21/7/18 那珂市 
安政の大獄  〜条約勅許の攻防〜
水戸・歴史に学ぶ会夏季講座
那珂市ふれあいセンターごだい。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者のメモ。

■朝廷の復権。
■1787年 飢饉で米不足。
京都の人々は御所千度参り。
光格天皇は救米を幕府に要請。
「民草に 露の情けを かけよかし
代々の守りの 国の司は」
1807年 露国人の
利尻島侵入騒擾事件を朝廷へ奏上。
■海防勅諭。
幕府の対外窓口。
長崎・清国 オランダ。松前藩・蝦夷地。
薩摩藩・琉球。対馬藩・朝鮮。
1846年5月 米国ビッドル浦賀来航。
米国・英国・仏国船の来航を
公家は姻戚大名を通し知っていた。
8月 孝明天皇は幕府へ海防勅諭・御沙汰書。
「神州の瑕瑾無きよう海防への備えを」
「文化度に倣い報告を」
10月 幕府が朝廷へ5月の米国ビッドルの
浦賀来航の詳細報を報告。

■日米和親条約。
1850年 幕府が異国船打払令の緩和を奏上。
1853年 米国ペリー浦賀来航。
大統領の開国要請の国書提出。
老中阿部は諸大名に意見聴取・幕府専政緩和。
大統領親書訳文を朝廷へ奏聞。
議奏東坊城と関白鷹司会談。
鷹司・鎖国は寛永からの事・
長崎での交易は可能と開国論。
東坊城は同調する。
武家伝奏三条は不可と。
鷹司・これは幕府一任でなく
幕府と朝廷とで議論し決定すべき。
現今の武士は怠慢・外国との戦争に勝てない・
交易で利益を図ったほうがよい。

斉昭との情報交換、
対外・国内情報を理解しての開国交易論。
老中阿部、天皇の考えを申し付けてほしい。
叡慮に沿うように・朝幕関係の逆転へ。

諸大名の回答。
日本国の恥辱・徳川家武威の衰廃など。
和戦を重視し穏便に・戦いになれば上下一致で応戦。

1854年 ペリー再来航。
鷹司は幕府に尾張藩・彦根藩らの京都警護を要求。
浦賀奉行所与力中島三郎助が交渉掛。
ポーハタン号へ乗船・浦賀廻航停泊求む。
随行員の記述・幕府役人頭脳明晰なり。
艦船の大砲・備品などを測量記録への驚嘆。
3月 日米和親条約締結し下田・箱館開港。
英国・露国とも締結。

1855年 和親条約締結を朝廷へ報告。
孝明天皇・国防態勢不備では締結は
仕方がないが不本意。
神州の瑕瑾無きように。
事後承認、事後勅許。
関白鷹司の主導で
「和親条約は従来の外交政策を
大きく変えるものではないとの認識」
朝廷内部では不満充満。
1856年 鷹司関白を辞任。
7月 米国駐日総領事ハリス下田着任・
大統領親書提出・貿易交渉開始要求。
越前慶永・薩摩斉彬ら将軍継嗣に慶喜擁立。
)
■幕府側の対応。
1853年 6月 ペリー来航
8月10日  幕府へ提出
兵船を自負して恐嚇の姿、
無恥蛮夷の常態悪むべし
鎖国の祖法変えるべからず、
防禦の為に実備を主とし、士気を鼓舞する。
籠城の策を捨てて海外に勇威を振るうべし。
8月 氏神への神文。
来舶の賊心を押さえ、これを妨げて海外に制止する
武威を示し皇国を盤石の堅く泰山の安きに復古し
祖宗創業の徳川の天下を万々歳に人心を一新し
武威を示し、外国に交渉を断念せしむべし、
その任は大老職を経て来た井伊直弼が負うべきである

祖法墨守すべからず、
兵站を開かず年月を経て必勝万全を得る。
石炭を供給し、大船を建造して海外で出交易を。

※ 祖法改変には朝廷に奏聞し、
伊勢神宮以下諸社に勅使を派遣、
日光東照宮に幕府の使者を立てて深慮を伺うべし

※斉昭の関白九条尚忠宛て書簡。
欧米の野心は日本の侵略、
通商条約はその手段であり国家の滅亡につながる
この危機を打開するよう朝廷が幕府に命ぜよ
事態を傍観することなく
通商条約締結は朝廷の意に非ず
宣言する
危機打開に諸大名や有志に奮起を促せ

※ 主な大名
尾張藩徳川慶恕・仙台藩主伊達慶邦・
鳥取藩主池田慶徳・阿波藩主蜂須賀斉裕
評議一決の上で、それを朝廷に奏間して、
「叡慮を経て天下に令すべき」である。
島津斉彬、御所警衛策を幕府に建言。

