21/7/25 那珂市 
尊攘の嵐 天狗・諸生の争乱。 〜条約勅許の攻防〜
水戸・歴史に学ぶ会夏季講座。
那珂市ふれあいセンターごだい。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者のメモ。

■桜田門外の変。
[1860年3月 江戸城桜田門の外で起きた。
水戸藩脱藩者17名・薩摩藩士1名が大老井伊を暗殺した。
幕府の諸大名への権威は失墜した]
■和宮降嫁。
[虎の威を借りる幕府。
幕府は諸大名に権威をみせたかった。
天皇・朝廷の力を借りようとした。
孝明天皇の妹・和宮と家茂の結婚を考えた。
朝廷から速やかな攘夷決行の結婚の条件がでた。
1862年2月 和宮と家茂は結婚。
■破約攘夷。
修好通商条約は大老井伊が独断で結んだ。
攘夷派か非難・条約を破れというのが破約。
慶喜は「違勅でも国と国との約束。責任がある。
条約を破れば戦いになり負ける。
たとえ勝っても名誉にならない」
松平春嶽は「破約開国。違勅条約を破棄。
諸大名が評議して新条約を結ぶ」]
■本圀寺勢。
本圀寺は光圀生母の追善供養以来庇護を受ける。
御所・二条城の守護が役割。
将軍上洛時は水戸藩主・藩士・郷士らが駐屯。
■1862年。
12月 攘夷決行奏上のため家茂上洛。
家茂の前に慶喜が上洛、武田耕雲齋・魁介ら随従。

■1863年。
2月 藩主慶篤・昭訓・府中藩主頼縄・
宍戸藩主頼徳・隠居頼位・附家老中山ら江戸出立。
2月 家茂江戸出立。
頼縄・頼徳らは江戸守護のため途中帰還。
慶篤は上洛後帰府。
藤田小四郎・田中愿蔵ら随従・京の攘夷を体感。
4月 幕府は横浜鎖港問題談判開始を公表。
攘夷の具体的行動を表明・攘夷熱の沈静化をはかる。
5月 長州藩は下関を通過する米・仏・蘭艦隊を攻撃。
伊藤博文ら英国留学へ。
6月 慶篤は耕雲斎に領内海岸巡視・防備堅固を命ずる。
7月 薩英戦争。
8月 幕府・横浜鎖港を決する。
慶喜は 「身を以て旨貫徹に当たる決意」を示す。
政変・朝廷内急進的攘夷派七卿の都落ち。
孝明天皇の攘夷意思は変わらず。
尊攘派志士ら水戸藩を頼り常陸・下野へ。
水戸藩内の郷士・農民・郷医・神官・修験ら
藩内郷校に集結。小四郎ら攘夷実践に奔走。
湊館・小川館・潮来館を中心に、
玉造・延方・小菅・鹿島神武館など動き活発。
耕雲斎は関東鎮撫役として下行・潮来鎮台設置。

11月 慶喜再上洛・昭訓死去後の本圀寺を差配。
12月 家茂は孝明天皇の攘夷の意思を奉承する答書。
横浜鎖港談判のため外国奉行池田ら欧州へ出発。
幕府は耕雲斎に関東鎮撫を依頼。

■1864年。
1月 幕府の関東取締馬場ら潮来へ、
常陸・下総に集う浪士らの鎮撫にあたる。
慶篤は耕雲斎に鹿島社神官松岡ら
神武館に集う浪士らの鎮撫を命ず。
家茂宛孝明天皇
「醜夷の征服は国家の大典なれども、
無謀の征夷は実に朕が好むところにあらず」

2月 家茂横浜鎖港を奏上。
慶篤は耕雲斎に諸所屯集藩士らの鎮撫を命ず。
幕府横浜鎖港を決定。攘夷派・激派は正当性を得る。

3月 慶喜・朝廷より禁裏御守衛総督・
摂海防禦指揮の命を受ける。
大坂の開市・兵庫開港近く・摂海を防禦し・
御所を守衛し・京都の安寧を計り・
幕府の尊王の意思を表明すること。

