20/12/8 ひたちなか市 ひたちなか市の歴史。
徳川光圀と故郷の遺跡文化財保護
幕末の湊村の賑わい
佐野コミュニティーセンタ
鴨志田篤二先生。
[ ]はhp制作者メモ。
12■はじめに
常陸国名所屏風図。
江戸時代の常陸国を描いた。
那珂湊を中心に描かれている。
袋田の滝・村松山虚空蔵堂・
鹿島神宮・霞ケ浦・筑波山・
平磯海岸・磯前海岸一帯の岩礁・
暮らしの様子が描かれている。
那珂湊は賑わっている。
3■光圀と文化財保護。
水戸藩は定府。
水戸藩主は江戸に住んだ。
藩主が水戸にいくには
幕府の許可が必要。
光圀は34歳で藩主となる。
63歳のときに藩主を譲る。
藩主を譲った後は
常陸太田の西山荘で暮らした。
歴代水戸藩主で
一度も水戸にいかない
藩主もいる。
光圀は73年の生涯で通算27年間、
水戸藩領に在留した。
大日本史の編纂・
文化財の保護・保存に努めた。
■文化財の保護・保存に関する例。
■1662年。
前浜村と平磯村の境界争いがある。
水戸藩は村界調査のため
古塚を掘った。
石棺がみつかる。
石棺の中から
甲冑・大刀・
短矛・陶器などが出土。
光圀に報告。
由緒あるものと考えた。
光圀は平磯村に
堀出神社をつくる。
出土品をまつる。
■1965年。
市毛村に住む水戸藩士が
屋敷内の古塚を掘った。
真鍮製六角の経筒が出土。
光圀の文字が見られた。
光圀に献上。
光圀はその地に日蓮宗・
一乗山無二亦寺を建立。
経筒を寺宝とじた。
■1667年。
静神社・
銅印 印文「静神宮印」
光圀は静神社から神宮寺を分離。
神社改築造営時、
境内のヒノキの下より
銅印が出土。
光圀は銅印を入れる箱を寄進。
■小松寺に平重盛の墓がある。
光圀は小松寺に
木造浮彫如意輪観音像を奉納。
■1657年
光圀は大日本史の編集に着手。
1672年・小石川藩邸に
彰考館をつくる。
■1677年。
武田村の湫尾ぬまお神社に
光圀は神鏡を奉納。
武田村は甲斐武田氏発祥の地。
■1687年。
水戸領の馬頭村。
那須国造りの碑。
光圀の命で佐々宗淳が
碑文を調査。
歴史的価値を知る。
光圀は御堂を建て
碑を御神体として祀る。
■1687年。
水戸の神崎寺で
銅鋳製経筒が出土。
筒身の銘文。
如法納経
長承二年二月廿三日
法主聖□敬白長□
神崎寺は経筒を光圀に献上。
光圀は如法経を書写させ
経筒に入れ、
寺に保管させた。
■1688年。
馬場村・稲荷塚古墳。
勾玉・太刀などを出土。
光圀は太田蓮華寺の
寺宝として保管させる。
太田蓮華寺は
頼房が水戸藩主になったとき、
佐竹氏の祈願寺勝軍寺
を改宗し、
創建した日蓮宗の寺。
久昌寺の前身。
■1690年。
玉里村・岡岩屋古墳。
太刀などを光圀が発掘。
■1691年
馬頭村・那須国造碑の下。
笠石の下を発掘。
■1692年
[上車塚(上侍塚)・
下車塚(下侍塚)
の発掘]
光圀は那須国造碑の
主をしるために、
発掘調査を佐々宗淳に命じる。
古碑の主はわからず。
出土遺物は埋め戻された。
日本で最初の
発掘調査といわれる。
■1692年。
馬場村・稲荷社より石剣出土。
光圀は若宮八幡に保管させる。
■1692年。
光圀は摂津湊川楠木正成の墓に
「嗚呼忠臣楠子之墓」
と刻した石碑を建立。
■1694年。
光圀は多賀城碑が
苔むした状態であることを聞く。
仙台藩主伊達綱村へ
碑の覆屋を建てる進言の
書簡を送る。
後に仙台藩は覆屋をつくる。
■1696年
辻村 硯宮神体。
硯宮神社は
今宮八幡宮だった。
源頼朝が戦勝祈願に
鹿島神宮を参拝。
祈願文を今宮八幡宮で書いた。
使用した硯を今宮八幡宮に奉納。
光圀がこの故事をしる。
光圀は硯を御神体とさせ
硯宮神社と名前を変更させた。
4■岡倉天心と古美術の保護・保存。
明治時代の廃仏棄釈。
仏像の破壊・海外流出。
天心は憂いた。
法隆寺夢殿の救世観音像に感動。
仏像など古美術品の
保護・保存に興味をもつ。
1886年・美術保存ニ付意見で
文化保護を提案。
