20/2/15水戸市 茨城県歴史館特別展 佐竹氏800年の歴史と文化
01 茨城県歴史館。
以下は特別展をみた後に考えたhp制作者メモ。
■狩猟時代。
人と人の戦いは少なかった。
大陸から新技術が入ってくる。
鍛冶・織物・鉱物採掘など。
稲作がはじまると共同作業になる。
全体をまとめる人が必要になる。
共同作業するグループ間で争いが起きる。
・・・
源氏は織物・鉱物採掘に関する技術を持っていた。
それが財源になった。
・・・
佐竹氏はじまりは佐竹寺で一節の竹をみつけた1140年?
佐竹氏は常陸で460?年、秋田で400?年。合わせて860?年。
[1871年廃藩置県] 秋田の佐竹氏270年。
・・・・??
歴史館で800年の企画展となる。
佐竹の名前がつくと多くのひとがあつまる。
常陸太田市周辺地域には
元佐竹家臣だったというひとが多くいる。
佐竹氏ファンが多い。
・・・・・
■源義光[1045〜1127年]。
佐竹氏の祖。
河内源氏2代目源頼義の3男が義光。
後三年の役[1083〜1089年]で兄義家が苦戦。
義光は陸奥国で義家と共に戦う。
義光は常陸介・甲斐守になる。
陸奥国・常陸国佐竹郷に領地をもつ。
義光の妻は常陸平氏吉田一族。
義光はひたちなか市武田町の武田氏館にいた。
■義光の長男義業よしなり[1067〜1133年]
常陸に残る。
弟義清は甲斐にいって武田信玄の祖となる。
義業は藤原清衡[1056〜1128年]の後家を娶っている?
奥州藤原氏と仲が良かった。
常陸南部は常陸平氏が支配。
義業の領地拡大は常陸北部に限られた。
常陸には小野崎氏がいた。
小野崎氏は佐竹氏の家臣になる。
小野崎氏3兄弟が十王・石神・額田に住む。
石神は東海村の石神城に住む。
■01代当主佐竹昌義[1081〜1147年]
昌義は源義業の長男。
佐竹氏の初代となった。
昌義は常陸国久慈郡佐竹郷に住んだ。
昌義は佐竹郷を中心に勢力を拡張。
昌義は奥七郡を支配。
多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・
佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡。
常陸平氏の一族大掾氏との姻戚関係。
中央は伊勢平氏と仲良し。
東国は奥州藤原氏と仲良し。
常陸南部に積極的に介入。
常陸の有力な豪族となる。
藤原清衡の娘を娶っている。
■02代当主佐竹隆義[1118〜1183年]
勢力は奥七郡・下総まで及ぼうとした。
1180年。隆義が京都にいる時に頼朝に攻められる。
■03代当主佐竹秀義[1151〜1226年]
佐竹氏は、源頼朝[1147〜1199年]と仲が悪い。
1180年.源頼朝が挙兵。
佐竹氏は平家との縁で頼朝に従わず。
源頼朝は平家との富士川の戦いに勝利。
上総広常らが平家追撃前に佐竹氏を討つことを主張。
頼朝は佐竹氏討伐を決定。
金砂合戦となる。
頼朝は常陸国府石岡に入る。
佐竹氏当主隆義は京にいた。
上総広常が佐竹家嫡男義政を矢立橋で誅殺。
義政の弟、佐竹秀義は金砂城に立て籠もる。
総攻撃が仕掛けられる。
金砂城は山城で守りは強固だった。
叔父佐竹義季の裏切りがあり落城。
秀義は常陸奥郡の花園神社?へ逃亡。
頼朝が佐竹氏を攻めたのは
奥州藤原氏へのけん制もある。
佐竹氏家臣岩瀬与一太郎の懇願により、
頼朝の追討は回避された。
