21/7/11 那珂市 
水戸藩譜代の重臣結城寅壽の最期。
水戸・歴史に学ぶ会夏季講座
那珂市ふれあいセンターごだい。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者のメモ。

■水戸藩当所家臣団の編成。
[水戸藩の家臣は寄せ集まり。
新規に採用された]
武田家旧家臣。
徳川家康家臣。伏見衆・駿府衆。
後北条氏家臣など。
■登用時期と出自。
慶長1596〜1615年・元和1615〜1624年・
寛永1624〜1644年に集中。
寛文元禄期。
■慶長期1603〜1614年。
登用数 176人・約4割が武田旧家臣。
武田信吉家臣。
1603年9月11日 武田信吉没。
33名は水戸残留。
芦沢伊賀守信・望月五郎左衛門恒隆・
跡部君兼・跡部忠正 (武田耕雲斎の祖) など。
[水戸藩初代藩主は頼房。
常陸は佐竹氏が支配していた。
1602年 佐竹氏が出羽久保田に転封。
水戸城に佐倉藩武田信吉が入る。
1603年 武田信吉病死・21才。
徳川頼宣が水戸に入る。
1609年 頼宣は駿府藩に転封。
頼宣のあとに頼房が入る。
頼房を水戸藩初代とする]

■後北条氏家臣。
中山備前守信吉・附家老。
附属与力17騎。
山口六郎衛門ら山口一族など。
■頼房附き。
岡崎平兵衛綱住・伊藤玄蕃友玄・
三木仁兵衛・朝比奈右衛門尉泰雄・
市川三左衛門重時など。
■元和期・1615〜1623年。
登用数 205人。
駿府・江戸で仕えた家臣。

■後北条氏家臣・戦国大名系・旧豊臣氏家臣。
岡見甚内経吉・鈴木石見守重好・
井伊直政・水野弾正少弼分長など。
■徳川一門の改易による家臣。
1616年 松平忠輝・越後高田城主改易。
額田久兵衛昭通など27人。
■寛永期1623〜1643年。
登用数218人。
旧佐竹氏家臣など。郷士制度採用。
山野辺義忠・宇都宮弥三郎国綱・高綱。
武藤長左衛門など。
■寛文・延宝期1661〜1680年。
1000石以上30人。700〜1000石11人・
500〜700石・20人。
家老職18人の高・6万石超・藩表高の22%。
光圀の弟4人・甥・養嗣子綱條ら
光圀一族6人の緑高・1万6200石。
※寄せ集め家臣団の結束を図るため
一族で内部を固めることが必要だった。
■分家4藩。
[水戸藩は高松藩・守山藩・
常陸府中藩・常陸宍戸藩の4つ]

■山野辺義忠。1588〜1664年。
最上義光の4男。水戸家1万石。
1622年 最上家改易。
義忠は岡山藩池田家預け・13年間。
反幕府から尊王になる。
1633年 将軍家光の命で水戸家家臣となる。
男内蔵助義棟・弥八郎義政も奉仕、
3人の禄併せて1万石を賜う。
附家老中山家に次ぐ筆頭家老となる。
水戸家位牌所の常福寺に墓所。
■山野辺義観。 1803〜1859年
家老・海防庁惣司。
1634年頼房は家光に従い上洛。
扈従は中山備前守・中山内記・山野辺内蔵助・
真木左京・鈴木式部・佐野兵左衛門・三木仁兵衛。
1661年 頼房死去。
山野辺義忠は殉死覚悟・
遺命によって断念。