日本の文化財調査・保護を推進。
彫刻・古画の模写・模造事業を推進。
東京美術学校で横山大観らが参加。
日本美術院で奈良を中心に
国宝修理部門を設ける。
新納忠之介らを
彫刻の修理・復元に当たらせる。
天心は現状維持修理を発案。
天心の文化財保護の考えは
今日のもとになる。
5■日本の文化財を戦災から守った人
法隆寺に学ぶ
1949年 法隆寺の金堂が炎上・
壁画が焼損。
火災などによる
文化財保護の危機を憂慮。
1950年・文化財保護法制定。
6■ラングドン・ウォーナー。
法隆寺、東照宮、皇居など
太平洋戦争で
アメリカは日本へ空襲
ウォーナーは空襲から
日本の文化財を守ろうとした。
文化財のリストを作り
空襲をしないよう訴えた。
7■文化財愛護シンボルマーク。
1966年制定。
文化財愛護運動推進のため。
ひろげた両手のかたち。
日本建築の斗?のイメージ。
三つ重ね
過去・現在・未来にわたり
文化財を伝承する意味。
8■水戸に感銘・志高く。
吉田松陰水戸留学の地の石がある。
吉田松陰が水戸を訪れたのは、
1851年12月から約1カ月間。
永井政介宅に宿泊した。
会沢正志斎・豊田天功に学ぶ。
水戸の若者と交流・水戸学を学ぶ。
後に長州藩の志士を奮起させた。
[■吉田松陰の漢詩。読み下し。
四海皆兄弟、天涯比隣の如し。
吾、山陽の陬に生まれ、
来りて東海の浜に遊ぶ。
長刀快馬、三千里、
迂路水城に先づ君を訪う。
一見、天を指して肝膽を吐き、
交際何ぞ旧と新とを論ぜん。
席を分かつこと三旬にして吾は去る。
眥を决っすれば奥羽万重の雲、
浩然の気は天地に塞がり、
華夷何ぞ嘗て疆畛有らん。
一張一弛は国の常有り、
之を弛め之を張るは其の人に在り。
澹菴の封事は蒙古を愕かし、
武侯の上表は鬼神を泣かしむ。
大義今に至るまで猶赫々たり。
丈夫敢えて望まん、車前の塵を。
見る、君年少にして気義を尚い、
白日剣を学び、夜文を誦するを。
斗?の小人、何ぞ数うるに足らん、
負く勿れ、堂々たる七尺の身に。
吾も亦、孩提より斯の志を抱き、
韜畧を将って国恩に報ぜんと欲す。
東西に離合するは意とする所に非ず、
誓って功名を将って遥かに相聞せん。
壬子孟春?別
順成永井兄
??田矩方]
■会沢正志斎。
会沢正志斎は藤田幽谷に学ぶ。
彰考館総裁となる。
斉昭・慶喜の先生。
幽谷から正志斎へと
水戸学の思想は発展。
藩政改革の理念となる。
1825年・新論を書く。
幕末志士達に影響を与えた。
9■吉田松陰と水戸。
松陰は正志斎の
新論を松下村塾で用いた。
10■那珂湊の賑わい。
江戸後期の番付表・
関東自慢繁盛競。
大関 銚子・宇都宮
関脇 水戸湊としている。
吉田松陰は
「湊、人口衆庶、
水戸封内最繁盛之地」
と記している。
那珂湊は、
奥州・北海道と江戸を結ぶ
東回り航路の中継港・
那珂川を利用した水戸藩の港。
水戸藩は湊村を要衝の地とした。
1698年・光圀は?賓閣を
太平洋と那珂川のみえる
那珂湊の高台につくった。
10■那珂湊の反射炉。
水戸藩が鉄製大砲を
つくるための反射炉。
反射炉は2基つくられた。
斉昭は銅製大砲に変えて
鉄製大砲を考えた。
南部藩より
反射炉建設の技術者
大島高任を採用。
那珂湊が建設地として
選ばれた理由。
地盤かかたい・
水戸城から近い・
経済的に豊か・
原料の鉄・燃料の石炭の
調達運搬に便利。
大工棟梁は飛田与七。
煉瓦の粘土は那珂川町。
1855年・1号炉完成。
臼砲を4門つくる。
完成した大砲は幕府へ送る。
大型の大砲鋳造は2炉以上必要。
1857年・2号炉完成。
良質の鉄がなく大砲強度に問題発生。
大島は南部の釜石に
洋式高炉を建設。
良質の柔鉄の見通しを得る。
1858年・鋳造の操業を開始。
臼砲3門・カノン砲1門を鋳造。
釜石の柔鉄により、
カノン砲3門を鋳造。
斉昭謹慎。
大砲つくりを中止。
1860年頃・大砲つくり再開。
1864年までカノン砲数門の鋳込み。
天狗党の乱で反射炉焼失崩壊。
1937年・跡地に反射炉を復元。