21/10/17 那珂市 鳴呼、天狗党田中愿蔵隊の顛末。
2021年、水戸・歴史に学ぶ会 歴史講座。
那珂市後台ふれあいセンター。
飯村尋道先生。
■18/10/28 飯村尋道先生の嗚呼、天狗党田中愿蔵隊の顛末の話をきいた。
今回はその続きのような感じの講演だった。
以下は講演後にhp制作者が考えたこと。
飯村先生の話されていない事も書いている。
■田中愿蔵の墓は福島県塙町にある。
生花が絶えないという話をいろいろな人に聞く。
田中愿蔵はかなり悪い人・怖い人とのイメージが強い。
しかし墓には生花が絶えない。ちょっと不思議な感じがする。
講演前に飯村先生に聞いた。
先生は、田中愿蔵隊が放火・強盗など悪いことをしたという。
しかし、やっていないことまで田中愿蔵隊がやったというはなしになっている。
配布資料には「田中愿蔵隊は全ての汚名を一身にかぶせられた。
濡れ衣を着せられ筑波勢から追い出された」と書かれてある。
坂東の平将門は京都の朝廷に対して新皇を自称した。
東国の独立をはかり朝敵となり斬首された悪い人。
しかし坂東に行けば将門を祭神とする国王神社はあるし地元の英雄。
時の権力者には悪人でも地元の人には良い人。
郷土の英雄平将門の勇姿を再現する将門まつりが行われている。
■田中愿蔵隊は天狗党から外され独自に八溝山にいった。
一緒に行動をともにしたのは300人以上。
21才の若者田中愿蔵に多くの人がついていった。
田中愿蔵にはどのような魅力があったのか。
田中愿蔵は1864年10月4日塙町で捕えられる。
1864年10月16日に首をきられた。
捕えられて介錯されるまでの間、首斬人塙代官所牢番・桜井半兵衛が
田中愿蔵の世話をしたという。
その間に桜井半兵衛は田中愿蔵に惚れ込んでしまった。
介錯の時は7度まで試みたがきれず、田中愿蔵にうながされ8度目に介錯した。
その後田中愿蔵を供養するための石碑を自分で建立した。
南無妙法蓮華経・1865年5月、首斬人の桜井半兵衛立石。
願以此功コ普及於一切 我等與衆生皆共成佛道。
■配布資料の地図に八溝神社入口・八溝山一の鳥居が8つある。
茨城県大子・福島県棚倉・栃木県黒羽へつながっている。
8つの溝があるから八溝山か??
田中愿蔵隊は八溝山の上で解散する。
300人以上の隊員の解散後について話があった。
隊員は13才から40数才。分かっている人は殺されている。
斬首・試し切り・逆さ吊りで殺される・叩かれて殺される。
供養されることなく葬られたようだ。
敦賀に行った天狗党隊員も悲惨にも斬首された。
現在・隊員は水戸の回天神社に祀られている。
田中愿蔵隊の隊員の霊は供養されていない。
棚倉藩主松平周防守は、天狗党討伐の功により2万石の加増となり、
川越藩主に栄転している。
■茨城県大子で捕縛され処刑された隊員数・10名。推定値。
10◆人数不明。上野宮村磯神の刑場跡。
何人を繋いで旅澤の屋敷へ連れてきた。殺しはしなかった。
一人だけ小便大便で一行より離れた者がいた。民家に立ち寄り、飯一盃くれと
頼まれ大きな茶碗に麦飯を出した。俺は天狗党で殺されるからと、麦飯一杯の
礼に背中に背負った4尺以上の刀をくれた。刀は戦時中供出して今はない。
処刑は鋸で首を切った? 鋸としたら余りのも酷い。
■福島県棚倉で捕縛され処刑された隊員数・132名。推定値。
塙村下河原刑場・3人。大梅村段河内刑場・59人。
上台村御仕置場・69人。金山村犬神・1人。
◆◆◆塙村下河原刑場。3人。
1◆田中愿蔵・21歳。塙村下河原刑場。
1864年10月16日・幕府追討軍総括・田沼玄蕃頭意尊の命令で斬首。
首斬人は桜井半兵衛。首級は水戸弘道館前に曝される。遺骸は安楽寺に埋葬。
塙村下河原刑場跡・道の駅天領の郷駐車場の西側・久慈川対岸の台宿側・
田中愿蔵刑場跡の碑・1929年。
南無妙法蓮華経・1865年5月・首斬人の桜井半兵衛立石。
願以此功コ普及於一切 我等與衆生皆共成佛道。
田中愿蔵墓・1868年・安楽寺。
田中愿蔵を木挽小屋にて召捕、御役所へ誘参候、
10月9日塙下川原にて打首にいたし水戸御城下御勘定奉行其外田沼玄蕃若年寄
へ差出し相成、首を送御見分10月28日に相申候。
2◆高橋幸之助・21歳。塙村下河原刑場?