■高松藩主松平頼重と綱條。
頼重の子綱方・綱條は光圀の養子となる。
綱方は早世。
1690年 綱條は3代水戸藩主となる。
■三木之次1575〜1646年。
之次は光圀誕生の恩人。
頼房は愛妾の懐胎を知る。
家老之次に堕胎を命じた。
しかし三木夫妻は自宅で生ませた。
数年間三木夫妻が育てた。
その子供が光圀。
後に三木邸で梅花の宴があった。
光圀が歌を詠んだ。
「朽残る 老木の梅も 此宿の はるにふたたび あうそ嬉しき」 
梅の木は光圀の母久子が実を植え育った。
之次の父寂然は播州一向宗光善寺住職。
■伊藤玄蕃。
1626年 書院番頭兼老中。
玄蕃の祖清重は越前結城秀康に仕えた。
武田信玄の二十人頭に伊藤玄蕃がある。
玄蕃の養父友玄は、
1637年に水戸藩最初の大老・2100石。
■浄光寺。
1214年 唯仏房が吉田郡枝川に造立。
1574年 江戸氏により水戸城内に移る。
1593年 佐竹義宣が茨城郡常葉村に移す。
1648年 家光が湊村に10石朱印地を与える。
1649年 湊村にる。
1696年 光圀が湊館山に寺領を与える。
浄土真宗七か寺を湊館山に移す。
浄光寺・正徳寺・清心寺・
専照寺・専光寺・光泉寺・常教寺。

■松平頼位1810〜1886年。
1837年 長倉へ土着。
水戸藩西方の鎮めとなる。
■光圀の藤井紋太夫誅伐。
柳沢吉保らと交流暗躍した紋太夫。
水戸家の将来に危険・幕府に従属することになる。
光圀は対立を未然に防いだ。
■立原・藤田幽谷の離間。
立原翠軒1744〜1823年・
藤田幽谷1774〜1826年。 
大日本史編纂の方針で対立。
佐幕中心の門閥派と結ぶことになる翠軒。
尊王敬幕派の幽谷。

■水戸藩9代藩主継嗣問題。
門閥派は将軍家斉の子で
清水家を継いだ恒之丞を擁立。
改革派は斉脩の実弟敬三郎(斉昭)を擁立。
改革派の敬三郎が藩主になる。
門閥派の不満が残る。..
■斉脩の遺書・朶雲片々。
吾の生母は賤き女にて
御父武公の御心に叶う
と言うにはあらねども、
我を生みて武公も本意なく思召し、
お世継ぎは敬三郎殿と
おぼほしけるを
祖父文公の御辞に
長子をおきて次子を立るは
正道に非ずと仰せられし儘に、
我譲りを受けたり、
又敬三郎殿御母は堂上の娘にて
素性もよきに我が母と中悪きを如何せん、
母子の愛情にひかれて敬三郎殿を
疎んずるにはあらざるも、
暫し黙して居たるが、
今は一日も早く敬三郎殿に、
國を譲り安らかなる身にならんと
思うなり云々。

■結城寅寿について。
■1818年。寅寿1才・東湖13才・
耕雲齋16才・戸田16才・斉昭20才。

■1819年。寅寿2才・東湖14才・
耕雲齋17才・戸田17才・斉昭21才。
多賀郡荒浜へ琉球船漂着。

■1820年。寅寿3才・東湖15才・
耕雲齋18才・戸田18才・斉昭22才。
城下相町に落首、
老中・若年寄・右筆らの非義不道を書付。

■1821年。寅寿4才・東湖16才・
耕雲齋19才・戸田19才・斉昭23才。
少雨の為米価高騰。

■1822年。寅寿5才・東湖17才・
耕雲齋20才・戸田20才・斉昭24才。
水戸の執政・若年寄を誹る落書。

■1823年。寅寿6才・東湖18才・
耕雲齋21才・戸田21才・斉昭25才。
寅寿は近藤儀太夫に手習い読書を学ぶ。
■1824年。寅寿7才・東湖19才・
耕雲齋22才・戸田22才・斉昭26才。
英国捕鯨船大津浜上陸・城下騒然。
12月 結城数馬死去・寅寿家督相続。禄1000石。

■1825年。寅寿8才・東湖20才・
耕雲齋23才・戸田23才・斉昭27才。
小石川侍の放恣遊蕩の風聞。
執政は吉原に登楼の風聞。

■1826年。寅寿9才・東湖21才・
耕雲齋24才・戸田24才・斉昭28才。
水戸放火流行・城下騒然。
執政榊原淡路守 200石加増 1700 石。
文武衰退・奢侈の風盛ん。