与一太郎は佐竹家嫡男義政に従っていた。
捕らえられ斬首が決まる。
頼朝は与一太郎に、
「武士ならば潔く戦で死ね。
なぜ捕まって斬首を待つのか」ときいた。
与一太郎は
「源氏が力を合わせて平氏と戦うときだ。
同姓の佐竹氏を滅ぼすとはどういう考えか。
後に反抗する者が出てくる」と答えた。
頼朝は感じ入った。
佐竹氏は滅亡を免れた。
与一太郎は後に源頼朝の御家人となる。
佐竹氏は頼朝に所領を没収される。
奥七郡の支配権は宇佐見氏・伊賀氏・二階堂氏になる。
佐竹氏は冬の時代となる。
後に秀義は頼朝家臣となる。
1189年。奥州合戦。秀義は頼朝軍の一員として参戦。
活躍し御家人になる。
1225年。秀義鎌倉で死去。
02大輪緑萼たいりんりょくがく。偕楽園。
■04代当主佐竹義重[1186〜1251年]
鎌倉幕府に仕える。
御家人としての佐竹氏の地位の保全・向上に務めた。
子どもは額田氏・真崎氏・岡田氏・岡部氏を興した。
■05代当主佐竹長義[1207〜1272年]
活躍不明。
■06代当主佐竹義胤[1227〜1278年]
常陸の他、いわき市付近を支配。
■07代当主佐竹行義[1261〜1303年]
活躍不明。
■08代当主佐竹貞義[1287〜1352年]
貞義は足利尊氏に属して各地で戦功を挙げ常陸守護になる。
1335年。北条時行が鎌倉を攻める。
貞義は足利直義を支援。
鎌倉に向かうが北条軍に敗れる。
京都にいた尊氏が東下、北条軍を破り鎌倉に入る。
尊氏は鎌倉で政務をとる。
後醍醐天皇は新田義貞に足利尊氏討伐を命じる。
尊氏は箱根で迎えうつ。
佐竹氏は尊氏に属し戦う。
尊氏は勝利。
敗走する新田軍を追って京都へ進撃。
佐竹氏も従う。
尊氏は上洛。
しかし、陸奥から追討の北畠顕家に敗れる。
尊氏は九州へ一時避難。
その時、常陸で佐竹氏は南朝方と戦い苦境に陥った。
貞義・義篤は尊氏と別れ常陸へ帰国。
●尊氏は再度上洛。
佐竹師義は尊氏に従軍し京に留まり新政権に仕えた。
1350〜1352年観応の擾乱は足利政権の内紛。
尊氏の弟直義の派閥・執事高師直の尊氏派閥が争う。
直義・師直は死亡・佐竹師義も戦死。
生き残った尊氏が擾乱に勝利した。
師義の子孫は山入の地を与えられ、山入家を名乗る。
佐竹宗家に負けない勢力をもつ。
●常陸国に戻った佐竹貞義。
西金砂山城を拠点に南朝方と戦う。
南朝方は瓜連城に楠木正家を派遣。
1336年.正家は西金砂山城に攻撃・佐竹勢は敗退。
義篤らが帰国。
佐竹氏側が攻勢となり瓜連城を攻撃。
小田氏が楠木軍を支援。
苦しい戦いだったが、瓜連城を落す。
●南朝方は北畠親房がきて体制強化。
1339年。北朝方は高師冬が武蔵・相模の軍を率いてくる。
佐竹氏は師冬を支援。
南朝方に分裂が起こる。
小田治久が師冬に降伏。
結城氏は北朝側に転じる。
南朝方の関城・大宝城が陥落。
北畠親房は吉野へ退散。
尊氏に味方した佐竹氏は冬の時代から脱却する。
●月山周枢しゅうすう[1305〜1399年]
周枢は貞義の子。義篤・師義は兄弟。
夢窓国師の弟子となり臨済宗天竜寺に学んだ。
夢窓疎石の高弟となる。
常陸に正宗寺をつくる。夢窓国師を招き開山。
足利尊氏・直義兄弟は夢窓国師に帰依していた。
周枢は夢窓国師の縁で尊氏兄弟と親交を結んだ。
貞義が尊氏兄弟と親交できたのは周枢がいたから?
周枢なしで佐竹氏冬の時代からの脱却は困難だった??
