21/8/25 那珂市本米崎 
上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
稲木義成師・宇都宮市観専寺副住職。
[ ]はhp制作者のメモ。
■御聴聞の心得・・・全員で。
一、今日のこのご縁は、初事と思うべし。
一、今日のこのご縁は、我一人のためと思うべし。
一、今日のこのご縁は、今生最後と思うべし。

■ご讃題。
本願力にあいぬれば 
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 
煩悩の濁水へだてなし

[高僧和讃。
本願のはたらきにあったならば、
迷いの生死を過ごす人はいない。
功徳が宝の海のように満ちみちて、
私の煩悩の濁水が浄土にいく妨げにならない。
阿弥陀如来の本願力を信じれは功徳に恵まれ、
煩悩があっても迷いの生死を繰り返さない。
本願力を信ずる人は浄土へいける。
本願力は南無阿弥陀仏の名号による救済のはたらき]

■浄土真宗のみ教え。
阿弥陀如来がすべてを準備してくれた。
[南無阿弥陀仏
「われにまかせよ。そのまま救う」
が阿弥陀如来のよび声。
私はいただいて身をまかす。 
私は浄土真宗のみ教えを依りどころに生きる。
私たちのちかい。
一 自分の殻に閉じこもることなく
  穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
  微笑み語りかける仏さまのように
一 むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一 自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲に満ちみちた仏さまのように
一 生かされていることに気づき
日々に精一杯つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように] 

■真宗の救い。
[浄土真宗の「すくい」とは、
阿弥陀如来の心に遇って(信心)
「まもられ」・「すくいあげられ」て、
浄土への人生を歩ませていただく。
この身終わって仏に成らせていただく。
親鸞聖人は仰せになる。
信心の定まるとき往生また定まる。 
信心いただくそのときに、
たしかな救いにあずかる。
如来は悩み苦しんでいる私を、
そのまま抱きとめて、決して捨てることがない。
本願のはたらきに出あうそのときに
煩悩をかかえた私が必ず仏になる身に定まる。

阿弥陀如来の本願は 
かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となり 
たえず私によびかけます

このよび声を聞きひらき 
如来の救いにまかすとき
永遠に消えない灯火が 
私の心にともります]

■ある先生。
阿弥陀如来は法蔵菩薩のとき48の願をたてた。
私を救うために大変長い間修行をしてくれた。
一つめの願。
「たといわれ仏を得たらんに、
国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」 
わたしが仏になるとき、わたしの国に
地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、
わたしは決してさとりを開かない。

[地獄、餓鬼、畜生の3つの世界を三悪道という。
*地獄。
苦しい世界、共に生きるものでありながら、
いつも傷つけ合う生き方をしている。
*餓鬼。
飢えによる苦しみの世界。
食べ物や飲み物があっても食べられない。
骨と皮だけになる。
不平不満の中に生きている。
*長いハシをつかって食事をする話。
食卓に食べ物と長いハシが置いてある。
ある集団は自分でハシを使い食べようとする。
ハシが長く口に食べ物が届かず食べられない。
飢えによる苦しみの世界。
別な集団は向かい合って座って
互いに長いハシで相手の口に
食べ物を入れてあげた。
豊かな世界。

私は周りの多くの人・生き物等のお蔭で生かされている。
そのことに気づかずに自分本位で生きている。
自分本位の生き方では、
この世は苦しみの世界になる。

*畜生。犬や猫などと同じ
弱肉強食の世界 ]

[私の住む世界は地獄・餓鬼・畜生に近い。
しかし私自身で地獄・餓鬼・畜生の世界に
近くしているのかもしれない。
私の生き方を見直すことで私の住む世界は
地獄にも浄土にもなるのかもしれない。

真実を知らない私。阿弥陀の願いは
このような私を救ってくれる。

人に手をあげ・人に頭を下げたくない・
きれいな言葉はでてこない。
しかし阿弥陀如来を前にしたとき、
手を合わせ・頭をさげ・口は念仏を称える。

[親鸞聖人が示す念仏のみ教え。
「必ず救う、まかせよ」という
阿弥陀如来から信心をいただき、
念仏申す一生を送らせていただく。

念仏は私がしようと思ってしているのではない。
煩悩だらけの私を念仏申す者にしようとする
はたらきがあるから、今、私が念仏している。
それが阿弥陀如来のはたらき]

努力して念仏するようになったのではない。
親鸞・蓮如・御先祖のみ教えがあり
今念仏がとどいている。

仏事・法事・法座・法要
伝えることば仏のおみのり・み教え。
いのちをくれた先祖・
先祖が私に阿弥陀如来に会わせてくれた。
念仏を私に残してくれた。

■10年前から法話の聴聞にきてくれる夫妻。
10年前に中学生の息子をなくした。
悲しみの中で生活していた。
毎月法話にきてくれた。
今年4月頃、
10年前は小学生だった娘が成人したので
阿弥陀如来に報告にきた。
阿弥陀如来の前で報告した。
お勤めの途中、母親が少し泣いていた。
成人した娘に母親はいった。
「生きていてくれてありがとう」
「一緒にお参りありがとう」
息子が亡くなって10年。
[息子が両親に阿弥陀如来に
あわせてくれる縁を作ってくれた]
息子が念仏を伝えてくれた。
阿弥陀如来に感謝。願いの中に生かされている。
命を終えて夫妻に気づかせてくれた。
法事は仏の教え・はたらきに
出会わせていただく。

■年1回寺にきてくれる先生。
先生が寺で倒れた。
救急車がきてストレッチャーに先生をのせる。
「ナマンダブツ」と先生が称えた。
「まだ早い」と救急士はいった。
「ナマンダブツ」のとらえ方が違う。
「ナマンダブツ」は
亡くなるときだけとなえるものではない。
呪文・呪いでもない。

[法蔵菩薩は48の願をたて阿弥陀如来になった。
願いの根本は第18の願。
「われにまかせよ、わが名を称えよ、
浄土に生まれさせて仏にならしめん」
阿弥陀如来は、私を救わんとしてつねに寄り添い、
南無阿弥陀仏のよび声となり、
われにまかせよとはたらき続けている。
このはたらきを他力といい、本願力という。

私は阿弥陀如来の本願のはたらきに身をまかせ、
念仏を申し、阿弥陀如来の慈悲につつまれ、
浄土への道を歩む。
阿弥陀如来は、私を救いたいと願い、
南無阿弥陀仏の名号を完成した。
名号は、阿弥陀如来の智慧と慈悲をそなえた、
救いのはたらき。
親鸞聖人は阿弥陀如来の名号を、
本願招喚の勅命なりという。
南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」
との阿弥陀如来のよび声。
阿弥陀如来は、偽りと真実の見分けのつかない私を哀れみ、
名号による救いを選んだ]

私の方が忘れていても、
忘れて下さらん阿弥陀如来がましました。

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられ候ふ。
そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたり往生は治定せしめたまふ。
その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし
御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ、
あなかしこ。

■上宮寺山門前掲示板の言葉。
ご恩報謝とは   
恩を返すことではなく
ご恩を
無駄にせぬことである 

―無駄に生きないことです
 まず御恩を知り
 頭が下がること

住職のはなし
念仏
そうだった
そうだった
忘れてしまっても
救って下さる阿弥陀様。