3月 田丸・小四郎ら攘夷を主張し筑波山に挙兵。
小四郎は耕雲斎を首領にと思っていた。
耕雲斎は反復説諭して厳に軽挙妄動を諌めた。

小四郎・田丸ら日光より大平山へ。
引揚げのときの檄文。
「然るに今夷狄の害は一日は一日
より甚だしく、
人心は目前の安をようじゅ偸み、
・・・
実に神州の汚辱危急
今日より甚だしきは之なく、
仮初にも神州の地に生まれ
神州の恩に浴する者
豈おめおめと傍観座視するに忍びんや。
・・・」
小四郎はいう。
「幕府に横浜鎖港の実行を。
幕府は攘夷の勅命を無視して
攘夷を断行しない。
我々の一手を以て横浜を打ち払い
攘夷の実を挙げよう」
集まった人。
薄井督太郎・信州人。山田一郎・南部人。
小川・潮来方面で竹内百太郎ら。
野州で西岡邦之助ら。上総茂原で楠音次郎ら。
水戸・江戸での有志・総勢63名での
筑波山旗挙げとなった。

[人が多く集まった天狗党は資金不足だった。
天狗党は、近在の諸藩や豪農商に金穀を強要した]
*天狗党の資金調達1。
横浜で木綿の輸出が多かった。
木綿糸は常陸・下総・上野・下野が多かった。
輸出のため木綿糸の値は高騰。
民間需要に影響を与え、人々は大変困っていた。
商人に木綿の輸出をやめさせた。
輸出した謝罪として攘夷運動費に金を差出させた。
その金は数千両になった。

*天狗党の資金調達2。
[片野村元穀屋を浪人が大勢押込み切り殺し梟した。
府中陣屋へ3人で槍箱等立派な出立で仕掛ける、
攘夷のため金が必要。金が欲しい。
府中駅へ我々が直接金をもらいにいく。
府中の他、柿岡、真鍋等諸所へ呼び出し、
全て糸綿等商う者を市中へ呼び出す。
皆々元穀屋のようになることを恐れ、
出てきて金をだした。 金は約2000両になった]

4月 幕府は館林・結城・下館・土浦・
笠間・壬生・太田原・谷田部・黒羽・
烏山・足利らの諸藩へ厳戒を命ずる。

横浜鎖港の実行に対し、
水戸藩から朝廷に催促訴願の行くことを厳戒。

慶篤は幕府に横浜鎖港断決を迫る。
朝廷に対し幕府に横浜鎖港決行を促す勅諚発布を要請。

家茂は横浜鎖港成功を奏上。
孝明天皇勅諭「無謀の攘夷は致すまじき」
旨を承けることを約束。

6月 市川三左衛門ら賊徒追討を唱え幕府を勧誘。
[市川三左衛門は門閥派(諸生党)の重鎮。
改革派(天狗党)と対立した。
天狗党の敗走後は執政として藩の実権を掌握。
天狗党関係者を徹底的に処罰した]
幕府は川越・谷田部・下妻・宇都宮・壬生・
結城・下館・土浦・府中・足利・宍戸ら諸藩へ追討令。
古河藩・関宿藩へは関門厳重警戒を令す。

慶篤は市川らに波山勢鎮圧の命。
陣将市川・軍師友部・諸生らの追討軍発す・約700人。
幕府軍は使番永見らを監軍とし
歩騎砲諸隊を率い出発・
幕府併せて約3800人。

