20/2/14 那珂市文化財愛護協会公開研修会
佐竹文化と雪村
那珂市中央公民館
富山章一先生
[ ]はhp制作者のメモ。
[配布された資料は佐竹秀義を4代当主としている。
以下では初代を昌義として秀義を3代当主と記載。
以降の当主も同じ]
■歴史館で佐竹展をやっている。
雪村せっそんの絵が展示されている。
佐竹氏の文化をやっている人は少ない。
[佐竹氏の]経済・文化、社会の仕組み[の研究]はまだまだ。
資料は常陸に少ない。
修史事業を秋田で3回?やっている。
徳川家を中心にしたものとして作られている。
しかし、常陸時代の佐竹氏は本当は違うかもしれない。
前期と後期に分けて考えたほうがよい。
雪村はそのかかわりの時代に生れた。
■佐竹氏は源氏の名族。
司馬遼太郎氏「街道をゆく」での佐竹氏評価。
中世以来の大名。
源氏の名族。
甲斐の武田氏と兄弟。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく」で
水戸徳川家については書いていない。
嫌いだった?
水戸徳川家について講演を頼んだとき
断ったというはなしがある。
水戸徳川家の評価が難しかった??
■源氏の3原則と半島文化。
源氏発祥の地は、兵庫県多田荘。
佐竹郷になぜ土着したのか?
奥州のとなり・鉱物があった。
八溝山から金をとった。
奥州の涌谷町・日本で初めて金を採った場所。
[黄金山神社こがねやまじんじゃ。
宮城県遠田郡涌谷町にある。
日本で初めて金を産出した場所。
金は献上され大仏をつくるのに使用された]
佐竹氏は金を支配したかった??
玉山金山は、岩手県陸前高田市竹駒にある金山。
平泉中尊寺金色堂などをつくるときに金は使用された。
マルコ・ポーロの黄金の国は平泉のイメージ?
奥州藤原氏・佐竹氏はつながりがあった。
佐竹氏は大掾だいじょう氏ともつながりがあった。
[源氏の3原則]
機織り・金山・鍛冶かじ。
この3種類は佐竹氏にも引き継がれた。
銀山・銅山も含む。
八幡信仰[も引き継がれた]
■佐竹氏の誕生。
発祥の地・常陸太田市天神林。
物部氏の地盤。
佐竹郷に土着。
佐竹を名字とした。
藤原秀郷の子孫[小野崎氏]との戦い。
太田郷へ進出。
■奥七郡支配と平泉文化。
里川・久慈川・那珂川の両岸・多賀郡。
大掾氏・平泉の藤原氏と姻戚関係。
■平泉文化の流入。
常陸太田市下利員町にある西光寺の薬師如来坐像。
平泉の仏像と似ている。
常陸太田市増井ましいに勝楽寺があり浄土式庭園があった。
浄土式庭園は、いわき市の白水阿弥陀堂と類似の配置。
常陸太田市源氏川の流れは
現在の正宗寺の北側で不自然にまかっている。
正宗寺の北側に勝楽寺があった。
浄土式庭園があったため源氏川の流れは不自然にまかっている?
■鎌倉在住と奥七郡。
佐竹氏を討つため源頼朝は石岡まできている。
金砂合戦で佐竹氏は敗北。
9年間佐竹氏は山の中。奥州か??
佐竹氏で頼朝についたひと・平泉についたひとがいる。
佐竹氏[3]代当主佐竹秀義は鎌倉に住む。
奥州合戦に参陣。
源頼朝傘下の御家人となる。
鎌倉在住。
奥七郡の中染の阿弥陀堂に鎌倉時代に造られた
鉄造 阿弥陀如来立像鉄製仏像がある。
■美濃佐竹氏と京文化。
承久の乱。
佐竹氏[3]代秀義の子季義すえよし
第4代征夷大将軍藤原頼経よりつねに仕える。
美濃国に領地を賜る?
美濃佐竹氏は足利義満の弓指南役。
340年続く。
■室町幕府と勝楽寺文化。
南北朝時代。
常陸国は日本有数の激戦地。
奥七郡の奪回。
佐竹氏[8]代当主貞義、常陸守護となる。
静神社境内に弘願こうがん寺建立。
貞義の庶長子、月山周樞しゅうすいは正宗寺の事実上の開山。
勝楽寺は五山制度(五山・十刹・諸山)の諸寺。
佐竹氏[9]代当主義篤は室町幕府侍所の頭人に就任。
五山文学の義堂周信が増井に来住。
勝楽寺文化の絶頂期。
静安寺建立。
常福寺の保護。
■佐竹百年の乱の影響。
佐竹氏[11]代当主義盛に嫡男なく、
上杉氏(藤原氏出身)から養子を迎える。
佐竹氏[12]代当主義人。
ここから「佐竹百年の乱」が勃発。
幕府と鎌倉公方がそれぞれ分かれて、
分家(山入氏)と宗家(当主)を支援。
争乱を長引かせた。
この時?に増井の禅林に重大なことが発生。
戦火?によりお寺が燃えてしまった。
■画僧雪村の誕生。
1500年前後に生れる。
時期は「佐竹百年の乱」の最後のころ。
江戸時代の本朝画史によれば、
佐竹一族の出で、部垂へたれ村田郷で生まれた。
廃嫡され画僧になる。
常陸太田の増井で修行したとすれば、
焼失した寺院が復活後か?
