21/2/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 
真宗本願寺派。
[ ]はhp制作者メモ。
■全員で正信偈を称える。
■山名義一師 千葉県 了源寺住職。
■ご讃題
つつしんで浄土真宗を案ずるに、
二種の回向あり。
一つには往相、二つには還相なり。
往相の回向について
真実の教行信証あり。

■お寺の梅の実のはなし。
上宮寺に梅の木が20本くらいある。
私の寺も梅の木が多くある。
昨年コロナでお寺に来られる方が
少なくなった。
時間ができた。
普段はやらない、
寺の梅の木の枝をつめた。
梅の実がとりやすい高さになった。
日曜日に用事があり
明日梅の実をとろうと考えた。
朝、梅の実をとろうとした。
梅の実は消えてなくなっていた。
私は普段はやらない
梅の枝をつめて
実をとりやすくしてしまった。
とられる原因をつくってしまった。
[枝をつめなければ梅の実が
とられることがなかった。
とられる原因を作ったのは私]

■お寺のウサギのはなし。
20年前くらいのはなし。
お寺の草取りのとき
何となくさみしく
ウサギを庭に放し飼いした。
ウサギはおばあさんウサギと
孫のウサギの2匹。
ウサギの数え方は
食用の場合は羽、それ以外は匹。
あるとき
お父さんと娘さんがお寺に来て
ウサギに食べ物を与えてくれた。
それが1か月ほど続いた。
あるときから
お父さんと娘さんは
お寺にこなくなった。
ウサギも消えてしまった。
ウサギを庭に放し飼いしために
起きてしまった。
お父さんと娘さんにウサギを連れ去る
原因をつくってしまった私。

■私たちはいつも
自分は正しい・悪いのは相手と思う。
自分の判断による。
しかしそれは自分の都合による判断。
その判断はいつも同じではない。
それが私たち。
[本当に正しいことを私は知らない。
知らないということも知らない。
それが私。
真実を知っているのは阿弥陀如来さま]

■善人の家庭・悪人の家庭。
結婚式に出席させてもらうことがある。
お祝いのことばのなかに
善人の家庭でなく、
悪人の家庭をつくってください。
という話をきく。
善人ばかりの家には争いが絶えない・。
悪人ばかりの家には笑顔が絶えない
という。
お互いに自分が善人である・
正しいと主張する。
相手が間違っていると言う
人ばかりの家庭となる。
争いが絶えないことになる。
悪人ばかりの家では
ごめんなさい・大丈夫?私が悪かった。
お互いに自分が悪人と主張する。
自分の非を認め、
私が愚かであったと言い合う。
悪人の家庭では争いなく
笑顔が絶えない家庭となる。
[相田みつをさんの詩。
セトモノとセトモノと
ぶつかりっこすると
すぐこわれちゃう
どっちかやわらかければ
だいじょうぶ
やわらかいこころを
もちましょう
そういうわたしは
いつもセトモノ]


■千葉県内刑務所のはなし
教誨師として刑務所に行っていた。
コロナになってから行かなくなった。
受刑者の方で30年以上
お付き合いのあるかたがおられた。
最近亡くなられたと連絡があった。
コロナのため
少ない人数での葬儀となった。
さみしいので許可を戴き
戒名をつけさせてもらった。
亡くなかった方のために
よいと思いやったが
本当に良かったのかと考える。

■コロナの報恩講。
昨年の報恩講は家族で行った。
住職・副住職・坊守の3名の報恩講になった。

■花粉症
花粉症はなったひとでないと
痛みがわからないようだ。

■キリスト教と浄土真宗
キリスト教と浄土真宗は
考えが近いというひとがいた。
キリスト教は懺悔して許しをこう。
浄土真宗は
全て私にまかせなさいといっ
阿弥陀如来さまに
南無阿弥陀仏を称え
阿弥陀如来さまにおまかせする。
赦しをこうことはしない。
キリスト教と浄土真宗はそれが違う。

■運転がかわった。
よく抜かれる。
みえてなかったものが
みえるようになった。。

■寺にまいることができた。
[寺に参ることが出来たことを
よろこびたい。
お寺で正信偈を称え
ありがたい法話をきかせていただく。
浄土真宗は聞即信という。
有りがたいご縁に感謝。
南無阿弥陀仏[