水戸藩鎮派、執政榊原・戸田らは斉昭遺書の
「寅寿残党は要路に用いるな」を奉じ江戸へ南上。
執政大久保・家老鳥居・諸番頭・諸奉行・
側用人藤田健らも南上。

水戸謹慎中の耕雲斎も正勝・魁介ら一族を率いて南上。

7月 幕府追討軍・市川勢ら約2500人下妻進駐。
壬生藩兵300人守備。
下館に約1500人・小山に高崎藩・笠間藩勢約2000人進駐。

*下妻高道祖原の合戦・天狗党敗退。
幕兵勝ちを誇る・賊兵与し易しと考える。

*天狗党飯田軍蔵ら夜襲、下妻陣屋焼失・天狗党勝利。

幕府は追討軍総督に田沼玄蕃を任命。
総勢13,000余で江戸を出発。

8月 水戸藩主名代として
宍戸藩主松平頼徳が命じられる。
頼徳は鎮撫のため下向、
途中耕雲齋一行と一緒になる。
門閥派市川らは、頼徳・耕雲齋一行の水戸入城を拒否する。
*以下市川の記録。
「附従する激徒・波山の賊数千人・
吉田山の辺に充満。
逆賊耕雲齋、山国らともに附従す、
是に於て応接として若年寄天野、目附大井ら
薬王院に於て談判に及ぶ。・・・
11日 夜、諸生が農民数百を率いて
賊の後にまわり出て鬨の声を揚げ賊状を同察す、
賊驚き輜重を棄て遁れ那珂湊に入らんとす。
土農等皆集まってこれを拒む、
賊徒口掠放火して去り、 磯浜に保す、
海防役屋に入り岩船山を攻めて
これを焼き那珂湊と砲戦す」

*湊へ小四郎ら波山勢・潮来勢が入る。
田中懸蔵は頼徳に拒否され助川方面へ行く。
9月 *額田原本米崎上宮寺・
向山常福寺・南酒出で抗戦。
16日 田中愿蔵・塙下河原刑場にて処刑。
10月23日 榊原新左衛門投降。
[榊原新左衛門について。
1863年 慶篤に随行し上洛。
1864年3月 榊原執政に就任。
5月 市川が諸生党を率い江戸藩邸の政務を掌握。
榊原は一隊を率い江戸に出府・
諸生派を排し・藩政を掌握。
諸生派と天狗党が戦いを始める。
慶篤名代の宍戸藩主頼徳に水戸平定の命。
榊原らはこれに随行・尊皇攘夷派もこれに随った。
諸生派は頼徳の水戸城入城を拒否。
尊皇攘夷派は諸生派と合戦になる。
諸生派を支援する幕府は、
頼徳・尊皇攘夷派の志士を賊とする。
頼徳は恭順の意を示し降伏。
頼徳の降伏で戦う名目を失った
榊原ら1000人は幕府に降伏]
10月5日 頼徳切腹。
10月23日 波山勢・潮来勢・武田勢は那珂湊を脱出。
10月25日 大子着・陣営を置く。
10月26日 軍議・慶喜を頼り西上を決定。
11月1日 耕雲齋を総大将に出立。

■島崎藤村・夜明け前の天狗党。
天狗勢は水戸藩の有為な人材の集団。
この一団はある一派を代表すると云うよりも、
有為な人物を集めた点で、殆ど水戸志士の
最後のものであった。
その人数は、少なくとも900人の余りであった。
・・・。
■天狗争乱は宗教戦争に似ている。
水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。
・・・
兎にも角にも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。
彰考館の修史、弘道館の学問は、
諸藩の学風を指導する役目を勤めた。
・・・
水戸の党派争いは殆ど宗教戦争に似ていて、
成敗利害の外に有るものだと云った人もある。
・・・
■単なる浪士の集団ではない、
尊攘意思の表示である・・・
従二位大納言の旗を押し立て、・・・
900 余人から成る一団の内、
水戸の精鋭を集めたと言われる筑波組は300余名で、
他の600余名は 常陸下野地方の百姓であった。
・・・
軍馬150頭、それに沢山な小荷駄を従えた。
陣太鼓と旗13・4本を用意した。
これはただの落ち武者の群れではない。
その行動は、尊攘の意思の表示であった。