※条約締結に割れる国論を
1857年 老中阿部死去。
佐倉藩主堀田正睦が老中に。
■ハリスの演説
1857年10月 堀田邸・6時間に渉る演説。
鎖国の不利・開国の必要を説く。
日本の独立を保ち富強するには開国通商しかない。
西洋・清国の例をはなす。
政治論を聞く堀田・幕府の俊秀。
ハリスの話で、胆挫かれ・魂奪われ・茫然とした。
迷夢が醒めたようだった。
堀田・松平近直・川路門尉・水野筑前守・
井上信濃守・永井玄蕃守・岩瀬肥後守・
堀織部正ら悟るところがあった。
開国に向け百難に当たる精神は、
ハリスの演説による。

※以後、両国間の協議が続く。
井上・岩瀬の条約草案作成。
利害を考え議論を尽くした。
老中堀田も開国を覚悟。
岩瀬らハリス応接係の老中宛上申書。
永井尚志・岩瀬忠震・鵜殿長鋭・川路聖謨・
井上清直・水野忠徳・堀織部正利・筒井政徳ら
開国の国是に方針転換。

※ ハリスは云う。
岩瀬・川路らの全権を得たことは日本の幸福。
日本のために偉功ある人だ。

1857年12月 日米修好通商条約草案審議し合意終了。

■1858年1月 条約調印勅許奏請。
老中堀田に川路・岩瀬ら同行し京都にいく。
2月 堀田の朝廷への説明。
*米国だけでなく各国と戦いになったら勝てない。
*鎖国維持は困難。
*外国への開放場所は江戸近郊のみ。

■朝廷内の動向。
左大臣近衛・右大臣鷹司・内大臣三条ら
*蛮夷に屈して条約締結する幕府は狂妄の徒。
*条約締結は神州の御瑕瑾となる。
*三家・大名に尋問し関東で再考せよ。
公家衆ら定見無し。諸大名混迷。
九条幸経は国際情勢を考慮し開国を主張。
三条実愛は人心の折り合いを図り方針確立を。
中山忠能は許可することは神州の恥辱・
米国側が攻撃してきたら人心一致して戦え。
参議らは米国要求が拡大、幕府は言いなりに不満。

3月 再度の勅答案。
条約締結への勅許無し。
「再応衆議の上、言上有るべし」
「将軍継嗣はそれにふさわしい人」

孝明天皇 「私の代よりかようの儀に
相成り候ては、後々までの恥」
老中が求めても勅許は断固拒絶。
外国人が納得しないなら打払い攘夷と決断。

■老中堀田の憤慨。
公家衆は国際情勢に無智。
鎖国して国家の勢いが盛んで、平和な国はない。
世界を仇敵に回し、殺戮も絶えなく、
長く持ちこたえられない。
老中堀田は江戸へ帰国。
1858年4月 老中堀田罷免。
井伊直弼大老就任。
<背景>
1855年8月 主席老中阿部が、
老中松平忠国を罷免・堀田正睦を任命。
1857年6月 阿部正弘死去。松平忠固老中再任用。
紀伊藩水野忠央の画策。
紀州藩主徳川慶福の将軍就任を重視、
老中忠固と結託し井伊直弼大老就任を画策。
井伊直弼大老になるや忠固を重要視せず。
忠固不満・直弱を憎み直弼退けを策す。
逆に井伊に退けられる。

1857年4月 井伊直弼・目付岩瀬激論。
将軍継嗣問題・条約調印について。
橋本景岳宛て目付岩瀬の書翰。
「今日、 大老井伊と激論した。・・・
万々一意不可為に至り候共、
有志固結候はば、亦興業の秋も候はん」
尚々書に「御文通類は、総て速に丙丁を願候。
貴翰も直に悉く投火候」

※ 激しい対立を予想した岩瀬。
慶喜の将軍継嗣に奔走する橋本景岳に
危険の及ぶことを懸念、行動に警戒を促した。

5月 徳川慶福・将軍後継に内定。

■米修好通商条約無勅調印。
1842年 アヘン戦争で清国は英国に敗北。
対英国条約・対仏天津条約締結。
岩瀬・井上は英・仏の迫る前に米と調印をと必死。
米国と通商条約を結べば、
英仏からの強引な要求時は米国が調停する。

直弼・勅許を得られるまで調印を延期せよ。。
井上・延期交渉が行き詰まったら調印してもよいか。
直弼・その時は仕方がない。
直弼「違勅調印の責めは一身に」の覚悟。
直弼の評価・剛毅果断の開国の恩人。

