■怒る。私の都合で怒る。私たちは怒りのスイッチをもっている。
怒りは消えない。仏にはなれない。煩悩具足の凡夫。

■立ち止まり考えてみることが大事。
法然上人は愚者になりて往生すといった。
煩悩・気づく・一歩立ち止まる・考えると世の中安穏なり・そうだったと思う。
争うことがなくなる。

■仏になる要素がない私。
阿弥陀如来に任せよ。そのままで助ける。そのままでいい。
命あるものすべてを救う。そのままの私を救う。
浄土に生まれたいと思う私を助ける。
自分が自分がではない。そのまま南無阿弥陀仏と名号をとなえる。
阿弥陀如来のはたらきはなにか。見せることが出来ない。
はたらきにあったら動かされる。
仏のご縁があった。ここにある。ご縁が・・・。仏さまのはたらき。
今日の法座の場に座っているのは阿弥陀如来のはたらきによる。
息絶えたときに往生させていただく。それは今決まる。
今・心・仏。今仏さまの心が・・・。仏さまの心が今届く。
私の心に届いている。私は念仏を申す。それが信心をいただくということ。
信心は阿弥陀如来からいただくもの。正定聚になる。現生正定聚。
仏になるいのち、念仏とともに日暮する。
阿弥陀如来の呼び声である念仏する日暮の安らかさ。
阿弥陀如来に出遭わせていただく。
これが信心を頂いた念仏者の日暮らしというもの。
いつでもどこでも念仏。
この私にはたらいてくれている阿弥陀如来の願い。
そうだった。そうだった。念仏申す暮らし。

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたり往生は治定せしめたもう。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ、あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
人間の本当の価値は
何をしたかではなく 何をしようとしたかである
山本周五郎(作家小説家)

何を目指して生きるか? 
私は浄土を目指して生きています!!
なあんちゃってすみません
でもこの言葉かっこいいですね