21/10/3 那珂市 根本徳子と矯風会活動。
水戸歴史に学ぶ会 秋季講座 T
那珂市ふれあいセンターごだい。
齋藤郁子先生。
■根本徳子1867〜1943年。
父小川忠次郎・母静子の長女。
桜井女学校で学ぶ。根本正と結婚。
結婚後の徳子は留守の多い正に代わり家を守り子育てをした。
目立って主義主張を訴えることはなかった。
矯風会活動の第一目的の廃娼女性救済の思いを自覚し、
自分ができること・しなければならないことを行った。
■徳子の歩み。
1846年
徳子の祖父・水戸藩士桜任蔵35才と石黒春子29才結婚。
1848年
春子・長男申太郎を出産。
1849年
春子・長女静子を出産。春子の伯母浅井夫妻に預ける。
1851年
10月 根本正・常陸国東木倉村で誕生。
1858年
10月 桜任蔵・江戸を脱して西上する。
春子は静子10才を浅井夫妻に預け申太郎11才を連れ鹿島郡小沼秀美宅へ。
1859年
春子44才・申太郎12才・静子11才は御前山村長倉の庄屋大森家に住む。
1861年
春子46才・長倉大森家で病没・申太郎14才・静子13才。
1863年
正13才・豊田天功の家僕となる。
申太郎16才・静子15才は藤田健に引き取られる。
1866年
春雄(申太郎)19才は丹恒子と結婚。
静子18才は小川忠次郎と結婚。
豊田芙雄22才の夫・豊田小太郎暗殺される。
1867年
正17才・水戸藩南御郡方の役人となる。
4月 徳子誕生。
小川忠次郎没。
1868年
7月 静子21才・関直之介と再婚。小川忠次郎遺言による。
1871年
正21才・上京・藤田健宅に仮寓。
関と春雄は宮内省に出仕。
静子は関との間に1男1女を出産。
1872年
正22才・中村正直の私塾に入る・警視庁巡査になる。
1873年
中村正直が同人社を開校。
1874年
正24才・駅通寮の雇いになる。
1875年
正25才・同人社を退学・神戸局に雇いとして赴任。
1876年
桜井ちかが桜井女学校をつくる。
桜井ちかは夫と北海道へ伝道にいく。
9月 矢嶋楫子44才が校長代行・女性宣教師ツルーとデビスが先生。
1877年
正27才・横浜局に転任・判任官になる・ヘボン塾、バラ塾で学ぶ。
11月 東京女子師範学校開業。
1878年
正28才・受洗。
1879年
3月 正29才・渡米。
4月 正29才・オークランド市の小学校に入学。
カリフォルニア州バラスト一家で働く。
1880年
4月 桜井女学校・幼稚園を開園。
1881年
正31才・ホプキンス中学校に入学。
8月 徳子15才・桜井女学校へ入学。
先生方の子供たちも一緒だった。生徒数は多かった。
家庭の雰囲気があった。2階は教師の住まい・寄宿生の部屋。
1階は講堂・教室・一部は会堂ともなる。
英語志望者が多く14才〜40才位までいた。
生徒を人格ある一女性として認め、決して縛る必要はないと生徒を信頼。
細かい校則はなく外出は自由だった。
寄宿舎では起床・食事は時の鐘より1分でも遅れてはだめ。
遅れると皆が揃っているところへ入っていき恥ずかしい思いをした。
夕食後は庭の散歩・編み物・談話の自由時間を過ごした。
生徒は良妻・賢母でなく独立して女学校をつくる・学者になるといった。
結婚は話題にならなかった。
1885年
徳子19才・桜井女学校に在学中の時婦人矯風会ができる。
正35才・バーモント大学に入学。
1887年
10月 豊田芙雄43才・徳川篤敬イタリア全権公使総子夫人のお相手役で随行。.