■09代当主佐竹義篤[1311〜1362年]
南北朝の争乱で足利尊氏に味方。
常陸守護になる。
常陸北朝方の中心として活躍。
弟や子供たちに小場氏・石塚氏・大山氏・藤井氏と名乗らせる。
■10代当主佐竹義宣[1346〜1389年]
活躍不明。
■11代当主佐竹義盛[1365〜1407年]
鎌倉公方を主君とした。
足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれる。
■12代当主佐竹義人[1400〜1468年]
1407年。義盛死去。嗣子がなかった。
関東管領山内上憲定の子義人を迎え、宗家・守護職を継がせた。
山入氏が反対した。
●鎌倉府は室町幕府が関東統治のため設置。
鎌倉公方を関東管領が補佐。
関東管領は上杉氏が世襲。
1409年。足利持氏が鎌倉公方になる。
関東管領は上杉憲定。
1411年。犬懸上杉家の上杉氏憲が関東管領になる。
氏憲は鎌倉府の実権掌握を狙う。
1415年.評定で氏憲と持氏が対立。
氏憲は関東管領を更迭される。
後任管領は山内上杉家の上杉憲基。
1416年。上杉禅秀の乱。
上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方持氏に対し起した反乱。
氏憲は足利満隆・持仲・岩松満純・那須資之・
千葉兼胤・長尾氏春・大掾満幹・山入与義ともよし・
小田持家・三浦高明・武田信満・結城満朝・蘆名盛政
地方の国人衆なども加えて持氏へ反乱を起こす。
翌年、禅秀は敗れて自刃、乱は鎮圧された。
●禅秀の乱後、山入与義は持氏にくだる。
佐竹氏支族稲木義信・長倉義景が反抗。
足利持氏は佐竹義人に征討を命じ・義人は反抗を鎮圧。
●1418年。将軍は常陸守護に山入与義を任命。
鎌倉公方に対する将軍の対抗策。
山入氏・甲斐武田氏は宗家に対し挙兵。
1422年。与義は鎌倉で殺され義郷が継ぐ。
1431年。祐義が継ぐ。
山入氏は室町幕府の後楯により持氏に反抗。
室町幕府は祐義を常陸守護にする。
佐竹宗家は祐義の常陸守護に反対。
鎌倉公方に不当を訴えるが解決せず。
常陸守護職は、宗家・山入氏で半国守護となる。
●1438年.持氏と幕府が対立・永享の乱が起こる。
鎌倉公方持氏と関東管領上杉憲実の対立。
室町幕府が持氏討伐を命じた。
敗れた持氏は自殺・佐竹義人は隠居。
家督を義俊に譲る。
江戸氏が台頭・山入氏も宗家に対して優勢となる。
■13代当主佐竹義俊[1420〜1477年]
1438年。家督を譲られるが、実権は父義人がもつ。
1452年。弟実定・江戸氏・山入氏により太田城から追放される。
城里町大山城に移る。[五郎六郎合戦?]