■中仙道を西上進行
・・・
11月19日 樋橋・諏訪頼重の古戦場は
高島城から3里、険阻な峡谷、
水戸勢・大砲15門・騎馬武者150人・歩兵700余人。
後方から幕府追討総督田沼。
諏訪藩高島勢で挟撃期待。
・・・
耕雲斎を主将に、水戸家の元町奉行田丸を副将に、
軍学に精通の山国兵部を参謀にする水戸浪士の群は、
未明に和田宿を出発してこの街道を進んできた。
・・・
■*和田峠の激戦
・・・8本の紅白の旗を押し立て、
3段に分かれた人数が真っ黒になって
後から後からと峠を登った。・・・
来る、来るという田沼勢が和田峠に近づく模様も無い。
和田峠の戦闘、諏訪・松本勢も良く戦った。
到頭、田沼玄菱頭は来なかった。
浪士側では17人の戦死者を出した。
100人余りの鉄炮傷鎗傷などの手負いも出した。
・・・
■耕雲斎の苦闘と至誠。
耕雲齋は抜き身の鎗を杖にして、
田丸稲右衛門や山国兵部や藤田小四郎と共に、
兵士等の間をあちこちと見て廻った。
・・・
夜も早や四つ半時を過ぎた。
浪士たちは味方の死骸を取片付け、
名のある人々は草小屋の中に引き入れて火をかけた。
その他は死骸の在る所で聊かの火をかけ、
土中に埋めた。・・・

■庄屋の飯田藩庁への歎願
今般浮浪の徒上州路より当地に押し来たり
・・・全く乱暴の所行も之なく、
神妙に通行仕り候義に候はば・・・

12月 3日 慶喜・本圀寺勢、
天狗党勢鎮圧に京を出発。
諸藩の軍勢、会津藩1000余人・津藩600余人・
大垣藩1000余人・水戸藩700人。
間道・海岸・山々の要所々々へ
福井藩・大野藩・彦根藩・丸山藩。
時に雪は一丈余り。
[12月11日 天狗党は木ノ芽峠を越え、新保村に到着。
葉原村に陣を敷く加賀藩と対峙する。
天狗党は戦闘を避けようと加賀藩と交渉を重ねる]
 
■耕雲齋の加賀藩永原甚七郎宛嘆願書。
・・・
天朝より醜夷掃の勅諚御下遊ばされ候より、
贈大納言殿日夜憂慮あり・・・
臣子の至情遺憾此の上なく候、
富中納言殿にも、去亥年上京の砌、公辺を補佐し、
攘夷の成功を奏し候様との勅命を蒙り
天杯真の御太刀迄拝受これあられ
帰府致され候得共、・・・

■加賀藩より大目付瀧川播磨守宛て添書。
1864年12月13日
嘆願候の趣き等段々愚考仕り候処、
天下を動揺致し候罪科は遁れ難き義とは存じ奉り候
得顔の筋上達致さず・・・
彼より兵器を解き、敵対致さざる萌しも之ある上は、
討つ討たざるは其の手の将へ御委任在らさるべく候段
承知仕り候に付き、一応い奉り候、
謝罪の御処置これある哉、
又は討ち取るべきや御指揮御座候様仕りたく存じ奉り候、

■幕吏
降伏ならば格別、歎願では話にならぬ。

■一橋陣営・原市之進。
百万石の大藩なれば、
一手を以て直ちに鎮圧かと見ていたのに、
賊徒の歎願を周旋するとは、
憚りながら英気も少しく相弛み候や。

■加賀藩。
一行の事情を汲むことなく、無残に討ての命令、
不憫と思って周旋したのであるが、
可様に云われては、前田家の軍威に拘わる故、
本意の如く、速やかに血戦して戦死を遂げるであろう

■新保宿陣所。
加賀藩監軍永原が耕雲膏を訪問。
入口に柵を結いめぐらす。大砲を備え、
300人の銃手が火縄を消し、迎え入れた。
耕雲齊に山国・田丸・小四郎ら25人の幹部が
大小刀を帯びずに出迎えた。
永原は浪士らの態度に感銘した。
規律正しい陣所の光景だった。
漸く先の戦意を翻した。