斬首・1864年10月3日夜・久慈郡坂本村の人。
高橋幸之助墓・1868年・安楽寺。
3◆西山常蔵・33歳。塙村下河原刑場?
斬首・1864年10月6日、9日夜の説も・茨城郡上古内村の人。
西山常藏墓・1868年・安楽寺。
◆◆◆大梅村・段河内刑場。29+24+6=59人。
29◆29人。大梅村・段河内刑場。
1864年9月29〜10月1日 戸中村・漆ノ草村で捕縛。1864年10月6日・処刑。
24◆24人か。大梅村・段河内刑場。種まき桜。
10月6日種まき桜での逆さ吊り斬刑・凄惨な処刑。
春の訪れを告げる坪神の大桜。
◆不明人。 大梅村・段河内刑場。
段河内河原は石ころばかりのところ・深くも掘らず骸を埋めた。
白昼犬が手足を引摺り出し噛んでいた。
1◆五月女清次・野州栃木の人。大梅村・段河内刑場。1864年10月2日・死刑。
2◆根岸庄五郎。大梅村・段河内刑場。1864年10月2日・死刑。
3◆大戸藤三郎・武州岩槻の人。大梅村・段河内刑場。1864年10月2日・死刑。
4◆平城庄吉。大梅村・段河内刑場。1864年10月2日・死刑。
5◆茨木良助。1864年10月2日・大梅村・死刑。
6◆原清治。大梅村・段河内刑場。1864年10月2日・死刑。
◆◆◆上台村御仕置場。18+8+3+17+23=69人。
1◆行方清吉。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
2◆大森助三郎。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
3◆新井和吉。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
4◆羽方賢之助。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
5◆成澤(成瀬か)竹松・13歳。刑場不明。1864年10月1日・山本村・死刑。
6◆麻村(鹿村か)貞助。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
7◆山形源七。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
8◆岩間清次郎。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
9◆加藤磯吉。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
10◆立木千代吉。刑場不明。1864年10月1日・山本村・死刑。
11◆牛堀佐七。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
12◆朽木牛次郎。刑場不明。1864年10月1日・山本村・死刑。
13◆冨田忠吉。上台村御仕置場か。1864年10月1日・山本村・死刑。
14◆蒲原久作 ・元越後の人・37歳。上台村御仕置場か。1864年10月1日・
山本村・死刑。
15◆堀越惣介。上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
1864年9月15日夜・川下村で召捕・死刑。
16◆鈴木主税・27歳・那珂郡福田村神官。上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
1864年9月15日夜・川下村・召捕。1864年10月6日・斬首。
君の為 積もる思いは 陸奥の 赤き心を 誰か知るらん 鈴木主税。
17◆越惣太郎、42歳・中野村の常行寺墓地内で斬首。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
旧渡瀬村の宇津木坂・現鮫川村で召捕。1864年9月20日・斬首。
18◆藤田由之助・37歳・二本松藩士・上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
同志8人と戸中村へ潜む。1864年9月29日・仕留められ斬首。
8◆8名・氏名不明。藤田由之助と同行。上台村御仕置場か。
戸中村へ潜む。1864年9月29日・仕留められ斬首か。
1◆荒井一司・鹿沼の人・新井一司か。上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
川上村にて取押。1864年9月20日斬首。
2◆興野武彦。上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
3◆蔀幼君・13歳。上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
宍戸藩主松平大炊守頼徳の甥か? 土蔵の上座に座り絹の褌。天狗小僧か?
1864年10月6日・斬首。
17◆17名・上台村御仕置場か。
刑場跡に建つ碑銘の刑死者名「弔、1864年殉難諸君之霊」に記載あり。
23◆23人試し斬りで処刑・上台村御仕置場。
1864年10月10日前迄に23人切る。
藤田家の土蔵に入りきれなかった志士を上台村仕置場で度々首を落とす。
家老より試斬り御免の沙汰有。諸人出で首を斬る。
上台仕置場は路傍に南無阿弥陀仏の石の建てある所、傍に骸を埋めた。
◆生首が20幾つ・上台村御仕置場か。御仕置場(馬捨場)。
街道の道端の板の上に生首が20幾つも並び、恐ろしくて通れなかった。
◆◆◆金山村犬神。1人。
1◆江幡雄四郎・19歳・金山村犬神でたたき殺された。
八溝山〜中ノ沢〜戸中村〜犬神へ〜捕殺。1864年9月30日たたき殺された。
墓碑・天應良然信士 水戸浪士江幡雄四郎 1864年9月2日。金山の正金寺。
■三界萬霊塔。棚倉藩主松平周防守康英の建立か? 村人の建立か?