1467年。太田城に戻る。
佐竹氏宗家の混乱は山入氏・江戸氏の台頭を許す。
●与義ともよし[?〜1422年]
佐竹師義の子。
鎌倉府が室町幕府の意に反しないか監視する京都様扶持衆になる。
■14代当主佐竹義治[1443〜1490年]
佐竹一族の内紛は続く。
山入氏は常陸太田市久米城を攻撃。
岩城氏など周辺国の援助を受け退ける。
岩城氏の侵略をうける。
佐竹氏の支城は次々に敗れる。
常陸太田城もあやうくなる。
和議を結び戦いを終える。
1489年。山入氏が佐竹氏領に侵攻。
小野崎通綱の働きにより山入氏を退ける。
■15代当主佐竹義舜よしきよ[1470〜1517年]
1490年。山入氏が太田城を攻撃。
義舜は城里町の孫根城に逃げる。
山入氏が太田城に入る。
1492年。山入義藤死去。
岩城氏が間に入り山入氏と佐竹宗家との和議。
和議に反し山入氏は太田城を明け渡さず。
孫根城を攻め義舜を東金砂山に追い込んだ。
小野崎氏・江戸氏が義舜を援助・山入氏は敗戦。
1504年。義舜は太田城を奪還。
山入氏は常陸太田市国安城に逃れた後、茂木で殺される。
100年にわたる佐竹宗家と山入氏との戦いは終わる。
●義舜は家臣団を再編成。
佐竹宗家を中心に共同支配体制をつくる。
●江戸氏・小野崎氏らにとられた領地をある程度返してもらう。
●1510年。江戸氏と協定を結び安定化を推進。
佐竹氏の勢力回復・基礎を固めた。
1511年。旧領依上保回復につとめる。
古河公方政氏・高基父子が対立・義舜は政氏を支援。
1517年。義舜死去。
■16代当主佐竹義篤[1507〜1545年]
1517年。11才で家督を継ぐ。
叔父の佐竹北家義言・佐竹東家政義が補佐。
陸奥南地方依上保に軍をだす。
小野崎氏・大山氏と起請文を交わす。
江戸氏と協調、佐竹氏は北・江戸氏は南と進出方向をきめる。
●部垂へたれの乱[1529〜1540年]。
宗家義篤と弟義元の争い。
弟義元は部垂城・宇留野城の城主。
佐竹一族の小場義実・高久義貞が味方。
義元は一族の宇留野義久の養子となり宇留野家を相続。
1529年。義元は小貫俊通から部垂城を奪い部垂氏を名乗る。
義元の勝手な行動は宗家との断続的な争いになる。
1540年。宗家の攻撃で部垂城は落ち義元一族滅亡。
●1539年。那須政資・高資父子の内紛。
義篤は小田氏・宇都宮氏と政資を助ける。
高資を支援する結城氏・小山氏・白河結城氏を攻撃。
●佐竹氏の下那須進出。
1541年。南郷の東館を落とす。
岩城氏の仲介で白河結城氏と和睦。
●佐竹南家を弟義里が興す。
従兄弟の佐竹北家義廉・佐竹東家義堅。
佐竹氏一門による支配体制を確立。
1545年。義篤死去。
■17代当主佐竹義昭[1531〜1565年]
14歳で家督を継ぐ。
佐竹南家義里・佐竹北家義廉・佐竹東家義堅が政務を行う。
●佐竹領の北に八溝金山がある。
八溝金山をめぐり白川結城氏と対立・陸奥依上保へ兵を出した。
●1547〜1550年。佐竹氏・江戸氏は合戦を繰りかえす。
江戸氏は白河結城氏と一緒に佐竹氏に対抗も劣勢。
1551年。佐竹氏・江戸氏は和議・江戸氏は佐竹氏の部下になる。
1552年。高萩市竜子山城主の大塚氏が部下になる。
1553年。岩城氏一族の船尾昭直が佐竹氏に属す。
1557年.壬生氏に宇都宮城を追われた宇都宮広綱を助ける。
佐竹・宇都宮氏の連合を形成。
那須資胤と同盟を結び白河結城氏の攻略に備える。
岩城氏部下の上遠野一族が佐竹氏の部下になる。
1560年。義昭は白河結城氏の南郷北部寺山城を攻略。
宍戸氏が佐竹氏の部下になる。
真壁氏も佐竹氏に接近。
●小田原北条氏の勢力が北関東に迫る。
佐竹氏は上杉謙信と結び対抗。
1564年。義昭・謙信は小田城を攻略・小田氏領の大半を奪取。
大掾氏が佐竹氏の部下になる。