1886年
徳子20才。
12月 東京日本橋教会で東京婦人矯風会発足。会頭矢嶋楫子・会員56名。
1887年
矯風会は、米国留学中の根本正を介し万国本部に設立を報告。
矯風会は、世上の悪風を矯正して女権の拡張を望むとした。
禁酒・禁煙・藝娼妓全廃論など多くの課題があった。
できることに限りがあるので藝娼妓全廃を第1の目的とした。
徳子は矢嶋楫子・女性宣教師らと幼い頃から生活を共にした。
矯風会の活動に参加し奉仕するのは自然のことだった。
アメリカから伝道のため来た女性宣教師ツルーに出会う。
ツルーの精力的な活動に接し徳子は自分にできる慈善事業を日課とした。
英語は徳子ら高等科の生徒が授業をした。
赤い帯・裾長の洋服・靴履きの装いは下級生の憧れだった。
1888年
4月 高田女学校創立・デビス・井上ちせ・小川徳子22才で赴く。
開校前の仮校舎で教え、5月本開業までの準備を進める。
1889年
6月 正39才・バーモント大学卒業。
6月 徳子23才・桜井女学校卒業。
徳子23才・桜井女学校附属小学校で教える。
8月 芙雄45才・西フランス。
9月〜10月 正39才・英独伊を歴訪。正・国会議員・名士らと会う。
11月 廃娼運動・群馬県県議会が廃娼建議を可決。
12月 徳子23才・高田女学校で教える。
12月 芙雄45才・総子夫人に伴い帰国。正39才も同行。
1890年
1月 正40才・帰国。
3月 東京禁酒会設立。
8月 徳子24才・高田女学校退職。
9月 正40才は徳子24才と結婚。媒酌人・豊田芙雄、保証人・安藤太郎夫妻。
正はアメリカ留学中から婦人禁酒会の事業に関わる。
アメリカの万国婦人禁酒会と東京の婦人矯風会の仲介をした。
帰国後、廃娼運動・禁酒運動を展開、各地を遊説。
11月 東京禁酒会 会長安藤太郎・副会長根本正。
1890年
3月 矯風会は島田三郎、巌本善治らの講演会を開く。
講演内容を小冊子初版1000部無料配布、再版は4銭で領布。
3月 前橋で青年廃娼協議会を結成。
矯風会から潮田千勢子・佐々城豊寿が出席、各地で廃娼運動高まる。
廃業した娼妓を引き受ける救済館が必要だった。
麻布市浜衛町の女子授産場で廃業した娼妓を引き受けた。
保護金をつけ無月謝で和洋裁・和洋刺繍・編み物などの職業教育をした。
作った作品を販売・収入の半分を生徒に渡す運用とした。
1891年
5月 長男美倫誕生。
1893年
4月 東京婦人矯風会を日本キリスト教婦人矯風会と改称。
会頭矢島楫子61才・記録書記竹越竹代・通信書記根本徳子27才他。
全国組織が成立。本部・東京の女子学院内に置く。
7月 正43才・移民調査のためメキシコへ。
1894年
4月 豊田芙雄50才・翠芳学舎を開校。申請書に徳子28才の名前あり。
10月 東京知事から認可。翠芳学舎の命名は藤田健。
徳子の受け持ちは縫物と編み物。
7月 正44才・中南米視察に出発。
廃娼運動は活発になり、女性救済のための慈愛館設立を計画。
スペンサー、キダー、ヤングマンら宣教師は外国からも寄付を募る。
国内の募金活動が始まる。
矯風会は婦人矯風雑誌8号の巻頭に女子慈愛館設立趣意書を掲載。
次号に博愛なる諸兄姉に訴えるを掲載。
府下大久保に適切な土地があるが所持金は数100円・土地は1,800円。
義援金を募る。
その取扱い所に国民新聞・朝野新聞・毎日新聞・キリスト教新聞があった。
7月 本田貞子・原田さき子・根本徳子を地主に選出。
地主が土地所有者は矯風会という証文を入れる。
手持ちの300円に借受金400円を加えて700円を支払い登記を済ます。
残金の1000円を9月中に支払わなければならない。
