21/8/1 那珂市 渋沢栄一と徳川慶喜公伝。
水戸・歴史に学ぶ会夏季講座。
那珂市ふれあいセンターごだい。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者のメモ。
■渋沢栄一・1840〜1931年。
■1840年・1才。
2月13日・武蔵国榛沢郡血洗島村
(現・埼玉県深谷市)に父・渋沢元助、
母・ゑいの長男として生まれる。
家は藍玉の製造・販売、
養蚕・米・麦・野菜を生産。富農だった。
[藍玉は藍の葉を発酵・つき砕き固めたもの]
栄一は父と信州・上州に藍玉を売った。
原料の藍の葉の仕入れもした。
剣術は大川平兵衛より神道無念流を学んだ。

■1843年・4才。
祖父と水戸藩仙波原の追鳥狩を見物。
斉昭の雄姿に敬服・尊敬。
後に水戸学に傾注・新論などを読む。
■1844年・5才。
父から漢籍の手ほどきを受ける。
■慶喜公追鳥狩の随伴。
3月 仙波原の追鳥狩に、
慶喜公は陣羽織・陣太刀を佩き、
未明より追手の橋詰に床机を立て・・・
夜に入りて帰城あり。
日頃健気におはせども、未だ8才の幼年とて、
一日の軍旅に疲れ果てさせ著服を脱ぐと其の儘、
早くも寝入り給へるを、
斉昭笑ましげに御覧じて、
躬ら抱きて奥に入り、
揺り起こして尚も勉め励まし、
夜食の相伴を命じ給へり。

■1846年・7才。
従兄の尾高新五郎の許で、
論語・四書五経・日本外史を学ぶ。
■1853年・14才。
単身で藍の葉の仕入れに出かける。
父と江戸見物・ペリー黒船騒動を体験。
アヘン戦争談を読み清国に同情。
攘夷思想を抱く。
■1855年・16才。
岡部陣屋で御用金の上納を命じられ反発。
■1858年・19才。
12月 尾高千代と結婚。

■1860年・21才。
3月 桜田門外の変で井伊直弼死去。
斉昭の嘆息。
・・・高松等が無用の干渉を為せる結果なり。
さりながら、掃部頭たとひ宜しからずとも、
将軍家の御信任厚き宰相なり、
それを殺害するとは、不届至極、言語道断・・・
慶篤に書を寄せて、掃部頭の横死を悼み、
「万一今回の変事の為に、
彼の家断絶に及ぶこともあらば
気の毒なり。・・・幾重にも老中等へ頼み遣わし、
・・・旧怨を棄てて格別懇親にし、
力を協せて宗家の為に尽くさるべし」と訓諭。
■1861年・22才。
3月 江戸へ。千葉周作道場で3か月間学ぶ。
11月 本庄宿を和宮降嫁の輿が通過・世情緊張。

■1862年・23才。
9月 攘夷の勅諚。
11月 家茂は攘夷勅旋奉承を奉答。
■慶喜公は攘夷反対・開国論を抱く。
[世界の各国が仲良くする今日、
日本だけが鎖国をするのはよくない。
日本も世界と仲良くすることを朝廷に言いたい。
今締結している条約は大老阿部・堀田・井伊が対処、
外国に屈した形で朝廷の許可なく調印した。
日本としては不正な条約という人がいる。
しかし国と国が結んだ条約となっている。
条約を破却するべきという意見もある。
しかし外国からみたら正しい条約となる。
条約の破却は国と国の戦にもなる]

■1863年・24才。
水戸藩攘夷派、上州武蔵周辺に同志を募り周遊。
藤田小四郎の筑波山挙兵に同調する
金井国之丞(敦賀で斬罪)ら
尾高の練武館に来村・攘夷の風起こる。
5月 栄一は江戸へ。
学友の喜作成一郎は千葉道場。
喜作は「一橋領内百姓で、武芸の心得のある者に
新規召し抱えの命」を知る。
また一橋家家来の川村恵十郎と面識があった。
喜作と栄一は、川村の紹介で平岡円四郎と会う。
一橋家家来への感触を得る。
9月 帰郷。
10月 京より帰郷の尾高長七郎の情報より
幕府の攘夷実行に疑問を持つ。
高崎城乗っ取り・横浜焼討を断念。
11月 栄一は農を捨て身を国事に委ねる、
それには賢君に仕えることを決心する。
江戸から京へ・平岡に面会。
■1864年・25才。
2月 慶喜公に内覧・奥口番に採用される。
5月 栄一は一橋家関東人選御用になる。
関東近辺の一橋領内から歩兵を募る。
6月 平岡円四郎が暗殺される・43才。
8月 禁門の変に対し第一次長州征伐・栄一随従。