下野では松野氏・茂木氏・武茂氏が佐竹氏の部下になる。
1565年。義昭死去。
■18代当主佐竹義重[1547〜1612年]
小田氏領は、義昭の死の前後に小田氏に奪回された。
1566年。上杉謙信とともに小田城を攻撃・小田領を制圧。
常陸小田・土浦・下野那須・芳賀・南奥白河へ進出。
1567年1月。白河へ出兵。
2月。下野へ出兵。
3月。白河へ出兵。
1568年。小田氏の筑西市海老島城を攻略。
●後北条氏の北進、武田氏の上野侵攻。
1569年。上杉謙信と北条氏康が越相同盟。
1574年。棚倉町赤館城に迫る。
1575年。白河領の大半を征服。
二男義広を白河義親の養子にする。
●小田原北条氏が常陸・下野地方に侵略。
後北条氏は小山氏を攻める。
佐竹氏は宇都宮氏・結城氏・那須氏と後北条氏に対抗。
多賀谷氏も佐竹氏の部下になる。
1578年。上杉謙信死去
佐竹氏は関東南下・常陸・下野両国の平定を断念。
佐竹氏に対する後北条氏の軍事的圧力が強まる。
豊臣秀吉と書状・進物で友好関係をとる。
1584年。下野沼尻で後北条氏と戦う。
戦いは後北条勢8万・佐竹勢2万。
佐竹氏が勝利・後北条氏の進出を防ぐ。
●1585年。人取橋の戦い、
伊達氏と本宮市で人取橋の戦い。
福島県本宮の人取橋で起きた戦い。
伊達氏は二本松城を攻撃・二本松義継は降伏。
義継は宮森城で輝宗を拉致。
伊達氏の追っ手は輝宗と義継を同時に討つ。
二本松氏は新城盛継を中心に籠城。
相馬義胤とともに13,000で二本松城を攻める。
二本松氏救援のため
佐竹氏・蘆名氏・二階堂氏・岩城氏・石川氏・白川氏が集結。
連合軍は須賀川まで進出。
相馬義胤は帰陣。
政宗は二本松城の包囲部隊を残し、
主力7,000で観音堂山に布陣。
連合軍30,000は五百川南方に布陣。
人取橋付近で両軍激突。
連合軍の一方的な攻勢・伊達軍は潰走。
政宗も鎧に矢・銃弾を受ける。
政宗は本宮城に逃れたが壊滅状態だった。
日没を迎え戦闘は一旦終結。
●夜、佐竹氏部将・小野崎義昌が家臣に刺殺される。
江戸氏・里見氏が常陸に攻め寄せる連絡あり。
佐竹氏は撤退を決める。
伊達軍を壊滅にできなかった。
●伊達軍は小浜城へ引き上げ、翌春から攻めを再開。
相馬義胤が斡旋・二本松勢の会津退去を条件に和睦。
二本松城は開城。
●佐竹氏は北条氏との戦闘が激化。
●佐竹家臣団は佐竹氏一族を中心に
奥七郡国人領主・譜代・外様・牢人で構成。
多くの鉄砲を持っていた。
義重は白河家に入嗣の義広を葦名盛隆の跡目にした。
■19代当主佐竹義宣[1570〜1633年]
1588年、江戸氏と大掾氏が対立、
佐竹氏は江戸氏を助け石岡市府中へ出陣・大掾氏をくだす。
佐竹氏には、北条氏・伊達氏が脅威だった。
伊達氏は蘆名氏を侵略、
伊達氏は二本松市小浜城・二本松城を攻める。
葦名氏は佐竹氏に援軍を求めた。
連合軍3万が郡山城を囲む・郡山対陣。
岩城氏が調停、両軍は休戦に入る。
1579年。伊達氏は葦名領を侵略。
葦名軍が須賀川に進む。
猪苗代盛国が猪苗代城で謀叛・伊達軍を引き入れた。
葦名軍は黒川城に戻る。
6月、磐梯山麓の摺上原で戦う。
葦名軍1.6万、伊達軍2.3万。伊達軍が勝つ。
義広は常陸に逃げ葦名氏は滅亡。
●伊達氏は常陸に迫る。
白河氏・石川氏は伊達氏に寝返る。
北条氏と伊達氏が同盟を結ぶ。
佐竹氏は孤立する。
1587年。大名間の戦いを禁じる関東・奥両国惣無事令。
佐竹氏は秀吉に後北条氏・伊達氏の惣無事令違反を訴えた。
秀吉は伊達氏の蘆名氏滅亡を責める。
伊達氏は後北条氏と佐竹氏を攻めるため南下。
佐竹氏の南奥領地は伊達氏に攻略された。
1590年には南郷をのみとなった。
1590年。豊臣秀吉は小田原征伐・奥州出兵。
3月。秀吉は小田原攻めを開始。
佐竹氏は伊達氏の南下を防ぐため白河で対陣。
