20/11/26 那珂市 上宮寺
親鸞聖人報恩講法要
菅原昭生先生
島根県大田市温泉津 西楽寺住職。.
[ ]はhp製作者メモ。
■御讃題。
[聞き取れなかった。
以下のような・・・。
いのち終えるとき、
すみやかに浄土に生まれ、
この上ないさとりを
開かせていただく。
南無阿弥陀仏の
はたらきに出あうものは、
むなしい迷いの生を
二度とくり返すことはない。
如来のはたらきに出あう人生は、
無常のいのちを生きながら、
かならず
さとりの浄土に生まれゆく、
むなしく終わらぬ人生である]
■禅僧・仙高フ歌。
目はかすみ 耳は蝉鳴き
葉は落ちて 霜を頂く 歳の暮れかな
■かすみは春かすみ。
蝉鳴きは耳鳴り 暑い夏。
葉は落ちては秋・歯が抜ける。
霜は冬・髪が白くなる。
人の老いゆく姿を
春夏秋冬の中に詠んでいる。
これは人生の終点のサイン。
そろそろ終点と
知らせてくれている。
電車の車掌さんは言う、
まもなく終点。
忘れ物をしないように
・・・。
人生の終点はそろそろ近い。
身体からのサインを
見逃さないように。
■人生の忘れ物。
わたしの人生は何だった。
これからどうなる。
■浄土とは
どのようなところか。
ふたつのたとえ話。
■浄土のたとえ話1.
浄土とはいのちの還る
いのちのふるさと。
ふるさとには、
景色・親・幼なじみがある。
ふるさとは
遠きにありて思うもの。
ふるさとを離れた時よくわかる。
■景色。
うさば追いし かの山
こぶな釣りし かの川
ふるさとには
私を育ててくれた
山・川・草木がある。
ふるさとを思うと
心に故郷の景色がうかぶ。
■親。
ふるさとには
帰りを待ってくれる親がいる。
親は
「土産を持って帰れ・
出世して帰れ」
とはいわない。
「土産なくていい。
疲れ果てたときこそ
帰って来い」と言う。
■幼なじみ。
同窓会はよい。
幼なじみとあえば
子供時代に戻る。
そこには
勝ち負け・損得はない。
■景色は浄土の国土。
■親は阿弥陀仏。
■幼なじみは、
先立っていった親兄弟が
菩薩方としていてくれる。
■曇鸞の往生論註に
浄土は、
国土荘厳・仏荘厳・菩薩荘厳
からなるとある。
ふるさとと通じるものが
あるかもしれない。、
■浄土のたとえ話2.
浄土を人生劇場の舞台裏にたとえる。
舞台裏はふつうは見えない。
見えるのは表舞台。
そんな舞台裏を
見せてくれる場所がある。
京都の太秦映画村。
■夏に水戸黄門の
撮影現場をみたひとのはなし。
変なものを見てしまったという。
それは、
この紋所がみえないか
悪代官が捕まる場面をみた。
撮影が終わった。
そうしたら
悪代官が黄門さまに近づく。
悪代官「暑かったですね。
あっちでビールでも飲みましょう」
悪代官と黄門さまは並んで
仲良くビールをのみにいった。
こんな話をした?
悪代官「暑い中お疲れさまでした」
黄門さま「気の毒な役ですね。
テレビを見た人は
あなたを悪人と思います」
悪代官「私の役割です。
慈悲深い代官では、
黄門さまの紋所を出す場面が
なくなります。
悪代官は私の仕事。
悪代官が悪いほど
黄門さまが活躍する。
だからこれでいいのです」
舞台裏では、
善人・悪人が共に
「お疲れさま」と
ねぎらいあえる。
私は人生劇場の
表舞台に立っている。
主役は私。
そんな中
支えてくれる人・
楽しい人・
悪い人・
いろいろなひとがいる。
やがて舞台裏であうときは
ねぎらえあえる。
人生劇場に
無駄な配役の人はいない。
通行人の役がいなければ
街にならない。
わたしも
他の人の人生劇場の中に
いろんな役で登場する。
「人生お疲れさま。
お世話になりました。
またあえてよかった」
と言える世界。
それが、
人生劇場の舞台裏・
いのちのふるさと・
浄土かもしれない。
[法話は2回にわけてあった。
法話の間に全員で
正信念仏偈六首引を称える]
■掲示板のことば
怖がらないことが
強さじゃない
泣かないことが
強さじゃない
本当の強さとは
どんなことがあっても
前を向いて生きること
未来往生
永遠の未来に向かって生きる
死のない世界、
浄土に向かって生きる。
むずかしい言葉で
いうと正定聚を生きる
それを念佛の行者と
いいます