21/9/25 那珂市本米崎
上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
平野俊興師。千葉県 中原寺前住職。
[ ]はhp制作者メモ。
■御聴聞の心得・・・全員で。
一、今日のこのご縁は、初事と思うべし。
一、今日のこのご縁は、我一人のためと思うべし。
一、今日のこのご縁は、今生最後と思うべし。
■ご讃題
[聞きとれなかった・元照律師・教行信証行巻から
以下のご讃題だった??]
元照律師のいはんやわが仏大慈、
浄土を開示して慇懃にあまねく諸大乗を勧属したまへり。
目に見、耳に聞きてことに疑謗を生じて、
みづから甘く沈溺して超昇を慕はず。
如来説きて憐憫すべきもののためにしたまへり。
■千葉県中原寺の今月の掲示板の言葉。
スマホを見る時間はありますが 我が子を見る時間はありまか
掲示板大賞がある。そこにある言葉。
雨の日は 雨の生き方がある
縁があって出会う そこで生きる生き方がある。
コロナ禍のなかで生きる生き方がある。
■日本人の平均寿命は女性が88才?、男性が82才?
健康寿命74才? 年をとったら何をする?
お茶の言葉に一期一会がある。出会いのご縁を大切にしたい。
年をとるのは大事。
どんな人にでも老病死は確実に待っている。
聴聞が一番よい。
■阿弥陀様はどこにいるのか?
念仏申すところに阿弥陀様はいる。
なぜ念仏なのか? ただ念仏なのか?
日々私の口から出ているのが念仏。
念仏申す人生を送らせていただく。
阿弥陀様の願いは念仏。
我が名を呼べ。南無阿弥陀仏。
■Youtubeをやっている。
釈尊は何をいっているのか、中村元先生のスッタニパータの解説きいた。
釈尊はわかりやすいことばでやさしく説いた。
釈尊がなくなって後の人が経典が作った。
最近の学者といわれるひとは難しい言葉で解説・難しくしている。
■病気になったら 病気になったときの過ごし方がある。
心を制してひとつの方向に向かう。
法然上人は、救われないひとはいない、
釈尊のことばを信じなさいと説いた。
それを受けついだのが親鸞聖人。
本当に念仏だけで助かるのか。往生できるのか。
■歎異抄2条
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、
たづねきたらしめたまふ御こころざし、
ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、
また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめして
おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。・・・
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。・・・
■元照がんじょう1048〜1116年。
北宋代、浙江省杭州市の人。南山律を再興し南山律宗の16祖。
若い頃は浄土教に否定的だった。
30代半、重病にかかり死後の不安を感じ浄土教に帰依した。
戒律と浄土教の研鑽と教化に励んだ。
阿弥陀仏の本願による易行の称名念仏を衆生に勧めている。
元照の戒律思想は鎌倉期以後の律学に影響を与え、
その浄土教は、法然上人の門流の諸師に注目された。
親鸞聖人は教行信証行巻に引用している。
■林暁宇は北海道生まれ。肺結核で自宅療養。
仏教誌で病弱の念仏者・赤禰貞子を知る。
それが縁で念仏に関心を持つ。暁烏敏に会い明達寺に入り得度する。
■自分へのわざわいの原因は自分の中にあるとは思わない。
■念仏申すところに阿弥陀様はいる。
わが名をよべ・南無阿弥陀仏。
無限の聖徳がある。
念仏すると阿弥陀様の心が私の心にみたされる。
■六道輪廻のなかを巡っている。
■母の乳をのみ安心して子は育つ。
阿弥陀様は親さま。念仏申すところに阿弥陀様はいる。
すべてのものに届けられている。
私たちは常識で生きている。不可思議は常識ではない。
弥陀の誓願、すなわち摂取不捨。
■仏法の不思議
曽我量深は仏法の不思議に2つあるという。
親鸞聖人は5つあるという。
自然科学の不思議・科学の不思議
不思議は 仏法不思議。
それが本当に分かった時は頭がさがるだけ。
私の口から念仏がでる不思議。
阿弥陀様のいる不思議とは詮索しないこと。
そのままいただくこと。
[煩悩にみちた私には考えてもわからない世界。そのままいただく]
■歎異抄1条
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり。
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、
ただ信心を要とすとしるべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
念仏にまさるべき善なきゆえに。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆえにと。
■昔は線のつながりだった。
私がいて親がいてそのまた親がいてとつながっていた。
今は点の関係であるように感じる。
釈尊は縁起の世界、線の世界。
■木も山も人より大先輩。大先輩に頭が下がる。
人は傲慢に生きている。
■年をとって働けなくなった。
畑を山に返しますといったおばあさんがいた。
仏さまのことばに思えた。
■常識ではない。
だから私の耳に入ってこない。
■歎異抄4章
慈悲に・・・。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、
大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、
この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すえとほりたる大慈悲心にて候ふべきと。
浄土門の慈悲は、念仏してすみやかに仏となり、仏のものさしで見る。
慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救う。
念仏することだけが大いなる慈悲の心。念仏の中にいる。
大きないのちにつつまれている。
■親鸞聖人が比叡山で修行時代。
町に出かけ帰る途中、麓にたどりついた。
その時、一人の女性に山に連れていってと懇願された。
比叡山は女人禁制のため断った。
女性は山には鳥や獣のメスもいる、仏教は誰でも救う教えでないのかといった。
親鸞聖人は自分がやっていることは何なのかと疑問を抱いた。
■彼岸。
迷いの世界のこちら側の岸からさとりの世界の彼岸に到る。
彼岸は仏さまの世界、さとりの世界。
そこで終わりでない。そこからはじまる新しい世界がある。
■澄浄心ちょうじょうしん。
サンスクリット語のチッタ・プラサーダは信心と訳されている。
もともとの意味は水が澄む・こころが澄むという意味がある。
澄浄心ということ。
煩悩の濁りが澄んでくると、徐々に侵入してくる弥陀のこころ。
見えないものが見えてくる。
■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、仏のかたり往生は治定せしめたまふ。
その位を一念発起入正定聚と釈し、そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ、あなかしこ。
■住職のはなし。
互いに生きている。念仏により点が線になる。
自分だけでない。皆がつながっている。
■上宮寺山門前掲示板の言葉。
あなたが今洗っているお茶わん
それが今生における最後の仕事だと思ってしなさい。
それが仏教の教えだ。
?鈴木大拙?
そう思うことによって日常の一切が貴重であり輝いてきますね
南無阿弥陀仏 合掌