佐竹氏の小田原への参陣は大変だった。
石田三成の仲介を得て佐竹義久・宍戸・太田・真壁・長倉ら常陸の諸豪族、
宇都宮国綱ら下野・下総の諸大名らと進物をもって秀吉に参陣。
小田氏・江戸氏・大掾氏は参陣を見合わせた。
7月、小田原城は開城・後北条氏は没落した。
佐竹氏は、秀吉から常陸国21万貫の所領を安堵された。
佐竹氏は常陸国内の統一をすすめた。
12月。江戸氏の水戸城を攻撃・江戸氏一族を追放。
石岡市府中城を攻撃・大掾氏は滅亡。
常陸南部支配を強化。
1591年。鹿島・行方南方三十三館の領主を太田城に宴会と称し集め殺す。
義宣は水戸城に入る。
1593年9月。城下町建設に着手。
1600年。関ヶ原合戦。
義宣は家康派と三成派のどちらにも加担しなかった。
家康に敵対しないと表明しながら、
三成派や会津上杉景勝と密約をかわした。
1602年。家康から義宣に領国没収・出羽の内で替地を与える旨の転封令がでる。
7月。義宣は秋田・仙北両所を領知する連絡あり。
常陸から秋田に移る。常陸に残った家臣も多かった。
■20代当主佐竹義隆[1609〜1672年]
1633年。家督を相続する。
1664年。石高は20万5800石。
うち5800石は、下野国河内郡・都賀郡の飛び地。
1672年。死去。
■21代当主佐竹義処よしずみ[1637〜1703年]
1672年。家督を相続。
1696年。藩文書所を設け修史事業を開始。
一族・家臣から系図・古文書などを提出させる。
家臣を常陸に派遣・資料調査をさせる。
1701年。義長に2万石、義都に1万石を分ける。
藩政改革に取り組んだが財政を建て直す前に死去。
■22代当主佐竹義格よしただ[1695〜1715年]
1703年。家督を相続。
1709年。藩文所を秋田史館と改称。
修史事業を軌道にのせる。
破綻した藩財政再建に植林を奨励・救貧対策に尽くす。
1715年。死去、享年22。
■23代当主佐竹義峯よしみね[1690〜1749年]
1715年。家督を相続。
倹約令を廃止・贅を尽くす。
藩が財政難になると家臣の知行を借り上げる。
1748年.凶作で藩財政は破綻寸前となる。
■24代当主佐竹義真よしまさ[1728〜1753年]
1749年。家督を相続。
1753年。死去。享年26。
■25代当主佐竹義明よしはる[1723〜1758年]
1753年。家督を相続。
1754年。米の凶作対策として銀札を発行。
商人に反対され銀札発行は失敗。
1758年。死去。享年36。
■26代当主佐竹義敦[1748〜1785年]
1758年。家督を相続。
飢饉・農村の荒廃・騒動で藩政が混乱。
義敦は絵に没頭。
1785年。38歳で死去。
■27代当主佐竹義和よしまさ[1775〜1815年]
1785年。家督を相続。
1790年。藩校明徳館を設立。
防砂林の造成・保全につとめる。
1792年。春慶塗・川連漆器・白岩焼の奨励。
1793年。飢饉が続き、領内人口は激減。
土地を手放す潰れ百姓・逃亡者が急増・放棄田畑が増加。
藩収入減少・藩財政は崩壊寸前。
荒廃地であれば、直轄地・家臣知行地の耕作を許可。
武士や町人も認めた。資金は藩が貸した。
1795年。農政統括のため各郡に郡奉行を設置。
1805年。林政改革・防砂林保全活動を継続。
1807年。蝦夷地警備で600人を派遣。
1815年。死去。享年41。
■28代当主佐竹義厚よしひろ[1812〜1846年]
凶作が相次ぎ借金が増える。
質素倹約・家臣団の不正取締・
男鹿半島東部の湖岸地帯・六郷村の開発
海防警備の強化。
財政は悪化をたどった。
貧民救済のため、市場以外商工業禁止令をだす。
1846年。死去、享年35。
■29代当主佐竹義睦よしちか[1839〜1857年]
1846年。家督を相続。
海防警備の強化・織物業を奨励。