潮田千勢子が400円、矢嶋楫子が300円を立て替え。
在日西洋人有志者の530円・スペンサー遺族の100円。
新聞記者の竹越竹代は、名士の家を訪ね募金を依頼した。
竹越は日本で初めての女性記者。3円5円と皆気持ちよく応じてくれたという。
竹越は募金の傍ら聖書を携えていき伝道までした。
徳子は矯風会に月5円の寄附を決心した。
資金は貸家を数軒建てその家賃収入と切手の販売手数料を当てた。
建物は未だだった。
娼妓に売られかけた娘を預かり家事を見習わせ慈愛館の開館を待った。
下着の世話までしなければならない娘もいた。
矢嶋楫子は娼妓の根源にある貧困を考えた。
貧しいために娼妓に売られ学校へ通えない娘。
社会から貧困をなくすのは難しい。
子守学校をつくり子守をしている娘たちに教育を受けさせる。
無知ゆえの転落を防げると考えた。
1895年
3月 正45才・中南米視察から帰国。
翠芳学舎閉校。
4月 豊田芙雄51才・宇都宮高等女学校兼栃木県尋常師範学校教諭兼任。
1896年
7月 正46才・北米・中南米商工業視察に出発。
1898年
3月 正48才・第5回総選挙に自由党から立候補・初当選。
1899年
2月 正49才・国民教育授業料全廃建議案可決。
5月 正49才・インド・ビルマの商工業視察。
12月 正49才・未成年者喫煙禁止法案可決。
1903年
4月 豐田芙雄58才・茨城県女子師範学校舎監。
8月 豐田芙雄58才・茨城県立水戸高等女学校教諭兼茨城県女子師範学校教諭。
1906年
正56才・公立幼稚園保母に恩給を与える法案成立。
日本キリスト教幼稚園連盟創立。
1908年
3女直子没。
1909年
8月 長男美倫没。
1911年
9月 次男正次没。
1912年
4月 豊田芙雄68才・茨城女子師範学校舎監解職。
1917年
3月 春雄70才没。
5月 豊田芙雄73才・水戸高等女子学校講師嘱託。
1921年
9月 正72才・中国・満州・朝鮮を視察。
1922年
関東大震災。
4月 豊田芙雄78才・水戸高等女学校講師解職。
1924年
5月 正74才・政界引退。
1925年
豊田芙雄81才・大成女学校校長。
1927年
豊田芙雄83才・大成女学校退職。
1933年
1月 正81才没。
1935年
豊田芙雄91才・小太郎の墓を京都より常磐共有墓地に移す。
1941年
豊田芙雄97才没。
1943年
11月 徳子77才没。
■両親の思い出・光をかかげた人。次女・角谷園予。意訳
母は父にふさわしいひとだった。
父の海外出張の留守手当で貸家を建て家の経済の基をつくった。
家事に専心、外出ば矯風会のために出るくらい。
桜井女学校の寄宿に入り外人教師の教育を受けた。
当時は日本女子がためされ時で、同じ事は二度聞けなかったといっていた。・・・。
■祖母根本徳子のこと 孫 根本正廣。 意訳。
控え目で祖父の陰の力であった。家の中では主柱だった。
家の者を誉めても叱った姿は見なかった。
・・・祖母のノートばペン習字のように、正確で美しい字が書かれていた。
・・・祖母の箪笥の中に何段にも分けて雑巾がしまってあった。
それは解いた着物の糸で縫ったものだったと母から聞いた。
■宮尾登美子作品の芸妓娼妓。
岩伍は高知市で40年近く芸妓娼妓紹介業を営んでいた。
妓供を遊廓・料理屋に周旋した。
■岩伍の話。
家のため親のためやむなく身を落す女、身売は家の貧乏を救済のため。
県議会で廃娼運動を唱える議員がいる。
流行り病いのように同じ事を唱える。
しかし、廃娼には第一に貧乏人が楽に暮せる世の中が必要。
高知市の貧民窟を知れば、廃娼は貧乏人は皆死ねということ。