20/9/29・30 那珂市東木倉 清水洞の上公園。
1コスモス。
2ツリフネソウ。
3コムラサキ。
4ヒガンバナ。
5
6
7ミソソバ。
8サルスベリ。
9しみずばし。
10水車。
11カキ。
12ハス。
13ハス。
14
15ツリフネソウ。
16ツリフネソウ。
17ダンドボロギク。
18ヒヨドリバナ。
19
20
21
22ツリフネソウ。
23ツリフネソウ。
24ミソソバ。
25ツリフネソウ。
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27清水洞の上公園近く。
左 根本正翁之碑
右 根本美倫君碑
■根本正翁之碑。(読み取りのできない文字多くあり)
議院議員従五位勲三等 根本正翁
人類の父根本正君此の地に眠る 君は嘉永四年十月
城県那珂郡五台村字東木倉に生れ 昭和八年一月
十三を以て溘焉としてf天す蓋 資性 聡明 人情
灑落光風斉月如 大義 至誠
す研学志 夙に渡米し ボル マント大学に学び
士 学位を受け又欧州を巡歴して 帰朝す 世界 と 大学
に建白する処 奉じ命 南米等に航する
実地よ探険す 早 よる植民 必要 痛感
に日本 日アルコ 知する 明あ と
衆議院議員となり未成年 禁酒禁煙法国民 月 と
道国有等 を大成す 君 る
天地 間に充満す には君功績による る
れ後に 前 功 天聴に 達し特に従五位を追贈せ
記して以て 瞑福 称る 小林 敏 撰文
甥根本 建立
昭和十年三月三日
■根本美倫君碑(読み取りのできない文字多くあり)
根本美倫君は衆議院議員勲四等根本正
の長男 母は贈従四位桜任蔵君孫徳子
にして正に 根本徳孝翁 及 早子の 孫也
明治二十四年五月二十三日東京に生れる 小
学 及 中学校を卒業し 四十二年八月二十六
日 勉学渡米の為 太平洋航海中 布哇へ寄
港 前日地洋丸に 於て 永眠せり 同二十七
日布哇 美 以教会にて 鄭重なる 葬儀執行せ
を 同年十月一日 遺骨 到着 同三日 銀座教
会 葬儀に 執行 会場立錐
地 き程 同情 数日 友人会葬せ
□ 同日 上野発車 郷里 東木倉 埋葬
美倫君は 常に 清 好 約束を重じ又
質素精進 克 勉強し 所謂 人
事 蓋 天命 高尚有為 性
□ 実 青年 範 無量慈愛せ
天 恩恵は 永久に 美倫君 霊 隆
確信す
明治四十三年八月二十六 週
建 従弟 根本 勉撰文
■根本正年表。
嘉永 4(1851/10/9)五台村に生まれる。
1860年・9歳・神主の塾に学ぶ。
1863年・12歳・豊田天巧の家僕になる。
1867年・16歳・水戸藩南御郡方になる()
1871年・20歳・上京・三叉学舎に学ぶ。
1872年・中村正直の私塾に入る。
1874年・神戸の郵便局に赴任。
1877年・横浜局へ転任。
1877年・ヘボン塾・バラ学校で学ぶ。
1878年・洗礼を受ける。
1879年・28歳・渡米。
1879年・オークランド市小学校入学。
1881年・ホプキンス中学校入学。
1884年・34歳・バーモント大学入学。
1889年・バーモント大学卒業。
1889年・9月欧州へ・11月帰国。
1890年・選挙落選。
1890年・愛国公党政務調査委員。
1890年・徳子と結婚。
1890年・東京禁酒会副会長。
1891年・美倫誕生。
1893年・メキシコへ移民地調査。
1894年・選挙落選。
1894年・中南米視察。
1895年・視察旅行から帰国(3/6)
1896年・北米・中南米の商工業視察。
1898年・47歳・選挙初当選。
1898年・日本禁酒同盟結成。
1899年・国民教育授業料全廃建議案。
1899年・小学校国庫補助法案提出。
1899年・インド・ビルマの商工業視察。
1899年・未成年者喫煙禁止法案提出。