1857年。死去・享年19。
■30代当主佐竹義堯よしたか[1825〜1884年]
1857年。家督を相続。
1859年。男鹿半島沖合ロシア汽船の薪の求めを許可。
藩財政のため人事刷新・藩治の改革を行う。
自ら範を垂れ質素倹約・文武奨励。
1863年.江戸の警備。
1864年。京都警備。
2万両の新札発行・3万5000石の用米調達。
1865年。京都警備。
1866年。病気のため名代を上洛させ、義堯は江戸へ留まる。
1867年.王政復古の大号令。
1868年1月。帰藩。
1868年。戊辰戦争はじまる。
4月6日。新政府から庄内征討の命令を受ける。
4月9日。奥羽鎮撫使から庄内征討出発の遅れを責められる。
4月27日。新政府から会津征討の命令を受ける。
7月。奥羽鎮撫使総督・九条道孝が久保田藩領に到着。
1869年。戊辰戦争がおわる。
2月。新政府から20万両をもらう。
1869年。版籍奉還で義堯は久保田藩知事になる。
1871年。廃藩置県により久保田藩知事を免職。
1872年.隠居。
1881年。義脩を隠居させ、再び家督を相続。
1884年。侯爵となる。死去。享年60。
■31代当主佐竹義脩よしなお[1854〜1893年]
1872年。家督を相続。
1876年。陸軍に入り後に大尉になる。
1881年。隠居し、養父・義堯に家督を譲る。
秋田藩を離籍、岩崎藩に復籍。
1889年。男爵となる。
1893年。死去、40歳。
■32代当主佐竹義堯[1825〜1884年] (再継承)
■33代当主佐竹義生よしなり[1867〜1915年]
1872年。佐竹義脩の養子となる。
1881年、父義堯の嫡子となる。
1884年。父義堯の死去により家督を相続。
1892年。貴族院侯爵議員。
1915年。死去。
■34代当主佐竹義春[1890〜1944年]
1915年。家督を相続。
貴族院侯爵議員。
■35代当主佐竹義栄よしなが[1914〜1983年]
1944年。家督を相続。
貴族院侯爵議員
■36代当主佐竹孝[1947〜 ]
03緑萼りょくがく。偕楽園。
04■雪村せっそん[1492?〜1589?年]
西の雪舟・東の雪村と常陸大宮市周辺ではいわれる。
雪舟にくらべ知名度はかにり低いか??
雪村周継しゅうけい。水墨画家・僧侶。
佐竹氏の一族。
常陸大宮市部垂に生まれる。
下村田に雪村が筆を洗ったと伝えられる池がある。
幼少から常陸太田市増井町の臨済宗正宗寺で禅僧の修行・画も学ぶ。
増井町一帯は、勝楽寺・正法院・正宗寺が棟をならべていた。
常陸の文化の中心地だった。
所蔵された画を見て画を学んだ。
●50才くらいより他国で過ごす。
最初に会津の蘆名氏と交わる。
次に小田原の北条氏・小田原早雲寺・鎌倉円覚寺の禅僧と交わる。
城や寺院の画を見て多くを学び独自の画風をつくる。
関東から再度会津に戻る。
会津若松市・会津三里町で屏風絵などをかく。
晩年は三春の雪村庵で画をかく。
1589?年死去。
●雪村の画は洗練されていながら遊び心にあふれる。
尾形光琳・岡倉天心が率いた画家も雪村から影響を受けた。
雪村の画は9点が重要文化財の指定を受けている。
水戸市出身横山大観は2点。
●常陸太田市に雪村が住職になった?耕山寺がある。
雪村がうちわに墨絵をかいて檀家に配った。
雪村うちわという。
■普光[1543〜1626年]
時宗の僧・普光・遊行32代他阿普光。32代普光上人。藤沢上人。
佐竹一族。
●藤澤山無量光院清浄光寺。
時宗遊行派総本山。通称・遊行寺ゆぎょうじ。
●
1513年。合戦に巻き込まれ遊行寺は全焼。
1591年。徳川家康が遊行寺に寺領百石を与える。
32代普光上人は佐竹義宣を頼り水戸に藤沢道場を建立。
[現在は神応寺となっている。
水戸市・常陸太田市に時宗の寺が多い?]