一周忌に当たる1865年9月29日建立。
■栃木県黒羽で捕縛され処刑された隊員数・164名。推定値。
簗場平の刑場・14人。那須野・21人。両郷・40人。桜馬場松並・3人。
前田一本木・11人。稲沢・1人。桜田の中山・9人。花立松上・7人。
無銘の墓標石・5人。女体処刑場・35人。15歳前後の少年・18人。
■簗場平の刑場・14人。
14◆14人・20歳前後の若者ばかり。野州芦野・簗場平の刑場。
八溝山〜芦野藩領の大畑村、梓村、蓑沢村、追分村で捕縛〜処刑。
芦野宿の西、黒川の左岸の洞窟に隠れ潜んでいた14人をツル掻棒で
着物を引っかけてズルズル外に引きずり出した。
大きな丸い穴に14人並べて首を斬り、ベラ棒で穴にツっ飛ばした。
14人墓・1864年10月19日・1876年10月13回忌建之。
■那須野・21人。
21◆21人・刑場不明。 9月29日頃より高笹山に屯集の浮浪の徒、
那須野に脱走、同晦日賊徒離散して領内各所で都合21人召捕。10月2日処刑。
■両郷・40人。
40◆40人・両郷その他で捕縛。刑場不明。斬首か?
■前田一本木・11人。
11◆11人・前田一本木(今の天狗松) 上の馬捨場で捕縛。刑場不明。斬首か?
■稲沢・1人。
1◆1人・稲沢で捕縛。刑場不明。斬首か?
■桜田の中山・9人。
9◆9人。刑場不明。斬首か?水戸浪士の墓・桜田の中山、現中野内大谷の
大森家墓所の傍ら。水戸浪士9人之墓、1866年10月刃死。1916年5月施主。
初め3、次ぎは5、最後は9と修刻してある。道端に1人か2人埋まっていた。
大森氏の祖父が1916年、村内各所に散在する水戸浪士の霊を哀れに思い
篤志寄附を募り地区の了解を得て大森家の墓所に集めて供養。
1◆後藤梅輔 偽名か? 中野内原山辺で捕縛・刃死。
木彫りの踊る大黒天像・裏書 後藤梅輔・19歳。刻す。旧河原村、国井氏所蔵。
八溝山を降りた水戸浪士が一夜の宿を求めた。
国井家が隠し泊め優しくもてなした。翌朝、浪士は去り際に木彫りの大黒様を
礼として置いていった。その後に中野内原山で捕縛・刃死。
■花立松上・7人。
7◆7人。刑場不明。斬首か? 水戸士族7人供養塔。1864年9月大塚坪建之。
花立松上(天狗山)にあった。 9月八溝下山直後に捕殺。
若い身空で不憫なものよ、どこの誰だか知らないが親兄弟が聞いたら
どんなに悲しむかと、大塚坪の人が塚を築き葬った。
■無銘の墓標石・5人。
5◆人数不明。刑場不明。斬首か? □□ (水戸か) 士族、(梵字) 空子去□□・・
の戒名塔、無銘の墓標石など5基。
■女体処刑場・35人。
35■44人・田中隊外も含む。野州真岡の女体処刑場・打首。
八溝山〜磯上、入小滝、寺宿〜両郷村、伊王野村〜真岡送り。
真岡代官所処刑場御仕置場跡〜処刑場跡前の道端には晒し首があったという。
■15歳前後の少年・18人。
18◆18人・刑場不明。打首。惣十郎と竹松の名前あり。
11月25日・15歳前後の少年、思ひ思ひ短冊歌をよみいさぎよく被討死候由。
13歳ながら国事に殉じ、死出の旅路に立った。
■八溝山の上で解散した田中愿蔵隊は、
茨城で10人・福島で132人・栃木で164人・計306人。
ほぼ全員が捕縛され処刑されていると推定。
その遺骸は供養されず霊はさまよっている感じ。
新しい日本の建設に活躍した若者。冥福を祈る。
■田中愿蔵は人を惹きつける何かを持っていたのだろう。
以前、田中愿蔵の生まれた近くにある常陸太田市東連地の青蓮寺で
田中愿蔵と血縁関係のある猿田さんと話をしたことを思い出した。
優しく思いやりのある方だった。
■田中愿蔵の想い。
古里の 風のたよりを きかぬ間は
我が身ひとりの やみぞかなしき (田中愿蔵)
愿蔵、死、処を得ず、名空しく没すと雖も、
志、遙かに名顕はるる者に勝る。
■田中愿蔵は天狗党の中の尊攘激派・急進的過激派。
一般に水戸天狗党は敬幕による尊王攘夷を主張。
天狗党の急進派の筑波勢も、穏健派の大発勢も敬幕による尊王攘夷。
徳川御三家の水戸藩の家臣として当然の立場・態度。倒幕に走れぬ限界?