1900年・美術奨励建議。
1900年・国字国語国文改良建議。
1901年・未成年者飲酒禁止法初提案。
1901年・史談会国庫補助建議。
1901年・国民教育及び鉄道客車質問書。
1902年・普通教育教科書中憲政要旨編入建議。
1901年・輸入原料砂糖戻税法案。
1901年・工業試験所に板硝子製造工場設置建議案。
1901年・未測の海岸及び水路の測量完成建議案。
1901年・貧民救助建議案。
1903年・教育及び行政質問書。
1903年・災害地地租免除法律案。
1903年・大日本帝国水難救済会国庫補助建議。
1903年・国定関税建議。
1904年・国定教科書質問書。
1906年・公立幼稚園の保母に恩給法律案。
1906年・私設鉄道法中改正案。
1907年・商科大学設立建議。
1907年・小学校教員待遇質問書。
1907年・小学校教員退隠料及び遺族扶助料法改正案。
1908年・三女直子死去。
1909年・教育基金予算案代表質問。
1909年・南米航路賛成演説。
1909年・ローマ字普及建護。
1909年・市町村立小学校教育費国庫補助法中改正法律案委員長。
1909年・小学校教科書用図書建議。
1909年・衆議院議員選挙法中改立法律案提出。
1909年・町村制中改正法律案共同提案。
1909年・長男美倫死去。
1910年・帝国学制案提出。
1910年・水郡鉄道建設の建議案提出。
1911年・小学校教員優待質問書。
1911年・在外国売淫婦取締法制定請願。
1911年・次男正次死去。
1914年・敷設延期質問書。
1914年・衆議院食堂で酒類販売止める。
1919年・水郡線建設始まる
1921年・中国・満州・朝鮮を旅行。
1922年・未成年者飲酒禁止法成立・施行。
1922年・政友合脱退。
1924年・総選落選・政界引退。
1927年・水郡線、常陸大子まで開通。
1933年・82歳・死去。
根本正の墓は東京青山にある。
東木倉には分骨された?
根本正は東木倉で選挙活動はしなかった。
地元支持者に議会報告書を送ったくらい。
支持者が無報酬で選挙運動を行った。
選挙違反者はいなかったという。
根本正が地元のために行ったのは
水郡線を作ったこと。
あとは日本の事を考えた活動。
■足尾銅山鉱毒に帆走した
田中正造は根本正より10才ほど年長。
■田中正造と根本正01
第 13議会の時、根本君と席を隣にした。
気味が悪い。
後ち、
根本君が信者(キリスト教徒)というを聞きてより、
神様の側らにいる心地して、
終に煙草をやめました。
(田中正造回顧談)
■田中正造と根本正02
明治 34年 (1901)、
田中正造は明治天皇に鉱毒被害を直訴する。
即時に拘束される。
警察に連行され尋問を受ける。
根本正は真っ先に駆けつけ慰問した。
■ふたりの生き方はすごい。
気骨を感じる。
いまこのような政治家を知らない。
ふたりは
私を捨て、
国のために・正義のために生きた。
■美倫君について。
美倫は根本正の長男。
明治24年5月23日・東京生れ。
根本正のアメリカでの恩人はビリングス氏。
根本正は恩人の名から長男を美倫とした。
美倫は中学卒業後アメリカ留学を決意。
地洋丸で米国にむけ出航。
8月26日ハワイ寄港前日、地洋丸船上で病死。
寄港先のハワイ美以教会にて葬儀。
10月1日遺骨到着。
10月3日に正の通う銀座教会で葬儀。
その後遺骨は東木倉に埋葬された。
なお
美倫は船の上で病死・水葬にされた。
遺骨はなく、東木倉の美倫の碑は墓ではない。
とのはなしもある。
■釈尊のことば。
あたかも、
母が己が独り子を
命を賭けて護るように、
そのように一切の
生きとし生れるものどもに対しても、
無量の(慈しみの)
こころを起すべし。
「スッタニパータ」第一章八節 149句。