遊行寺本山機能を藤沢から水戸へ移す。
佐竹氏の秋田移封後も遊行寺本山機能は水戸に残る。
1607年。32代普光上人・遊行寺本山機能は遊行寺に戻る。
●時宗では,遊行上人は指導者・仏として崇敬された。
諸国の道場を巡回、念仏の信仰を伝えた。
室町時代、2千?の道場があった。
遊行上人の晩年は清浄光寺に住んだ。
清浄光寺に住む上人を藤沢上人とよんだ。
■金山開発
富の源泉。産金。
戦国時代、有力者は鉱山開発に力を入れた。
佐竹氏は鉱山技術をもっていた。
金は、砂金の採取から始まる。
平安時代末期から鎌倉時代・金山開発が始まる。
戦国時代・金山開発と経営が本格化。
金が財力となり鉄砲隊を組織。
豊臣時代には課せられる負担に耐える助けになった。
佐竹領の北に八溝金山がある。
17代義昭の時代には八溝金山をめぐり白川結城氏と対立。
陸奥依上保へ兵を出している。
●佐竹氏の金採掘場所。
[日立市]大久保・保内・栗山・山尾・
助川・金沢・成沢・赤沢(日立鉱山)・滑川・砂沢
[高萩市] 石瀧
[常陸太田市]瀬谷
[常陸大宮市]部垂
[大子町]金澤・八溝・胴坂・塩沢
[水戸市]木葉下あぼっけ・田島・有賀・杉崎
[城里町]高野,・塩子・小勝
多くの場所で金の採掘がなされた。
福島の塙・棚倉・白河一帯の南郷地域を領地とした時代。
[矢祭]八溝川付近
[白河]金山
今も金を掘った跡が多く残っている。
水戸徳川家では金採掘に見るべき業績がない。
佐竹氏が技術者を秋田まで連れて行った?
秋田阿仁鉱山・小坂鉱山などに技術が利用された??
後に小坂鉱山の技術者が日立鉱山で活躍??
■製塩事業。
佐竹氏は海で製塩を行った。
ひたちなか市・東海村の海岸部・村松白根遺跡など。
製塩を通じ塩相場を支配・財とした。
04紅梅。偕楽園。
■その他。
●ひたちなか市武田氏館に佐竹氏の祖が住んでいた。
北は奥州藤原氏。
筑西には平将門以来の平家。
名門源氏でも生き延びるのは大変。
親鸞聖人をはじめ多くの新興仏教がでてきた・世の中が混乱の時代。
●金きんがある常陸北に本拠をおく。
財源は金か?
金は奈良時代にも産出、献上されている。
生きるため平家とも仲良くした。
同じ源氏でありながら源頼朝とは上手くいかず。冬の時代。
足利尊氏と上手くいき。起死回生をはかる。
北条氏・伊達氏と競う。
豊臣秀吉・石田三成と上手くいき。領土を広げる。
徳川家康とは上手くいかず。
800年・・・・。
秋田では財政難があったが戦いの無い時代。
家康の偉大なことがわかる。
●鎌倉時代から関ヶ原までは大変な時代。
戦い・陰謀・欲望・誰と仲良くするか・どちらにつくのか。
大変な時代だ。五濁悪上の世界。
●今は戦いはない。
比較的平和に生きていける。
戦いはやはりやってはいけない。
・・・。