■1866年・27才。
6月 仏国公使ロッシュが幕府をパリ万博に招待。
6月 第二次長州征伐・栄一随従。
8月 慶喜公が徳川宗家を継ぐ。
12月 慶喜公将軍職を拝命、栄一は幕臣となる。
栄一は幕府衰亡時期の慶喜公将軍職就任に反対。
■1867年・28才。
1月 昭武がパリ万博へ出発・栄一随従。
パリでの夜会で日本の身分制と比較して
自由な談論の風景に感嘆する。
■[慶喜公は仏国ロッシュの支援を断る。
日本では、朝廷の命令にはよく従う。
徳川家が朝廷を敵として戦えば、たとえ勝利しても
末代まで朝敵の悪名を免れない。
徳川家に尽くしてくれた大名も勅命に従う。
徳川家への義理・人情で加担する者もいる。
国内は戦いの場になり多くの国民が大変になる。
これ最も慶喜公が忍びざるの心。
(忍びざるの心は、幼児が井戸に落ちそうに見えれば、
心配する心が自然と生じるようなもの)
徳川家は衰えてきた。皇室に従う。
皇室の裁断を待つのみ。
江戸に帰ってから心の迷いはない]

■1868年・29才。
1月 栄一は外国奉行川勝の連絡で大政奉還を知る。
2月 仏国新聞より鳥羽・伏見の戦いで幕府軍敗北を知る。
3月 慶喜公の手紙。政権返上以降の状況・
「恭順」姿勢・昭武の留学継続しろとあった。
■この頃の栄一の感慨。
徳川昭武書簡草稿・昭武の立場で記す。
鳥羽・伏見の戦いは
「至誠の公道」天下の所望する所。
戦を始めた後、江戸へ帰府後は恭順、
考えが徹底していない。
神祖以降三百年の御鴻業、
一朝にして御自棄為されては、
到底御挽回は成し難し。
■慶喜公の冤罪、幽暗の中、
誰が慰めてくれるか。
4月 従兄尾高新五郎の書簡。
王政復古後の国内混乱・
慶喜公の恭順と水戸での謹慎状況、
自分は渋沢成一郎や平九郎らと
水戸へ行って陪従の意思を伝える。
4月 外国奉行栗本ら帰国。
昭武・渋沢ら7名は残留。
12月 昭武・栄一ら帰国、
栄一は静岡駿府へ。
12月 慶喜公は昭武の仏国留学・
欧州巡回中の実況を細かに聞く。
栄一は前年拝謁時と慶喜公の境遇の違いに悲憤。
慶喜公は政変に関する不満不平を言わない。
恬淡にして唯謙抑の態度を見る。

■1869年・30才。
栄一は勘定組頭、歩兵取立御用掛。
商法会所創設に奔走・商法会所頭取になる。
5月 箱館戦争終焉。
榎本武揚ら東京へ収監・1872年5月赦免。
9月 慶喜公謹慎解除。
戊辰戦争の際に何故に
「一意恭順謹慎、性命是れ従う」
「聊かも弁明無し」という事に決心したのか。
■慶喜公、駿府に遷り給ひてより、
宝台院にましますこと一年余なり。
10月 府中紺屋町の元代官屋敷に移る。
10月 栄一大蔵省に入る・東京へ。
11月 大蔵省に出仕することは、 新政府に奉仕すること。
辞退は朝命に背くと静岡藩庁も出仕の命令。
大蔵大輔大隈重信曰く、
「階級制度の打破を叫んでいたではないか。
静岡・長州・薩摩藩など論じていないで、
日本を我が物と思ってくれ」

■1873年・34才。
5月 大蔵省を辞任。
7月 国立第一銀行を設立する。
■1880年・41才。
5月 慶喜公、正二位に復する。
■1887年・48才。
栄一が慶喜公の真意を知ったのは48才以降。
旗揚げは国家に混乱を生じさせる。
国民に塗炭の苦しみを与えるのみ。
恭順はすべて国家を思う心からである。
偉大なるご人格ではないかと
益々尊敬の念切なるものあり。
■1888年・49才。
3月 慶喜公、駿府府中の西深草町に移る。
■1889年・50才。
藤田東湖の墓前に焼香。
5月 瑞竜参拝、
慶喜公は追慕の至情止め難く、涙を落とす。
・・・やがて東湖の墓前に至り、
懇ろに御焼香ありて一拝し給えるさまは、
児等が亡父の墓前にて拝跪するよりも鄭重なり・・・