佐竹氏当主は[15]代義舜よしきよの時代。
■雪村とその作品。
雪村周継は、
「西の雪舟、東の雪村」
と評される日本水墨画の二代巨匠の一人。
しかし、全国的に雪村の知名度は低い。
茨城県の場合、代表画家は横山大観の名前がでる。
しかし、現存する作品で
国の重要文化財に指定されている絵画関係の作品数は、
雪村がトップの9点、横山大観は2点。
雪村作品の文化的価値の高さがわかる。
常陸大宮市で生まれたとするのが定説。
福島県郡山市西田大字太田字雪村で死去。
[元の三春町西田村 雪村庵]
出自は佐竹氏に関係があると考えられる。
出家寺は生誕地の近くの可能性が高い。
常陸時代は常陸太田市内の寺で絵の修業をしたとみられる。
その後、福島県会津若松市・
鎌倉・小田原などの寺院で絵の修業をし
再び福島に戻り会津若松市・会津三里町で
屏風絵などを手掛けたようだ。
晩年は田村郡三春町に移り亡くなるまで絵の制作に励んだ。
雪村は国の重要文化財指定作品の数からみても、
作品に見られる発想の自由さ・奇抜さからみても
雪舟と並ぶ日本を代表する水墨画の画聖である。
■雪舟とは。
1420年。備中赤浜(岡山県総社市)に生れる。
市内の宝福寺に入る。
有名な「涙で描いたネズミ」のエピソードはこの頃の出来事。
その後、京都の相国寺で春林周藤に師事。
さらに相国寺天章周文に絵を学ぶ。
1454年頃。周防国(山口県)に移り、
大内氏の菩提寺香積寺に滞在する。
1467年。遣明使の船に乗って明に渡る。
金山寺などを訪ねる。
1469年。帰国。
豊後国(大分県)などに滞在。
1506年または1502年。死去。
■国指定文化財の指定件数。
雪村 国宝 0点 重要文化財9点
雪舟 6点 17点(伝重文1点を含む)
横山大観 0点 2点
板谷波山 0点 2点
木村武山 0点 0点
小川芋銭 0点 0点
伊藤若冲 0点 3点
葛飾北斎 0点 3点
菱田春草 0点 4点
下村観山 0点 1点
■雪村作品に対する内外の評価
岡倉天心。
雪村は雪舟と阿弥派との間にありて、
雪舟を正面とすれば、その裏面を画けり」とし、
その画風を「自由」「無頓着」「遊び」と評価している。
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ。
雪村の最大傑作は、絶倫の雪景山水とす。
今之を評して「若し雪舟の筆なりせば
吾人は彼の傑作中に算すべし」と云うも過言に非ざるなり。
■生誕時期と出自。
生誕日は明確になっていない。
鹿沼市の今宮神社に奉納された百馬図に源周継の署名がある。
雪村が「源」と書いていることが佐竹一族であることを意味している。
■下村田生誕説。
部垂村田郷(常陸大宮市)生誕説が定説となっている。
下村田生誕説を明らかにしたのは水戸藩下級武士加藤寛斎。
加藤寛斎は自書の中で雪村屋敷・筆洗い清泉をとりあげている。
下村田は佐竹当主が子供らに譲る土地のひとつに入っていた。
そのことを書いた「義篤譲り状」が残っている。
佐竹宗家に近い奥方が、
度々部垂村田郷の地元の武将を訪ね、
寺を建てるように持ちかけている。
その寺を観音寺といい、後の福聚寺と考えられる。
雪村屋敷はこの福聚寺の中にあったと考えられる。
■「周」の系譜。
雪村は僧籍をもつ画僧。
出家して得度を受けて僧となる。
雪村はどの寺に出家したのか。
周継という法諱ほういである。
周は臨済宗の寺院の中で、
夢想礎石の法統に属する法系に限られる。
得度寺は不明。
当時の常陸太田増井は北関東でも屈指の禅宗文化が華開いていた。
雪村は修行のため増井の禅寺に来ていた可能性が高い。
■常陸との決別。
佐竹宗家義篤が、弟で部垂城主の義元を破った部垂の乱以降、
雪村は部垂を去った可能性が高い。
大子町黒沢の慈雲寺に雪村作品が現存していたとする什物帳がある。
雪村は慈雲寺から常陸を離れた。
会津の葦名盛氏。小田原の後北条氏の地元・鎌倉で修行。
再び会津に戻った。
晩年は三春に住んだ。
86才頃死去。