■1827年。寅寿10才・東湖22才・
耕雲齋25才・戸田25才・斉昭29才。
寅寿勧学の聞こえあり。

■1828年。寅寿11才・東湖23才・
耕雲齋26才・戸田26才・斉昭30才。
寅寿武芸出精の聞こえあり。

■1829年。寅寿12才・東湖24才・
耕雲齋27才・戸田27才・斉昭31才。
8月 哀公体調悪いの連絡あり。
清水侯を迎え水戸家を継がす話あり。
東湖らは山野辺兵庫頭を頭取として
江戸へ急行。
9月4日 哀公死去。
9月17日 斉昭が水戸藩主になる。

■1830年。寅寿13才・東湖25才・
耕雲齋28才・戸田28才・斉昭32才。
榊原・岡崎ら執政免職。
東湖郡奉行・耕雲齋目付・山国喜八郎目付・
戸田側用人・山野辺兵庫執政・藤田主書執政。

■1832年。寅寿15才・東湖27才・
耕雲齋30才・戸田30才・斉昭34才。
寅壽学問・馬術鍛錬に励む。
東湖江戸で側用人。

■1833年。寅寿16才・東湖28才・
耕雲齋31才・戸田31才・斉昭35才。
寅寿江戸で小姓。
寅寿は目を懸けられ斉昭の信用を得る。

■1835年。寅寿18才・東湖30才・
耕雲齋33才・戸田33才・斉昭37才。
寅寿小姓。東湖御用調役。

■1838年。寅寿21才・東湖33才・
耕雲齋36才・戸田36才・斉昭40才。
寅寿使番。東湖領内土地改正係。
奥羽関東大飢・水戸領内死者なし。

■1839年。寅寿22才・東湖34才・
耕雲齋37才・戸田37才・斉昭41才。
家臣、財政難のため斉昭帰国を反対。
斉昭怒る、これは寅寿・平尾の画策。
執政藤田主書・中村与一を退隠、
岡崎・小山・額田らを罰す。
東湖は自ら史館勤めとなる。

■1840年。寅寿23才・東湖35才・
耕雲齋38才・戸田38才・斉昭42才。
寅寿御小姓頭。23才での抜擢は前例なし。
東湖側用人・寅寿と親交を持つ。
寅寿は諸事適切に処理・役人一同感心。
戸田執政。
9月 寅寿若年寄・耕雲齋若年寄。
弘道館造営開始・寅寿造営掛。

■1841年。寅寿24才・東湖36才・
耕雲齋39才・戸田39才・斉昭43才。
門閥派の多くは寅寿と交誼を結ぶ。
東湖側用人・500石。
弘道館建設資金不足・上納金を募る。・
金献郷士あり。弘道館仮開館。

寅寿は手下の内藤市松と東湖宅を訪ねる。
酒を飲み3人で座して話し合う。
寅寿は若年寄はひどい役という。
小役人・執政を無能という。
若年寄廃止に賛成してくれ
水戸藩のために斉昭にはなしてくれ、
斉昭は直に決まるとの話になった。
寅寿から斉昭へ度々申し入れた。
まず東湖に相談しろという。
東湖は若年寄がつまらぬことは分かっている。
今の明君時代ばかり考えて、
二百年来の若年寄りを止めたら、
全てが大破れになる。すぐ返事できない。
幕府でも役職間の系列を通し
物ごとは決めていくものだ。
その他色々の話をした。
互いに腹の中で睨み合いになった、
東湖は寅寿に警戒の念を抱いた。