■将軍継嗣問題・慶福か慶喜か。
直弼は慶福を推す。
岩瀬は難局に対して慶喜を推す。

1858年2月 橋本景岳入京・三条実万に面会。
攘夷不可・開国必至を説く。
三条に慶喜推薦で意気投合。
5月 慶福の将軍後継内定。
6月 米修好通商条約無勅調印。
*斉昭・慶篤・尾張慶恕・越前慶永ら
不時登城・大老に抗議。
*慶福の将軍継嗣決定。
*米修好通商条約締結を朝廷に報告・届け棄て的。
7月 不時登城の斉昭らに隠居謹慎処分。
*オランダ・ロシア・英国と修好条約調印。
*将軍慶福を家茂と改名。

■孝明天皇逆鱗。
譲位の意向を左大臣近衛に伝達・朝威が立たず。
天照大神・歴代天皇に申し訳ない。

■戊午の密勅。
[1858年9月 孝明天皇が水戸藩に幕政改革の勅書を下賜。
勅許なく日米修好通商条約調印を呵責。
大老・老中・御三・諸大名は群議を尽くし、
国内治まり、公武合体が永久に続くよう、
徳川家を扶助し、外国の侮りを
受けないようにすべきだ。

水戸藩から諸藩に連絡するように。

水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡された。

幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送する指示。
幕府の威信は失墜。
大老井伊による安政の大獄がはじまる・・・]
[井伊直弼の懐刀といわれる長野主膳書簡など省略]

■安政の大獄。
■志士の探索・捕縛。
1858年8月 京都所司代酒井忠義が江戸出立。
9月 京都着
酒井忠義の志士の検挙は消極的。
長野主膳のいら立ちあり。
9月 老中間部詮勝が江戸出立。
長野主膳の京都探索。
梁川星巌死去・梅田雲浜捕縛・
西郷隆盛は月照と京都脱出。
鵜飼吉左衛門・幸吉拘禁。
10月 橋本景岳捕縛。
11月 吉田松陰拘禁。
西郷隆盛・憎月性入水・西郷蘇生・大島流罪。

■水戸領民の小金屯集。
斉昭の謹慎解除嘆願・藩内全領域へ拡大。
家老安島帯刀禁固。茅根伊豫之介訊問。
東湖門人・水戸家の実力者・幕府の目の付け所。
神官・僧侶・農民・町人ら神官連盟の威力
斎藤監物ら神官116名署名。抗議南上。
■判決・断罪処罰。
評定所の構成。
五手、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付。
裁判に臨み先ず神に祈り、もし誤りある時は、
即時わが身に死を与え給えの信念。
寺勘定奉行佐々木は意見寛大なりとして罷免。
町奉行兼勘定奉行池田と寺社奉行本荘
■1859年8月・第1次判決。
前藩主斉昭水戸永蟄居・藩主慶篤差控・
一橋慶喜隠居謹慎・家老安島帯刀切腹・
茅根伊予之介死罪・京都留守居鵜飼吉左衛門死罪・
京都留守居助役鵜飼幸吉獄門。
勘定奉行鮎沢国維遠島。
水戸藩取締り不行届で高松・守山・府中藩主譴責。
■10月・第2次判決。
飯泉喜内・橋本景岳・頼三樹三郎死罪・六物空満遠島など。
橋本景岳の評定所原案は遠島・大老井伊が死罪とした。
外国奉行水野忠徳は嘆息した。
「橋本を殺したるの一事、以て天の怒りを買い、
徳川幕府の滅亡を招いた」
梅田雲浜は獄死。
■10月・第3次判決。
吉田松陰死罪・吉見長左衛門追放・
勝野森之助遠島・日下部裕之進遠島・
黒沢とき中追放・勝野豊作妻ちか押込など。
■10月・第4次判決。
茅根伊予之介の倅熊太郎3歳遠島・
鮎澤伊太夫の倅4歳 大蔵2歳中追放・
鵜飼吉左衛門の次男三男四男追放。
以上約100名。