■14日血戦に先立ち永原陣営新保宿陣屋へ贈る物
白米200俵・漬け物10樽・銘酒2石・するめ2千枚

■天狗党の協議。
幕府軍の総攻撃を前に降伏か否か?
山国・小四郎・田丸らは長州へ向かうと主張。
耕雲齊は慶喜公の裁断・宍戸頼徳侯の冤を晴らす考え。
12月17日 天狗党は降伏する。
降伏後の収容先は、
本勝寺に耕雲齋・山国・田丸・小四郎ら387人。
本妙寺に武田魁介ら346人。
長遠寺に山縣半六ら90人。

■加賀藩の待遇。
主人に一汁三菜・軽率に一汁二菜。
薬用の酒一日三斗・鼻紙・煙草・衣類。
元日には鏡餅・酒樽。
武田魁介が謹慎の意を表す礼服着用希望・
麻裃上下に定紋付き小袖用意。

12月24日 慶喜は海津より京へ帰る。
12月28日 昭徳は山中駅より京へ帰る。

1月26日 田沼玄番は幕命を加賀藩に伝える。
耕雲齊以下浪士全員の引き取り・
押収した武器の受け取り。
田沼玄番は慶喜が耕雲齊らの
死罪赦免に尽力中を知り処刑を急ぐ。
[1月29日 加賀藩から天狗党の引き渡しをうける。
田沼玄蕃は天狗党を16棟のニシン蔵に監禁。
小浜藩・福井藩・彦根藩が監視した]

2月 耕雲齋・小四郎・田丸ら352名処刑。
執行を福井藩・彦根藩・小浜藩へ命令。福井藩は拒否。
流罪450人。薩摩藩へ35人・西郷は受取拒否。
耕雲斎の辞世
「討つもはた 討たるるもはた 
哀れなり 同じ日本のみ ためと思へば」

3月25日 耕雲齋の首級が水戸城下に晒される。
遺族らが処刑される。
耕雲齋妻とき・斬首・48才。
武田魁介・耕雲斎2男・敦賀で斬首・38才。
娘とし・斬首・11才。
武田猛・耕雲齋5男・生き延びる。
武田桃丸・耕雲斎6男・斬首・9才。
武田金吾・耕雲斎7男・斬首・3才。
阿久津梅・耕雲斎妾・斬首。
下女こめ・斬首・19才。
武田彦衛門・耕雲斎長男・敦賀で斬首・44才。
彦右衛門妻いく・東湖の妹・水戸獄中で絶食死・43才。
武田金次郎・天狗党として敦賀に行く・遠島・佃島幽閉・17才。
武田孫三郎・彦衛門3男・斬首・15才。
武田金四郎・彦衛門4男・斬首・13才。
武田とし・彦衛門娘・斬首・11才。
武田熊五郎・彦衛門5男・斬首・10才。
武田ときの辞世
「かねて実そ なきと思へと 
山吹の 花も匂はて 散るそかなしき」

■天狗勢の評価。
筑波の脱走者・浮浪の徒という世間の風評。
実際の浪士の一行は旅籠銭一人前弁当用共に
御定めの250匁づつ払って通るのを意外とした。

一行と共に動いていく金の葵紋の箱、
長柄の傘、御紋付の長持ちから、
長棒の駕籠の類まであるのを意外とて、
まるで40万石の大名の通行というものもある。
・・・
一行が従二位大納言の大旗を奉じながら
動いて行くところは、
生きている人を護ると変わりがない。

水戸浪士が人の心を揺り動かす。
それは命がけだからだ。泰平に慣れた諸藩の武士。
討ち死にを覚悟してかかっている水戸浪士。

背中に長患いをした母を背負った百姓。
浪士2人が寺の場所を尋ねた。
主君の首を納めたい。
百姓は病の老母のことを話す。
自分の家来を付けておく。
寺境内へ。浪士は境内の建屋の扉を開ける。
首級をその上に載せ、敬い拝して
「御武運拙くなり給わんとは夢にも知らなかった。
御本望の達する日も見ず仕舞にさぞ
御残念に思し召されよう。
戦の習い是非ないことと思し召されよ」
と言って、土の上に頷ずいた。
短刀を引き抜いて土中に深く首級を納めた。
浪士は引き返し来て、百姓に短刀を与えた。
百姓は「百姓の身に武器は不用」と断った。
病める老母に薬をと銀一朱を与えた。