■1893年・54才。
■斉昭親筆の前に端座。
1月 母文明夫人逝去に付き瑞竜に葬送。
額田の寺門治兵衛宅に泊まる。
座敷にいく、連日の疲労もあるのに、
端然として正座している。
くつろだ様子がない。
治兵衛は深く恐懼しる。
やがて掛軸のためとわかった。
掛軸は斉昭の書いたものだった。
掛軸を別なものにした。
慶喜公は始めて御安心のさまにて、
くつろがせ給いきという。
■栄一は明治維新時の慶喜公の真意を
後世に伝えるために伝記編纂を計画。
1893年の夏秋の頃 旧友福地源一郎と討論。
慶喜公の大怨魂を後世に申雪する工夫はないかと
伝記編さんの件を述べる。
福地かって思う「幕府の歴史編纂を。
公明正大の筆を以て慶長元和より
慶応・明治の終りまでの歴史を書きたい。
維新後の歴史は、とかく徳川家を講証することのみ伝わる。
実に後世を誤るのみ」と。

■1897年・58才。
11月 慶喜公東京巣鴨に移る。
栄一は慶喜公が駿府在住30年間、
隔年ごとに静岡に参りて、
慶喜公の安否を候するを怠らず。
慶喜公も栄一のくるのを喜んで、
懇ろに御物語あるのみならず、
御前に於いて御料理を下されたこともある。
■1901年・62才。
慶喜公麝香間祗候となる。
■父祖の遺訓遵守
栄一は大磯から汽車に乗った。
同じ汽車に伊藤博文がいて話をした。
伊藤「あなたはいつも慶喜公を称讃している。
私は大名の頭くらいとしか思っていなかった。
しかし一昨夜、慶喜公の非凡なことを知った。
栄一「それは何ですか」
伊藤「一昨夜、有栖川宮がスペイン国王侯を饗応した。
慶喜公も私もその場にいた。
客が帰った後、私は慶喜公に尋ねた。
維新の初めに慶喜公は尊王の大義を重んじた。
どのような動機があったのか。
慶喜公は迷惑そうに答えた。
それは唯庭訓を守ったにすぎない。
水戸は光圀以来尊王の大義に心を留めた。
斉昭も同様の志。常々諭された。
我等は三家・三卿のーとして公儀を輔翼する。
朝廷と本家との間に争いが起こり、
弓矢に及ぶことがあるかもしれない。
その時我等水戸家は、なにがあっても、
朝廷に対して弓を引いてはならない。
これは光圀以来の遺訓。
絶対に忘れてはいけない。
幼少時は深く分からなかった。
20才の時小石川邸に行った時、斉昭は容を改め、
今や時勢は常に変化している。
これからどうなるか、心もとない。
慶喜は20才になった。
よくよく父祖の遺訓を忘るなといった。
この言葉は常に心に銘じた。
だから唯それに従った。
慶喜公の非凡なことを知らされた」

■1902年・63才。
慶喜公侯爵
■1904年・65才。
福地が代議士となり、その後病を得て編纂事業中断。
■1907年・68才。
三上参次、萩野由之らを監修者として編纂再開。
■1910年・71才。
6月 栄一男爵。
■1918年・79才。
徳川慶喜公伝・全8巻を刊行。
■1931年・92才。
11月11日死去。

■徳川慶喜公伝刊行の意図。
徳川慶喜公伝は、栄一が刊行した伝記。
編纂は、栄一邸などで行われた。
勝者の薩長はよくて、敗者の幕府は悪いの史観を否定。
明治新政権の誕生は慶喜公の大政奉還による。
慶喜公も会津藩ら諸藩もみな尊王であった。
■栄一は大政奉還をパリで聞いた。
慶喜公は何故大政奉還をしたのか。
「幕末政変の事実、
王政復古は結局慶喜公の大勢看破の明と、
大事決断の勇と、忠君愛国の誠とが、
与って力あるという事だった。
慶喜公の愛顧を受けた私の名によって
編述したものではあるが、
栄一が慶喜公に直接伺い、
毎回数回会同して種々の疑問点を聴くこともでき、
慶喜公の前でも討論もできた。
■維新の政変のような大事の対応。
私を棄てて公に向うこと。
国家に対する犠牲・忠君愛国・
それは大なる犠牲的精神。
私を棄てて公につくす。
功労と認められず、報酬を望まず、誉められず、
侮辱されても、心を動かすことなく、
国家の為に身命をなげることである。
これが維新の政変のような大事の対応である。
慶喜公はこれを実践した。
■慶喜公は国難を一身に引き受けた。
終始一貫して生涯を終えた。
偉大な精神は、実に万世の手本。
犠牲的観念の権化である。

