20/9/13 那珂市 
ふれあいセンターごだい 
水戸・歴史に学ぶ会。
疫病退散:牛頭天王信仰。齋藤郁子先生。
真木和泉守の「信長論」 仲田昭一先生。

■疫病退散
牛頭ごず天王てんのう信仰。
齋藤郁子先生
■はじめに。
■牛頭天王信仰。
疫病退散で信仰を集めた牛頭天王。
午頭天王は祇園精舎の守護神。
平安時代、
災い・疫病を払う神として、
京都八坂神社に鎮座。
祇園信仰の神。
牛頭天王は
神道で素戔嗚尊すさのおのみこと・
仏教で薬師如来。

■全国への広まり。
中世にさかんになる。
牛頭天王社・祇園社が
建立される。

■水戸城下での牛頭天王信仰。
大掾氏が京都から祇園社を勧請。
江戸氏が水戸城内に祀る。
徳川時代木町に移る。
水戸城主武田信吉菩提所の
心光寺跡・
備前町に移る。
斉昭のとき上河内村へ移る。
素鵞神社と改称。

■素戔鳴尊を祀る
身近にある神社。
■本社として祀られている。
素鵞神社・瓜連・上河内・
若林・小美玉・東海村・
押辺・足崎。
駒形素鵞神社・常陸大宮市。
管神社・水戸市。
小原神社・笠間市。
八坂神社・水戸市。
一の矢八坂神社・つくば市。
■境内社として
祀られている素鵞神社。
甲神社・常陸大宮市。
石神神社・東海村。
千波神社・水戸市。

■瓜連の素鵞神社。
■牛頭天王信仰と素鵞神社。
那珂市瓜連の素鵞神社。
東日本大震災で
拝殿や本殿が被災。
修復のため整理。
牛頭天王関連品が見つかる。
牛頭天王坐像・1725年制作。
素戔嗚命立像軸装・江戸時代末。
薬師如来立像・年代不詳。
牛頭天王面・年代不詳。
806年・素鵞神社創建。
1560年・佐竹義昭が修営・棟札が残る。
祭神の素戔嗚尊と牛頭天王が神仏習合。
江戸時代後期まで・牛頭天皇宮と称した。
1837年ごろから素鵞神社の社名を用いた。

■寛文元禄の社寺改革・光圀時代。
■天保の社寺改革・斉昭時代。
■20/7/21茨城新聞。
那珂・素鵞神社。
「疫病退散の神」の宝発見。
■20/8/29 読売新聞。
素鵞神社。
神仏習合の姿 那珂でも。
発見の画、木像「大変貴重」。

■真木和泉守の「信長論」 
仲田昭一先生。

■「信長論」。
古より天下を取る者
・・・・
天正・文禄の際、
英雄豪傑一時に輩出す
・・・
則ち天下積年の乱、
一朝にして正に反すは甚だ難しと
・・・
右府性?儻、
大志あり、
會々朝廷密使を発して
之を勤はりたまふ、
是に於て奮然大いに喜び、
自ら意らく、
朝廷もまた我を知りたまふか。
内大難を平げて
政を天子に帰したてまつり、
外蠻夷を攘ひて、
而して民を其の土に安ずるは、
我の志なりと、
また以為らく
我に非んば則ち
此の責に任ずるものなきなり。
然ども此の喪亂を致すものは、
由来する所遠し、
能く尋常之平ぐる所に非ざるなり。
若かず鼎沸する者は、
之を盪滌し、
魚瀾する者は之を振刷すること、
譬へば雷霆の晦冥震動するが如く、
万物を一洗して止まん、
而る後始めてまさに
禮楽刑政一に統べ、
天下万民其の所を
得べきなり。
・・・。

信長は才気優れて拘束されない。
非常に奔放不羈。
才気高く・
大きな志を持っていた。
朝廷で密使を発し
いたわることがあった。
信長は大変喜び、
自ら思うに朝廷もまた
私を知っておられるか。
自分は
内では大難を平らげ
政事を天子にかえす。
外は外敵を攘く。
元々の志は
民をその国土に安心に住ませること。
考えるに、
信長でなければ、
これを果たすことは出来ない。
戦国時代を平定することは出来ない。
この騒乱の由来は遠くにある。
百年に及ぶ争乱が続いている。
普通には平定出来ない。
鼎沸。
鼎が沸き返るような混乱は、
その鼎をひっくり返して、
全部その湯を捨てなければ、
争乱は収まらない。
魚瀾。
魚のはらわたが腐って来る。
はらわたの中から腐って来る政治。
それを切り捨て、
はらわたを切り取らなければ、
平定することは難しい。
雷鳴が空に震動し、
一斉に雨が降り洗い流す。
戦国時代を収めるには勢いが必要。
然る後に
礼楽刑政が一つに統一される。
天下万民は、
そういう状態になって初めて、
安心して暮らせる。
・・・・・・。
■礼楽刑政とは、
古代中国において
国家の秩序を維持するために必要な4つ。
礼・礼儀。
楽・音楽、娯楽。
刑・刑罰。
政・政令、法律。


■久留米藩水天宮神官真木和泉守保臣。
久留米藩士が水戸で
会沢正志斎の塾に学ぶ。
藩士は「新論」を写し持ち帰る。
真木和泉守が「新論」を読み驚く。
1844年・会沢正志斎に学ぶため水戸へ行く。
真木和泉守は、水戸学に影響を受ける。
「信長論」を書く。
政治理念として、
「礼楽刑政が一つに統一され、
天下萬民其の所を得べき」、
と書いている。
元治元年蛤御門の変・天王山で自刃する。

■真木和泉守の天保甲辰日記。1844年。
■織田信長。
1551年・信長家督相続。
1559年・尾張を支配。
1560年・桶狭間の戦い・今川義元に勝利。
1561年・上杉謙信と武田信玄・川中島の戦。
1562年・信長美濃攻略・岐阜と命名。
「天下布武」の朱印使用開始。
1569年・信長内裏を修復。
1571年・佐竹義重と葦名軍と対陣。
信長・伊勢長島の一向一揆と戦う。
信長・比叡山焼き討ち。
毛利元就死去。
1573年・武田信玄死去。
信長・朝倉義景に勝利。
信長・浅井長政に勝利。
1574年・信長・伊勢の一向一揆を平定。
1576年・信長安土城築城。
1577年・信長右大臣従二位。
佐竹義重、信長の上申で従五位下・常陸介。
1578年・上杉謙信死去。
1580年・10年間続いた石山合戦鎮圧。
1582年・伊勢神宮の内宮と外宮を造営。
本能寺の変。
■名茶壺の変遷。
■初花肩衝。
伝来
鳥居引拙→大文字屋疋田宗観→
織田信長→織田信忠→
松平念誓→徳川家康→
豊臣秀吉→宇喜田秀家→
徳川家康→松平忠直→
松平備前守→コ川綱吉・以後徳川家所蔵。

徳川家は、幕府の権威とした。

■九十九髪茄子。
足利義満の茶入。
その後代々足利将軍家に伝わる。
足利義政の時に
義政の茶道の師村田珠光が
99貫で買った。
「つくも」という名前になる。
その後、松永久秀が1000貫で買う。
信長から所望される。
松永久秀は献上し信長配下になる。
本能寺の変のとき信長の側にあった。