田中愿蔵は倒幕による尊王攘夷を主張した。
田中愿蔵の主張する 倒幕は正気の沙汰ではなく草賊のやること、
余りひどいから筑波より除名された。
■伊藤博文が慶喜に尋ねた。
維新の初め慶喜は尊王の大義を重んじたのは何故か。
慶喜はそれは唯庭訓を守ったにすぎないと答えた。
水戸藩は光圀以来尊王の大義に心を留めた。斉昭も同様の志。
常々諭された。我等は三家・三卿のーとして公儀を輔翼する。
朝廷と本家との間に争いが起こり、弓矢に及ぶことがあるかもしれない。
その時水戸藩は、なにがあっても、朝廷に対して弓を引いてはならない。
これは光圀以来の遺訓。
■田中愿蔵の生い立ち。
久慈郡東連寺村に生まれる。側医猿田玄碩の5男。
6歳で原忠の塾に学び水戸藩側医田中通碩の養子となる。
弘道館、江戸の聖堂に遊学し安井息軒に兵学を学ぶ。
幼少時より折り紙付きの秀才、19歳で時雍館(野口村) 館長に抜擢される。
1863年、14代将軍家茂の上洛に随従した藩主慶篤に従い京都へ上る。
京都で過激な倒幕論者の藤本鉄石と知り合う。
■田中愿蔵に対する風評・放火掠奪の暴徒。
■賊徒の長田中愿蔵は文武に通している。
悪鬼のようにいたるところで乱妨・放火している。
同勢合400人で村々を行軍している。農夫下座せざるもの盤鉄炮を以打倒す。
農夫恐怖して平伏す。暴威朝日の昇るごとし。常野の諸民憎まさるなし。
■1864年3月27日、
田丸稲之衛門、 藤田小四郎等と脱藩して筑波山に義挙。
天狗党に多くの人が集まり金・食料が不足した。
■1864年6月6日
田中愿蔵隊は野州栃木町で金・食料を募った。
金・食料集まらず。栃木町を放火・掠奪した。
■1864年6月21日
土浦城北の真鍋宿を襲撃して放火・掠奪した。。
■1864年7月3日・田中愿蔵隊は筑波勢より除名された。
田中愿蔵隊は部下に長脇差が多かった。
筑波勢の総帥田丸の統制に服せず到る処で富豪の家に押入り略奪した。
その狂暴には手のつけようがなかった。総帥田丸は怒り田中愿蔵隊を除名。
筑波勢が士民の怨を買い賊名を負い幕軍に討伐の口実を与えた。
これは田中愿蔵隊の暴挙による。
1864年8月・田中愿蔵は筑波勢総帥田丸稲之衞門の補佐役を拝命する。
■田中愿蔵隊、助川を敗走し、八溝山へ。
■1864年9月26日
助川城の戦い・日立市〜高鈴山東麓〜赤澤銅山〜木ノ根坂(入四軒村)〜
上深荻村・上深荻村の山横目椎名治部左衛門家などに分宿。
■1864年9月27日
小菅村泣手坂・冷水場で農兵と交戦〜陣場〜東金砂南麓〜東染村〜中染村〜
百目木橋・山田川渡河〜天下野村の寺入坪〜割石坪〜西金砂北麓〜
深串坪・諸沢村?田野平・北冨田村〜黒丸・盛金村〜上原〜総本坪・西金村〜
寄居〜西金宿・西金村の神長家など分宿。
田中愿蔵組170〜180人、西金村に一夜泊り。
■1864年9月28日
西金村〜川下・頃藤村〜舘〜横石〜大沢村〜切ノ草・栃原村堺〜高萱峠〜
株坂〜山田村〜芦野倉村〜初原村〜恵場ヶ沢?百合平・槇野内村〜四道〜岩崎、
生婦・一隊は分宿?〜梨ノ沢大金沢・土兵と交戦〜上野宮村宮本・土兵と交戦〜
大久保沢〜月柄峠・月ヶ原峠〜平草・中郷村〜堂ヶ平〜笠舟山・太神宮山〜
舟〜高笹山〜池ノ平山〜八溝山。
■1864年9月29日〜10月1日未明か。総勢330余名。
田中愿蔵隊八溝山上で兵糧得られず潰散す。
西金村で70両を持たせ別当へ西金村の鈴木民部を遣はした。
兵糧買入を託したが、山へ登り見れば3俵あるのみだった。
別当も逃亡、兵糧不足となる。
前途志を得ざるを悟り解散することに決し、
社頭に於て有り金を分配して面々随意に分散した。
神前に拝伏、我が運命これまでと山王権現奉納之品々。采配1本・大将甲冑2・
槍35本・刀脇差160本・鉄炮13挺・弓2張り・矢15本・鎧甲12。