■寅寿と耕雲斎は次第に仲悪くなる。
寅寿は耕雲斎を韓非子・邪推深き人と名付け、
耕雲斎は寅寿を足利尊氏と名付けた。

■1842年。寅寿25才・東湖37才・
耕雲齋40才・戸田40才・斉昭44才。
3月 耕雲斎大番頭、
寅寿執政・肥田大介政好執政。
4月 大場景淑参政・今井金衛門参政。
今井は寅寿の推挙。
寅寿・今井は兄弟のような付き合い。
今井は藤田・戸田とも懇意、
今井は悪口好きで戸田・藤田の悪口を言う、
寅寿は戸田・藤田を片付けるために
今井を手先につかい・吉野英臣を軍師・
平尾右近・友部正介に備えを固める。
寅寿は江戸・水戸の政治を
自由自在にすると企だ。
人事は寅寿・今井の策略に拠る。
次第に今井は寅寿と仲が悪くなる。

■1843年。寅寿26才・東湖38才・
耕雲齋41才・戸田41才・斉昭45才。
藤田派の今井金右衛門を寺社奉行、
寺院破却の主任。
東湖抗議し辞表提出・許されず。
今井は領中の寺院を打ち壊す。
斉昭の不徳となる。
領内僧侶ら斉昭を怨望。
江戸に出て運動する。
寅寿執政・戸田執政。
寅寿の威望ますます盛ん。
不平の旧家世臣を招撫・勢力を扶植。
藤田・戸田の一派と隠然相対・
これを凌ぐの勢い。
寅寿派の平尾ら要路に進む。
東湖、馬廻頭上座・弘道館掛・側用人。

■1844年。寅寿27才・東湖39才・
耕雲齋42才・戸田42才・烈公46才。
4月 斉昭詰問の奉書。
烈公在国。
中山備前守を老中宅へ呼び7ヶ条の不審の問
5月 烈公江戸へ召され致仕謹慎となる。
戸田・今井・東湖ら禁錮。
慶篤水戸藩主となる。
高松・守山・府中の三連枝後見役に。
鈴木石見守・太田丹波守ら執政。
寅寿の勢い盛ん。
御連枝様の部屋で寅寿。
斉昭の御慎みは恐れ入る。
戸田・藤田らは当然のこと。
斉昭失脚後、寅寿一人の政事となる。
謹慎中の斉昭は封書差し出し一切相成らず。
寅寿の評判は次第に悪くなる。

8月 寅寿江戸表に抜擢
11月 寅寿執政を免ぜられる。
斉昭謹慎解除・藩政に関与。
寅寿帰国。
寅寿の思う通りの政事が続いた。

■1845年。寅寿28才・東湖40才・
耕雲齋43才・戸田43才・斉昭47才。
寅寿大寄合頭列・隠然勢力あり。
興津蔵人28才執政・寅寿と結託。
3月 東湖・戸田小梅に幽居。
結城派の谷田部雲八・尾羽平蔵
権力を振るう噂あり
12月 斉昭書を阿部老中に送る。
寅寿・興津・太田・鈴木・谷田部・
尾羽・大嶺大人・藤田晴軒ら16人を
罰する事を請うが阿部聞かず。
斉昭失脚・弘化甲辰[1845年]の国難。
改革派・領民の雪冤運動。
寅寿を中心とする門閥派の優勢。

■1846年。寅寿29才・東湖41才・
耕雲齋44才・戸田44才・斉昭48才。
寅寿大寄合頭・水戸在。
寅寿派皆要路にあり政権を執る。
藤田派の多くは水戸仲町に禁錮。
12月 東湖・戸田の幽閉を解き宅慎みとし、
翌年水戸へ帰る。

■1847年。寅寿30才・東湖42才・
耕雲齋45才・戸田45才・斉昭49才。
藤田派の高橋多一郎・茅根伊豫之介ら
江戸へ出て斉昭の冤罪を訴える。
[土民で斉昭の冤罪を訴える者も多かった]
9月 慶喜が一橋家を継ぐ。
10月 寅寿に隠居謹慎・1000石の家禄半減。
残500石は継嗣種徳に。
戸田・東湖も再度隠居謹慎処分。

寅寿隠居の行状。
悪者を集め、
秘密の会合を行っていた様子。
鷲子村の薄井友衛門 (献金郷士、豪農)らは
始終尽力していた。
学者では友部八五郎養正・大内与一郎正敬らが
寅寿の幕下であった。