■花いくさ
映画花戦さをみた。
秀吉がみんな違ってみんないい
という場面があった。
映画で生け花は大工仕事と思った。
[池坊専好・千利休・秀吉など出演。
黒い茶碗・金色の茶碗
それぞれかがよいと言う千利休。
それをよしとしない秀吉。
秀吉は千利休を殺してしまう。
秀吉はその後京の人に非難される。
秀吉の溺愛する子どもがなくなる
秀吉の心はすさむ。
秀吉は気に障る人を殺す。
池坊専好は秀吉を諌めようと
生け花を献上する。
蓮の花・しょうぶなどの花を活ける。
どの花がよいか秀吉に問う。
秀吉はそれぞれがよいという。
[阿弥陀経に、
浄土にある蓮の花を、
「青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光」
とある。
青い蓮の花には青い光が輝き、
黄色い蓮の花には黄色い光が輝き、
赤い蓮の花には赤い光が輝き、
白い蓮の花には白い光が輝いている。
色の違いはあるが
それそぞれれが花ひらいて輝いている。
この世にあるもので
いらないものなどない。
といっているようだ。
雑草といえ草にも
それそけれに名前がある。
名前を知ると抜けなくなる。
雑草をよく見ると美しい花が
咲いているときがある。
限りあるいのちを精一杯生きている]

■梅の花が散ったのをみる。
きれいに散ったとみる人。
きたないとみる人。
見る人によりとらえ方が違う。
これが私たち。
これが善人か。
でもそのような人を救うのが
阿弥陀如来さま。

■千葉県内の刑務所の
受刑者里90%は人の命をうばったひと。
受刑者とはなしたとき。
自分の思いで人の命をうばったのではない。
自分の思いは5%。
のこり95%は電波が入ってくる。
この話をきいたとき。
これは刑務所よりも病院では?と思った。
刑務官と話をした。
病院は薬を投与し治る人。
だから刑務所にいる。
これでは刑務官・受刑者皆不幸になる。

■他人にしてあげたことはおぼえている。
他人のいじわるは忘れられない。
他人にしてもらったことは忘れている。
身も心もばらばら。
そのような私。
阿弥陀はそのままでよいといってくれる。

■中島みゆきさんの糸という歌。
なぜ めぐり逢うのかを
私たちはなにも知らない
・・・
縦の糸はあなた
横の糸は私
織りなす布は
いつか誰かを暖めうるかもしれない
・・・
タテの糸は阿弥陀如来さま
ヨコの糸は私と考えた。
正信偈の天親菩薩のところで
「依修多羅顕真実」とある。.
天親菩薩は
阿弥陀仏の本願を教えているのが
仏説無量寿経といっている。
本願によって私に届く念仏こそが真実。
修多羅はインド語のスートラを漢字にしたもの。
スートラは織物の縦糸の意味。
経も縦糸のこと。スートラは経。
織物は、縦糸が端から端まで貫かれている。
それに横糸がからみ
さまざまな模様ができる。
阿弥陀如来さまの本願を説く
仏説無量寿経が縦糸・
私が横糸なのかもしれない。
名号「南無阿弥陀仏」が
阿弥陀如来さまから私に与えられている真実。
私が真実であるかどうかを
判断するのではない。

■1年間コロナかのなか過ごしてこれた。
よろこびたい。

■聖徳太子生誕1400年。
わたしは30年もすれば忘れられる。
浄土にいき仏にさせていただく。

■昨年11月。
報恩講のことで門徒のかたより電話があった。
報恩講はどうするのか?
コロナのため家族でおこなうとこたえた。
その月に電話で話した門徒の方の御主人から
連れが亡くなったと連絡があった。
いつ亡くなるかわからない。
今を精いっぱい生きなければならない。
今、念仏を。
阿弥陀の願い。
[阿弥陀如来の本願は
かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となり
たえず私によびかけます

このよび声を聞きひらき
如来の救いにまかすとき
永遠に消えない灯火が
私の心にともります
・・・
この世の縁の尽きるとき
如来の浄土に生まれては
さとりの智慧をいただいて
あらゆるいのちを救います]

■御文章。
聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられ候ふ。
そのゆえは、
もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたり往生は治定せしめたまふ。
その位を一念発起入正定聚と釈し、
そのうえの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまひし
御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなしこ、
あなかしこ。。

■住職
いじわるしたこしはおぼえていない
いじわるされたことは忘れられない
そんなわたしたちでも
阿弥陀様はすくってくださる。

■掲示板のことば
当たり前と思っていたことが
そうではなかったと
気づく時
その大きさに
手が合わされる