■公家の処罰。
正親町三条大納言・徳大寺大納言・烏丸大納言・
条坊中納言ら8名 永蟄居。
今出川大納言町尻三位・岩倉左兵衛佐ら12人遠慮。

9月 幕府は小金などの水戸藩残留土民へ退散命令。

■大子の郷士・堀江芳之助。
大子町・花室神社境内の顕彰碑。
隣里郷党その人の遺風餘烈を飲仰し、
而して永く忘るる能わざるはまことに
堀江芳之助君たり。

君歿するの後四十年、有志者謀君の行繍をし、
堅にしてこれを朽ちざらしめんと欲するなり。

丹那珂郡長を爪して余に文を徴す。

君嘗て余と先人と旧故有るを以てなり、
不以、口の拠状を文らず、
その梗概を叙して曰く、
君芳之助と称す、姓は堀江氏、
久慈郡佐原村大字佐貫の人、
世々農を業とす、考を善三郎と白い、
妣は渡邉氏、文化七年二月を以て君を生む。

君少時にして吉成正伯に従いて修学す。

常に喜びて兵法を読む。

長ずるに及んで多く水戸に在し、
藤田・武田等諸名門に出入し、
益々嘉永・安政の交を樹立するところ有り。

幕政衰弛し、禍患孝至して天下漸く多事なり。

西洋列国以て我が隙に乗すべしとなす。

大艦巨艦前後辺海に来迫して威脅百端互市を要求す。

幕吏失措出る所を知らずして、 私に開港を諾す、
朝廷震怒し特に詔を諸大藩に降したまい反正に致力せしめんとす。

是に於いてか尊王攘夷の議勃然として興る、
これより先、
烈公不世出の英資をもって大義名分を聞明にし、
闇藩風靡士気大いに振う、
蓋し尊攘の事我が水戸藩実にこれが信首たり、
海内引領に至るまで烈公の風采を膾望す、
しかるに幕閣は小康を倫び、奸邪事を用う、
烈公の大策遂に行う能わざるなり、
君の人となり剛毅有節、概して健脚絶倫、
一日に行くこと五十里なり、
この時に当たり藩務また頻繁、
君要路を承け、われと江水の間を往来す、
行歩すること飛ぶが如し、
東湖翁等深くこれを愛し、呼びて無名という。

蓋し深く意味あるなり、
君よりて其の□君がために常に幕府の因循を憤る、
これに於いてか意を決し、
京都に赴きまさになすところあらんとするも
獄に坐下せらる。

数月にして釈を得る、烈公君が勤労をし、
命じて郷士に列し俸禄を給う、君感激益々奮励す、
たまたま徳川大将軍の米国公使を
営中に延べ慇懃に親通するの事あり、
おもえらく、これ国辱の大なるものなりと、
乃ち同士の士蓮田信成、信太義正間行江戸に入り、
まさに米国公使を路上に刺斃せんとす、
これをもって衛兵厳基、而して信成ら憤を果たさず、
礫川藩邸に自首し、終に獄中に幽死す、
この夜君独り幕府蕃書調所に潜到し、
米人の動静を窺うも、守者の捕するところと為り、
府獄に投ぜらる、実に安政四年四月なり。

たまたま吉田松陰また獄中に在り、
君と相見え肝胆相許す、
その著すところの留魂録にえるあり、
堀江は真の知己也、真の友也と、
常に天皇を尊び神道を選び、
異端邪説を排す面して
大道を天下に明らかにせんと欲するなり、
松陰の推重至りといいつべし、
いくばくもなく君赦に遭う、
文久元年五月、
有賀重信前木正美等十余人と高輪東禅寺を夜襲す
東禅寺は英国公使の館するところなり、
君またその事に与る、
時に幕府戒厳衛兵善く重信等を防ぎ、
あるいは死しあるいは傷き走り、
遂に志を得ざるなり、君京師に遁往し、
流離困頓尚巧みに身を潜めて諸岡節齋等を頼み、
以て大義を信せんと欲す、
重ねて縛に就き江戸に護送され、
水戸獄に縛繋せらる、
朝廷維新の政を布くに及び、
特赦の恩命を拝するを得。

これより水戸に閑居し、而してまた出です。

明治四年二月十五日病を以て歿す享年六十有二、
酒門村定善寺に葬る、
同四十四年六月一日 詔して従五位を追贈せらる、
鳴呼君は昌平無事の日中に生育するも、
たまたま国の多難の秋に出で、
慨発憤至誠報国、万有一死の途に出入するも、
不屈不撓その節に始終す。

而して恰も明治鴻業の成るに及ぶ、
誠に古今志士の亀鑑と謂うべき也、
顧るに余輩と少壮同志の友、
相率いて甲子の難に殉じ、
その存するもの幾人も無し、
今この文を草するに臨んで、
旧感紛生、心緒錯乱、
裁するところを知らざるなり。

明治四十五年二月
維新史料編纂会委員 水戸 武田猛撰
文園栗橋保孝書

武田猛は武田耕雲斎の五男。

1860年 桜田門外の変。
8月 斉昭死去。