■浪士らの軍律。
幹部の眼を盗み民家を掠奪した浪人がいた。
仲間同士で追跡しその浪人を天誅に処した。
浪人の逃げ込んだ百姓家へは
手当として金子一両を家内の者へ残した。

■慶喜の対応。
慶喜は水戸浪士を許さなかった。
耕雲齊は浪士全軍を率いて加賀藩の陣屋に降伏した。
慶喜は浪士を救おうとしたのか?
慶喜の兄弟、浜田(10男武聡)・島原(16男昭嗣)・
喜連川(11男 昭縄) は耕雲齊らのために
朝廷・幕府へ嘆願書を提出。
因州(5男慶徳)・備前(9男昭休)は
浪士らへの慈悲深い処置を奏請した。

■慶喜は穂積にいった。
耕雲齋に罪はあるが、
名家の一族を絶やすのはかわいそう。
救い出せる子どもがいたら
わからないように救ってほしい。

■武田猛の後日談。
陣中で耕雲齋が「小四郎を加賀の陣屋へ遣わす。
貴様もついて行け。卑怯なことはするな」
黄金3枚と新しい下帯3筋をくれた。
穂積に耕雲齋が烈公拝領の銀時計を与えた。
陣中を脱出する。その後、
京都鳥取藩邸・備前藩潜居・
大政奉還で京都本圀寺詰藩士宅・
泉涌寺御廟の守衛・水戸へ。
江戸遊学・1872年水戸。裁判所検事となる。

■田沼玄番について。
天狗党と戦いで負傷した諏訪藩塩原彦七はいう。
「田沼玄番は士を愛することを知らない。
武の道も立たない」
浪士らの勢いの盛んな時は大砲の距離の外にいる。
徐行逗留してあえて近づこうとしない。
風声鶴にも胆が身に添わなかった田沼玄番。
一旦浪士らが加賀藩に降伏と知ると、
虎の威を借りて刑をほしいままにする。
何と卑怯な田沼玄番。

■田沼玄番は何事も権威をもって
2万石に満たない飯田藩にまで臨む。
砥沢口合戦に苦戦。
それを救おうとしない田沼玄番。
必ず20里の距離をたもち天狗党の後を追う。
それが幕府の田沼玄番だ。

■筑波勢の多くは、弘道館で学んだ人達。
それらを失った争乱。明治維新を迎えて
水戸に人物なしの状況を作った。

■天狗派・諸生派の記念碑。
省略

■幕府・諸藩の海外派遣。
■1861年12月 幕府は欧州へ使節を派遣。
江戸開市・大坂開市・新潟開港・兵庫開港
の延期交渉。正使竹内保徳・福沢諭吉ら。
■1862年5月 長州藩高杉晋作・薩摩藩五代友厚らを
幕府使節の随員として上海へ派遣。
清国の植民地化の惨状を確認・7月帰国。
9月 幕府はオランダへ留学生を派遣。
長崎出航。軍艦操練所榎本武揚・西周・
津田真道・留学生内田恒次郎ら。
■1863年 5月 長州藩は伊藤博文・
井上馨らを英国留学派遣。
12月 横浜鎖港談判、池田長発ら34名仏国派遣。
■1864年 安中藩士新島襄函館から米国へ密航。
■1865年 幕府は市川又吉ら6名を露国へ派遣。
薩摩藩は森有礼・五代友厚ら11名を英国へ派遣。
■1866年4月 肥後藩は横井平太・大平兄弟を米国へ派遣
4月7日 幕府は学校修業・貿易目的に海外渡航を解禁。
10月12日 幕府は川路太郎ら14名を英国へ派遣。
■1867年1月 昭武は山高信離らとパリ万博・留学へ。