20/7/5 ひたちなか市 正安寺法話 真宗大谷派。
正信偈・同朋新聞7月号参考。
■原文。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
■読み。
よく一念喜愛の心を発っすれば、
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、
衆水、海に入りて一味なるがごとし。

以下hp制作者のメモ。
■浄土真宗の本尊は名号。
南無網弥陀仏。
念仏するとは名号を称えること。
念仏すれば浄土にいける根拠は、
宝蔵菩薩のたてた願・十八願による。
「わたしが仏になるとき、
すべての人々が心から信じて、
わたしの国に生れたいと願い、
わずか十回でも念仏して、
もし生れることができないようなら、
わたしは決してさとりを開きません。
ただし、五逆の罪を犯したり、
仏の教えを謗るものだけは除かれる」
法蔵菩薩は阿弥陀如来になった。
願は成就された。
私が西方浄土に生れるには
心から信じて、
西方浄土に生れたいと願い、
十回以上念仏すればよい。
教えを信じて、ひと思いの喜びの心を起こすならば、
煩悩をなくさないまま涅槃にいたる。
■ここでわからないことがある。
能発は起こすことができること。
私が喜愛の心を起こすことではない。
阿弥陀仏の願いによって、
その願われた通りに、喜愛の心が私の心の中にわき起こるとこと。
信心がもとになって喜愛がある。
信心は私が自分の意志で起こすものではない。
???
「南無阿弥陀仏」としてはたらく、
阿弥陀仏の本願の力により起こるもの。
・・・ここが理解困難。
阿弥陀仏の願いによって私に信心が生じる。
その信心によって歓喜の心が起こる。
南無阿弥陀仏は私の口から発せられるが
阿弥陀如来によって名号となり発せられる。
別な言い方
「阿弥陀如来の本願は
かならず救うまかせよと
南無阿弥陀仏のみ名となり
たえずわたしによびかけます」
自分に願いが差し向けられていることを喜ぶことは、
信心をいただくこと。
煩悩をもった私でも、
仏の願いに素直になる信心によって、
喜愛の心が起こされる。
喜愛の心が起こされ、
煩悩をなくさないままで、
煩悩の支配を離れた涅槃という境地にいたる。
涅槃は煩悩を滅した状態。
煩悩を滅した状態は死と悟り。
悟りは悟れる人と悟れない人とがいる。
私は悟れない。
阿弥陀仏の本願により往生し涅槃の境地にいたる。
極楽浄土にいかせてもらうと考える。

■「凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」
凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、
衆水、海に入りて一味なるがごとし)と。

凡聖は煩悩に迷っている凡夫と、煩悩をなくした聖者。
煩悩に支配され続けているか、煩悩を滅しているに違いがある。
逆謗は五逆を犯した人、謗法は仏法を謗る人。
回入は、回心して帰入する、
自分の思いをひるがえし真実に目覚める。
自分のはからいを捨てて、
真実に背を向ける心をひるがえすことが必要。
誰も自力では往生できない。
凡夫・聖者・五逆のひと・謗法のひと。
自分本位をすて、真実に対し謙虚になり、
本願を喜べるようになるならば、
阿弥陀仏の願いに救われる。
■どこから流れてきた川の水であろうと、
海に注ぎ込めば、みな同じになるようなもの。
人はそれぞれ生き方に違いがある。
阿弥陀仏の願いのもとでは違いはない。
私に阿弥陀仏の願いが向けられている。
気づかせてもらって喜ぶ。 
一念の喜愛の心を起こすならば、
涅槃、往生を得させてもらえる。
本願に触れた一念の喜愛の心が大切。
・・・具体的には???

■観無量寿経に書いてある。 
釈尊は阿難と韋提希に説いた。
極楽世界に往生するには、上品上生から下品下生までの
九種類がある。
説いた後に、釈尊は阿難にいった。
そなたはこの教えをたもち、決して忘れてはならない。
この観仏三昧を行うものは、その身はこの世にありながら、
無量寿仏および観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができる。
善良なものたちが、
無量寿仏の名と観世音・大勢至の二菩薩の名を聞くだけでも、
はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる、
ましてそれらを心に念じ、常に思い続けるなら、なおさらである。

念仏するものがいるなら、
その人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。
このような人は、
観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、
さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れる」
■最後に説いた。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。
このことを心にとどめよというのは、
すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」

■・・・信心とは
無量寿仏の名を心にいつもとどめること。
つまりは、
名号の南無阿弥陀仏を心の中にしっかりととどめることか?
「このよび声を聞きひらき
如来の救いにまかすとき
永久に消えない灯火が
私の心にともります」



■法話での信心の例。
■琵琶湖堅田で漁を営む源右衛門と源兵衛の親子のはなし。
親子は光徳寺門徒。
蓮如が法難を受けた際に、
三井寺に宗祖親鸞の真影(木像)を預けた。
後年、返却を請う。
三井寺は引き換えに生首を2つ持って来れば返すと返事。
蓮如は困ってしまった。
これを聞いた熱心な門徒源右衛門と源兵衛。
取り戻すため自らの首を差し出すことにする。
父が源兵衛の首をとり三井寺にもっていった。
三井寺では「首は2つ」
源右衛門「わたしの首をとれ」
驚いた三井寺は親鸞の真影(木像)を返した。
「如来大悲の恩徳に報いるのは今だ。
源右衛門と源兵衛は私らの首でも役にたつならば
報謝の万分の一になるだろう」と考えた。
父源右衛門は
「こんなことになるのなら
先に息子にわたしの首をとらせるべきだった」
といって自宅に戻った。
これが浄土真宗の信心か。


■九州のかくれ念仏。
信仰によりいのちを失う時代。
18歳ちよさんのエピソード
ちよさんは
禄高500石藩士のむすめ
1793年夏 京都本願寺に参拝
3年後に京都本願寺に参拝に行ったことがわかり
役人に訊問をうける。
「いってない」といえばよかったかもしれない。
次のように答えた。
「偽りの白状はできない。
短いこの世のいのちを惜しんで、
永劫の極楽浄土を失うのは
阿弥陀様のこころをいためる」
いさぎよく処罰をうけた。
これが浄土真宗の信心か。