■1848年。寅寿31才・東湖43才・
耕雲齋46才・戸田46才・斉昭50才。
[寅寿は]隠居の身にて
水戸上市白銀町に在りて
なお隠然人心の収境に努め、
藤田派の人々にも好みて交際す。

■1849年。寅寿32才・東湖44才・
耕雲齋47才・戸田47才・斉昭51才。
3月 幕府が水戸藩への三連枝後見を解除。
斉昭の藩政後見なる。
8月 東湖・戸田の謹慎解除。。
大場弥右衛門・耕雲斎・会沢正志斎の謹慎解除。

■1850年。寅寿33才・東湖45才・
耕雲齋48才・戸田48才・斉昭52才。
藤田派・藩政担当回復の動きあり。
寅寿派・依然として政権を執るも
斉昭の後見にて心に任ぜざる所あり。

■1851年。寅寿34才・東湖46才・
耕雲齋49才・戸田49才・斉昭53才。
寅寿派の興津・鈴木・谷田部・
尾羽・友部ら政権の維持に努めつつ
互いに密謀詭計をめぐらす。
寅寿の家に夜中しばしば密会ありの噂。

■1852年。寅寿35才・東湖47才・
耕雲齋50才・戸田50才・斉昭54才。
執政鈴木石見守ら寅寿派は悉く解任。
藤田派。岡田新太郎・大場弥右衛門・
白井織部らを執政。
山野辺兵庫海防惣司。
杉浦善次郎・武田彦九郎を若年寄。
近藤二郎左衛門を側用人。
会沢正志斎・青山量介を小姓頭。
高橋多一郎・原田兵介・
矢野唯之允らを右筆頭取。

■1853年。寅寿36才・東湖48才・
耕雲齋51才・戸田51才・斉昭55才。
斉昭が復権。
6月 ペリー来航
7月 斉昭幕府の海防参与。
戸田・藤田海防御用懸。戸田執政。

寅寿・谷田部通義が密議・慶篤に上書。
「天狗共奥向きへも追々取入り、
悪逆相企て候云々」
との旨を記す。
谷田部が密かに提出した事か露見。
「寅寿らを死罪に処すべし」との論さかん。
東湖はこれを非とする。
寅寿は不忠不義で一代預けの処分。
寅寿は長倉松平屋敷へ幽閉。
子息種徳家禄屋敷召上15人扶持で蟄居。
結城派の平尾・友部・谷田部ら皆罰せらる。
谷田部は密かに江戸へいく。
高松藩を頼り回復の謀をめぐらす。

■1854年。寅寿37才・東湖49才・
耕雲齋52才・戸田52才・斉昭56才。
東湖、在江戸側用人兼務450石。
寅寿長倉の陣屋に幽閉。
寅寿の長子亥之介蟄居中だが、
密かに父寅寿と文通の噂あり。
寅寿警護の足軽に金を与え同志と文通する。
亥之介、父の命で下総結城へ密行。
回復手段をめぐらす。
横山平蔵・大森金八郎は
谷田部と謀を通じて再び寅寿を出さんと密議。
斉昭海防参与を辞任。

■1855年。寅寿38才・東湖50才・
耕雲齋53才・戸田53才・斉昭57才。
寅寿回復の手立てをめぐらす。
10月2日 江戸大地震。
東湖・戸田死す。
寅寿これを聞いて、
「東湖死なば吾も必ず殺さる」と言う。
谷田部ら東湖の死を機会に
君側の横山・大森等と謀り、
回復の手段を尽くす。
慶篤やや傾くが行われず。
谷田部は高松へ奔る。

■1856年。寅寿39才・
耕雲齋54才・斉昭58才。
1月 耕雲斎執政。安島帯刀側用人。
2月 慶篤は松平慶永にいう。
今水戸家は弘化元年以来の厄難が再発。
原因は谷田部と高松藩らの策謀。
彦根の策謀もある。
斉昭の藩政参与を辞めさせ、
慶篤の弟慶喜も押込め、
高松自身が水戸藩主になろうとの企て。
姦党の巨魁寅寿などの扇動による。
慶永は斉昭・慶篤父子は離間しないようにといった。
慶永が耕雲斎に聞いても慶篤と同様な主張。
慶篤は門閥派から改革派に傾倒。