■慎みて接するに、公もと英雄の資、
胸に絶大の経綸を蔵し、
奇才縦横、弁舌亦流るるが如し。
其の幕府の未造に当たり、
身を挺して国難を処理、
剛毅果断、大局に処してその道を誤らず、
政権を平和の中に奉還。
幕府有終の美を挙げ、謹慎を兵馬の間に堅持して、
国家興隆の気運を速ならしめたり。
その出処進退悉く皆君国を思うの念に出でて、
身の毀誉安危を顧み給わざりき。
公の退隠せられしは、春秋まさに32、人生最も有為の時・・・
■慶喜公が遺憾なくその英資を発揮せられしは、
公の前半生なり、前半生の余勇を移して、
自らその鬱勃の鋭気を葬られる。
・・・公の進退出処、
共に国家に関すること此の如く、
公は殆ど武家政治七百年の局を結ばんがために
生まれ給へるものに似たるは、
或いは天の公を此の際に降ろして、
皇国の為に難局収拾の大任を負わしめ給へるものか。
■慶喜公の生涯は、政権を奉還して
皇護を賛襄し給へるに終わりを告げた。
明治の御代に、公は旧功を顕彰せられて、
遺勲を加え栄爵を賜った・・・

■読書嫌いと譴責。
慶喜公は幼いとき読書嫌いだった。
廻りの人はこれを憂いた。
様々に諌めても効果なし。
懲らし奉る外はない。
「もし読書を嫌がれば、指に大きなる灸を据えるべし
・・・度々に及びて、 後には灸点ただれて腫れあがった。
公は悔悟の状も無く、・・・ これを斉昭に伝えた。
「捨て置くべかららず、余が命なりと申し聞かせ。
座敷牢をつくり押し籠め置た。・・・
この後は読書を励み・・・
さながら別人のようになった。
水戸藩では、公子たちの懲戒に三等ある。
軽きは譴責、中は灸点、重きは座敷牢。
■寛大仁慈。
慶喜公は何事も慈悲深く、
人の過ちを咎め給はざりしき、
毎年夏の頃は佃島にて狼畑を打ち揚ぐる例にて、
或る年慶喜公も一橋邸の火の見に上がり
これを見ようとした。
小姓猪狩勝三郎が先を歩いた。
慶喜公はその後を進んだ。
階段を登る。
勝三郎の足が、慶喜公の顔に当たった。
慶喜公は何も言わなかった。
勝三郎は恐懼措く所を知らず、
直に小姓頭取に話をし、自殺しようとした。
小姓頭取は押し止め慶喜公のところにいった。
慶喜公は「勝三郎は悪くない。
私が余りにも急ぎ過ぎた。
手摺に突き当り少し鼻血が出た。
それも治った。勝三郎は心配するな」
・・・
ある時勝三郎が慶喜公の髪を整えていた。
間違って剃刀で傷つけてしまった。
・・・慶喜公は少しも苦しからず、
早く結ふべしといった。・・・
小姓頭取にこの事を告げて罪を請う。
小姓頭取は慶喜公に会い、勝三郎の粗忽を侘びた。
慶喜公は「これは私の不注意にて、
少しく脇目せし時、刃が触れた。
微傷で痛みも無い」・・・
君臣の間、誠に和気藹々として、
常に春風の如くなりき。

■青年時代の識者の月旦。
藤田東湖
「一橋公は日角ありて、固より非凡の人なり、
且つ斉昭よりは一等上の方なれば、
此の先又と出で難き御人なり、
後には天下を治る人とならん、
されば事を急ぐは宜しからず、
方今天下に人無ければ、
自然に任せ置くとも公に帰する外はあるまじきなり」
といいしとぞ。
是れ公が十七八ばかりの事なるに、
東湖は既にその不世出の資を具へ給へるを看破せり。
■英国公使の感動
パークスは慶喜公にいった。
「貴国と交わって以来、このような歓を尽くしたることなし、
是れ日英親交の始めなり」
宴酷なる時、毛筆を執り、
「四海之中皆兄弟」の七文字をしたれば、
慶喜公之を嘉して、尚一葉をと望み給いければ、
此度は 「天下泰平」と書きたりしと。
パークスは久しく支那にありて支那語に通じ、
訳官たりしことあれば、漢字をも書き得たるなり。
・・・慶喜公の誠意の能く外人を感じたるによるべし。
凡そ公の各国公使を操縦して、
外交問題を円満に解決せられしは、
有司の斉しく驚嘆する所にして、
通訳官たりし塩田三郎の如きは、
特に称賛止まざりしという。