20/8/5 ひたちなか市 正安寺法話 真宗大谷派。
正信偈・同朋新聞8月号参考。
【原文】
摂取心光常照護  
已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 
常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇

【読み方】
摂取の心光、常に照護したまう。
すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧、
常に真実信心の天に覆えり。
たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧の下、明らかにして闇きことなきがごとし。
■掲示板のことば。
他人への批判は
的を射たと
得意顔
自分への批判は
的はずれだと
不満顔

■以下はhp制作者のメモ。
仏さまの方から
しっかり頑張って生きてくれ。
どんな苦悩も乗り越えて生きてくれ。
と拝まれ、祈られ、願われている私。
こちらがする余地は何にもない。
ただ南無阿弥陀仏と称名念仏申すのみ。

■東井義雄師のことば。
■のどちんこ。
のどちんこ、口蓋垂こうがいすいという。
のどの奥で気管と食道と道がわかれる。
食べ物が気管の方に進むと窒息する。
そうならないように、
口蓋垂が気管の入り口を蓋をする。
それにより食べ物が食道に進む。
「俺が生きてやっているのだ」と生きている私。
生まれた時から、
働き続けてくれているのどちんこ。
口蓋垂だけでない。
「目」があり見ることができる。
「耳」があり聞くことができる。
「呼吸」や「心臓」が昼夜無休ではたらき続けている。
不思議きわまる。
「生きている」とばかり思っていたが「生かされていた」。
私が頼んでやって貰っているわけでない。
私のために生かさずにはおかず、
という大きな願いが、働き詰めに働いている。
これが仏さまだった。

■正信偈より。 
凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
「凡」は何もわかっていない愚か者の私のこと。
「聖」は思いあがった私のこと。
「逆」は生かしてくれているものに尻を向けていた私のこと。
「謗」は生かしてくれているものに逆くばかりか、
それを謗る罪を敢えて犯していた私のこと。
「斉ひとしく」どんな川の水も、
摂おさめとっていく海のように、必ず摂取される世界があった。
そのど真ん中に、私は生かされていた。
逆いているときも、謗っているときも「み手のまんなか」であった。
逆いていた私が、
仏さまの「み手の真ん中」で逆いていたに過ぎなかった。

■蓮如上人御一代記聞書。 
「その籠かごを水につけよ、
わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ」
とある。
私は努力しても汲み取ったものが、
みんな流れ出る籠のような身の上だった。
いくら汲み上げようとしても、これで救われたという状態にはならない。
みんな流れて出てしまう。
その私を水の中に浸けてしまうのだとある。

■至心に廻向したまえり。
仏説無量寿経に、
至心廻向  願生彼国願 
即得往生 住不退転

とある。
「至心に廻向して、
彼かの国に生まれんと願ずれば、
即ち往生を得、不退転に住せん」
と一般に読まれた。
ところが親鸞聖人は、
「至心に廻向して」と読まれたところを、
『教行信証』の中で、
「至心に廻向したまえり」
と送り仮名つけた。
こちらからひたすら至心に―
一生懸命に仏さまにお願いし、
ひたすらに廻向し―努力するのではなくて、
仏さまのひたすらなる願いであり、
ひたすらな仏さまのお働きによって、私は救われた。
こちらから如来さまへの「至心」「廻向」ではなく、
「如来さま」から「私」への「至心」であり「廻向」である。
と親鸞聖人は説いた。

■法如上人の言葉。
この言葉を受け継いで、
法如上人の言葉、
助けてくだされよ、というにあらず
助かってくれよ、とある仰せに従うばかりなり

「助けてください」とこちらからお願いするのではない。
「助かってくれ」という仰せに従うばかりなり。
こちらが水を汲み上げるのではなく、
私の全体をお救いのお慈悲の中に浸させて頂く。
 
■願われている私。
見ているつもりだが、見させて頂いている。
聞いているつもりだが、聞かせて頂いている。
聞く耳も何もかもみんな頂き物。
呼吸・心臓も頂き物。
生かされているみ手の真ん中の私たち。
仏さま、神さまに祈るという頂き方が根強い。
そうでなくて、拝まない先から拝まれている。
仏さまの方から
「どうぞしっかり頑張って生きてくれよ。
どんな苦悩も乗り越えて生きてくれよ、
と拝まれ、祈られ、願われている私」。
こちらがする余地は何にもない。
大きな願いの水の中に、私の全体をすっぽり浸らせて頂く以外にない。
どうしても何とかこういう境地になりたいと、
水を汲み上げようとする努力がしたい。
それは、私のはからいになる。
結局、わがはからいを頼みにする「傲慢さ」と「愚かさ」から逃れられない。 
至心の仏さまから私への働きかけ、廻向がある。
だから、「至心に廻向したまえり」
―こちらがひたすら尽くして、仏さまの方に向かっていくのではない。
仏さまの至心、仏さまのご廻向が、私のために既に成就されている。