4月25日 寅寿は長倉で死罪。

■寅寿党悉く処罰される。
寅寿派有力者18人左遷。
医師十河祐元斬死。
鷲子村郷士薄井ら・馬頭村郷士星ら・
大子村?士益子・額田北?百姓寺門・小中村庄屋佐川ら
預け揚屋入り、手綱村預け、郷士格剥奪。
4月29日 水戸執政へ報告
「両君様ご安堵」
「藤井紋太夫事件以来の大刑、
上下戒慎し、
主君の徳になびかせるような
藩政を願う」
12月 谷田部・大嶺広忠を大井川河原で捕縛。

■1857年
谷田部・大嶺広忠、大嶺広益処刑
死罪5名 寅寿・十河・谷田部・大嶺兄弟。
非常なる怨恨を生む。

■寅寿が執政勤め前後の行状について、
東湖が見聞したところ。
寅寿を悪む者の考えには斉昭藩主時代の内、
寅寿が謀主で、 藤田晴軒・岡崎南軒・
大乗寺日華其の外姦僧を語らい、
幕府へ内々讒訴を申しあげたから、
寅寿はどのような処罰を
受けようが飽き足らぬという者がいるが、
自分の考えはそれとは少々違う。

東湖は寅寿へ出入り3年同席した、
人物も委細心得ている。
余程不人情には相違無い。
寅寿も斉昭のお陰で取りたてられた。
斉昭ある故に権威を振るうことが出来た。
斉昭が御退隠では、寅寿も勤めが出来ない。
斉昭の退隠は考えていなかった。
戸田・藤田・今井らが世に出ていては、
一人で采配を振るえない。
戸田・東湖・今井を片付けたくとも
斉昭の承認は得られない。
直接幕府の力を借りて片付けたく思った。
寅寿の心中は、
第一 戸田・東湖・今井らが不心得なので、
斉昭も迷ったという風に幕府へ伝えた。
戸田・東湖は切腹、
斉昭は差し控え程度で、
その後は寅寿が羽を伸ばそうと企んだ。
斉昭は謹慎隠居と出たので驚いた。

■寅寿が幕府から処罰を受けなかったのは、
密訴の中に寅寿だけは内々政事のやり方に
歎息していたと出ていたから。
処罰から免れても、
直ぐにも補佐不十分だった
寅寿の責任を申し出るべき。
斉昭の謹慎の少しでも早く
解除されるように寺社の改革の
行き過ぎのみ合い改め、
追鳥狩や其の外文武質素等のことなど
一つ一つ幕府へ弁明いたし、
御連枝様ともよく打ち合わせ
謹慎解除専一の運動をすれば天晴れなのに、
それも全くせず、
天保の政事をひっくり返した。
斉昭へも背いたわけで、大愚大悪である。
だから姦物といわれる。
同志の者と度々話し合ったが、
東湖は、あまり寅寿をかこい過ぎと評された。

■寅寿は読書・弓馬に励んだが、
一人でやらなかった。
手下のものを集めおこなった。
貧しい手下には金銭を与えた。
その親からも慕われた。

■寅寿は学問・政治上の手腕も優れている。
感情にもろく部下を愛した。
寅寿党の人々は寅寿を敬服した。
寅寿党は団結力が強かった。
寅寿が戸田・東湖と肝胆相照らしていたら、
水戸は王政維新に功勲第一となった。
余りに腕が利いた。
斉昭まで陥れ、
戸田・東湖を排斥しようとした。
遂に自分も非命の死を遂げた。

■水戸結城氏。
結城家は南朝方の
白河結城氏の結城宗広が祖。
光圀が名家の子孫
覚左衛門を取り立て旧姓結城に。
1683年 水戸家へ出仕さす。
結城晴定300石。
−結城晴映500石。
−美濃守晴久・執政1000石。
−晴元−晴輝 −数馬晴徳−寅寿