20/2/22 東海村古文書と歴史を学ぶ会
歴史講座 石神御用留。
高橋裕文先生
■石神御用留の作成。
■石神御用留の保存状態と補修。
1809年文化六年石神御用留は
茨城大学図書館貴重書庫にあった。
頁と頁が圧着していた。
厚さ20cmくらいのかたまりだった。
補修専門家により
解読可能な状態になった。
石神組御用留の記録とわかった。
■石神御用留の解読作業と出版。
東海村の古文書を読む会・
茨城大学の連携により解読された。
東海村の予算により出版された。
■郡奉行加藤孫三郎の経歴・人物像。
加藤孫三郎は
1772年10月、
水戸藩士加藤泰之の
長男として生まれた。
1802年12月、郡奉行見習い。
1805年4月、郡奉行となる。
石神陣屋に8年間勤務。
1813年7月。病により42歳で死去。
墓碑によれば、
学問武術に励んだ。
石神組は85ヶ村。
訴訟が多く難治だった。
孫三郎は
人々の意見をよく聞いて
決裁した。
訴訟は減り藩主より褒賞された。
墓碑を記したのは
郡奉行小宮山楓軒が墓碑文を撰文。。
立原杏所が書く。
●郡奉行加藤孫三郎の履歴。
水府系纂51巻。
●郡奉行加藤孫三郎事績。
加藤善衛門家譜覚書。
●加藤孫三郎墓碑文。
水戸市酒門共有墓地内加藤孫三郎墓。
■石神組陣屋の所在。
陣屋は東海村石神外宿にあった。
久慈川渡船場のあった外宿村西の塚越。
現在外宿浄水場のあたり。
1400坪の敷地面積。
●1802年7月。
初代郡奉行岡山次郎兵衛により
石神陣屋の立地を定めた。
●石神外宿村の景況。
水府志料・文化4年。
●大日本国誌。
常陸国第3巻・明治初期。
●東海古文書読む会の
照沼秀男氏による現地聞き取り調査。
■在地郡奉行所の設置。
1799年6月。高野昌碩が
富強六略を水戸藩に提出。
在地郡奉行所制を提言。
郡奉行所が水戸の場合。
郷村実情を把握できない。
水戸と郷村移動費がかかる。
郷村支配が不徹底。
1801〜2年。
水戸領を11郡に分ける。
翌年に安良川組は松岡別高で独立。
10郡となる。
浜田・常葉組は奉行所を
水戸田見小路に置いた。
他は在地へ陣屋を建て郡奉行らが居住した。
■10郡と郡奉行所の所在地。
大子組(大子)、
小菅組(小菅)、
大里組(大里)、
八田組(八田)、
鷲子組(鷲子)、
石神組(石神)、
増井組(増井)、
紅葉組(紅葉)、
浜田組(水戸)、
常葉組(水戸)
●高野昌碩が
1799年6月富国六略で、
在地郡奉行制を提案。
●在地郡奉行制の推移。
水府紀年・茨城県史料・
近世政治編1、茨城県。
●在地郡奉行の変遷。
享和2〜文化6年・
仲田昭一・
水戸藩郡制の変遷と郡奉行。
茨城県歴史館報17。
●石神郡奉行所の職員
文化6年石神組御用留
■石神郡奉行所の職務。
■石神郡奉行所職員について
■石神郡奉行所の職員構成
石神郡奉行所の体制。
郡奉行 −
内役(手付・手代) −
平手代 −
荒子(あらしこ)・押之者(おさえのもの)
郡奉行1人。
加藤孫三郎。
内役3人。
中間頭列調役しらべやく、
留付列手付てつけ、
所務調役手代てだい。
郡奉行を補佐する役、
筆致の異なる「石神組御用留」は
郡奉行も含め4名が書いた?
平手代14人、
見習い1人。
手代は農民から取り立てられた者
在任中は侍待遇。
平手代は管内の数ヶ村を分担。
村懸かりとなり
村改革を指導するほか
小検見立会や年貢収納に当たった。
荒子・押之者。複数。
農民から徴発され
門番や役所の用事に使われた。
■石神郡奉行所の職員名
(『文化六年石神組御用留』)
内役
中間頭列調役:武田伴衛門(69才)
留列手付:市村仁衛門(49才)
調役手代:小松崎伴介(48才)
平手代
原市太夫 (59才)
清水嘉衛門(53才)
五藤市三郎(54才)
井坂新三郎(38才)
安島政衛門(48才)
寺門八五郎(59才)
広瀬十左衛門(53才)
蓮田藤介(54才)
大内伝吾(49才)
永山作左衛門(48才)
清水茂三郎(59才)
菊池五介(53才)
桑名宗兵衛(54才)
照沼伴五郎(49才)
役所見習:森新五郎。