20/1/29 那珂市図書館 
水戸・歴史に学ぶ会展示講演会 義公と庄屋文書。
講師 仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者メモ。
■義公引退の意味するところ。
●1690年10月・63才で藩主を引退。
水戸藩で引退した藩主は義公のみ。
病が理由。将軍との摩擦とも。
12月。水戸へ帰国。
日立市田中内村・大内勘右衛門宅で越年。
[日立南太田IC付近?]
1690年。続扶桑拾葉集・万葉代匠記ができる。
[続扶桑拾葉集ふそうしゅうようしゅう。
平安時代から江戸初期までの詞文集。義公編]
[万葉代匠記まんようだいしょうき。
万葉集の注釈書。契沖著。義公の依頼により作成]
●1691年1月。
旧事本紀・古事記・日本書紀・続日本紀を校正。
義公自作の跋文ばつぶんを添えて昌平黌へ献納。
[旧事本紀くじほんぎ。神代から推古天皇までを扱った歴史書]
●1691年5月。
西山御殿へ移る。
[常陸太田市新宿町]
●1691年10月。
梅里先生墓碑寿蔵碑じゅぞうひを建立。
[瑞龍山徳川家墓所に自らの生前墓を建てる]
●1691年12月。
那須国造碑なすのくにのみやつこのひを修理。
●1692年。
佐々宗淳に車塚古墳を命じる。
●1692年8月。
湊川に楠公墓碑を建立。
[湊川神社は兵庫県にある楠木正成を祭る神社。
「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立]
●1693年。
救民妙薬集を刊行。
●1694年11月。
家老藤井紋太夫を手討ちにする。
一突きでしとめた。力がないとできない。
●1690年の引退から1694年までの経緯からら義公は病ではなかった?
●太田の西山にしやまに建てられたので西山荘という。

●隠居の地と決めた理由。
●伯夷伝の伯夷・叔斉の最後の地首陽山の別名西山と同じため。
●400年間佐竹氏の居城の地。
佐竹氏に好意を持つ人が多い。
徳川を嫌う人が多い。
義公はそれを改善しようとした。
●那珂川沿いの江戸氏家臣たちへの配慮があった。
●[旧家臣で]地元に土着した農民の中から
庄屋・組頭などの村役人を登用。
家々を訪ねて親交を深めた。
●名所・旧跡を見出し地域の歴史伝統を掘り起こした。
●領民の誇りの高揚をはかった。
■御山荘の桃の花。
西山御殿について桃源遺事に記載がある。
西山御殿質素だった。
家の前後には池があった。
池には紅白の蓮があった。
窓の前には梅・桂・玉蘭があった。
小径を挟み桃数百株を植えた。
川に柴橋を掛け桃源橋とよんだ。
近くの山には鹿を放っていた。
鹿は義公に馴染んでいた。
よく庭にもきていた。
田には鶴がいた。鶴も義公になついていた。
池には白鷺もあらわれた。
●桃の苗木は菅谷の山横目横須賀家が調達した。
[桃の苗木は食用の桃でなくハナモモか??]

■横須賀家と書簡類。
横須賀家に義公・烈公が立ち寄っている。
書翰・賜り物が残っている。
●新茶や蕗ふきを頂戴した。
さっそく賞味した。
菅谷延命院で桜の花見があったとのこと。
出席したかったか、
ただいま精進につとめ禁酒中。
同席できなかった。
大変残念に思っている。
●桃苗木に関する書翰。
赤い花の咲く桃の苗木が欲しい。
白い花の咲く桃の苗木はいらない。
苗木は30本まとめてたのむ。
そうすれば植えやすい。

●初たけに関する書翰。
役人から横須賀家へ。
初たけ100本を西山荘に届けること。
先にいただいた初たけは
料理し、たべてもらった。
明日の昼間に採り道中損じないように。
朝露のあるうちに採ると
裏が青くなってしまうから
露がかわいてからとること。
へりとうらへは手をふれないようにすること。

●役人から菅谷村庄屋衆へ。
義公にお客がきている。
初たけをお客のお土産とする。
明日10時までに初たけをとどけること。
依頼は義公の命令を役人が受けて
前日の夕方に菅谷村の庄屋に連絡がきている。
●周辺の太田・磯部・上河合・額田・菅谷に
午前8時まで届けるように連絡有り。
●役所からの連絡。
義公は急な依頼を領民に命じている。
一方で、義公が江戸にいってきた。
お土産が役所に届いている。
取りに来るように。
●義公は領民に対して感謝の気持ちをもっていた。

■後台村車田家文書。
源義公様度々御成拝領物伝書
1695年秋
西山御殿へ初たけを献上。
度々御なりになる。
1696年秋。
菅谷村の御殿にてお会いする。
初たけを献上した。
いつも世話になっているとのこと。
料理と酒を飲んで帰れとのはなしがあった。
1697年11月。
白鳥殺傷にて平八宅にくる。
親類のものまでお会いできた。
御紋付き御羽織・御椀・御水呑・茶碗をいただく。
翌日那珂の湊の御殿[い賓閣]にお礼に行った。
御殿を見せていただき、金子300匹をいただく。
[300匹→300疋→数万円??]
1698年。
西山御殿へ山いも献上。
御筆にて藤の御歌を下しおかる。

■額田家の菩提所上宮寺(浄土真宗)伝来の宝物。
●紙本着色聖徳太子絵伝。
国指定重要文化財。 
上宮寺13代明俊が石山合戦に参加。
絵伝は戦功として本願寺の顕如からもらった。
●拾遺古徳伝。法然上人絵伝。
国指定重要文化財。
もとは上宮寺にあった。
上宮寺13代明俊が石山合戦に参加。
絵伝は戦功として本願寺の顕如からもらった。
義公が所望。
義公は山林6町6反歩を上宮寺にあげ絵伝を入手。
水戸家菩提所の浄土宗である常福寺に寄進。

■額田家所蔵の大覚禅師の法衣や墨跡。
かつて[鎌倉]建長寺の住持が戦いを避けて額田城に寄宿した。
法衣・墨跡はそのときのもの。
1678年。
義公は建長寺に建長寺境内図を寄進。
かつて建長寺には49の搭頭があった。
今は衰退している。
かつてのようになってほしい。
1679年。
義公の命により。
額田家は大覚禅師の法衣・墨跡を鎌倉建長寺に納める。

■浄鑑院常福寺へ寄進の阿弥陀三尊像のこと。
1689年
義公は伯父武田信吉のため額田山向山に
常照山浄鑑院常福寺を建立。
水戸家に伝わる阿弥陀三尊像を寄進。
阿弥陀如来1.5cm・せいし観音菩薩0.7cm・勢至菩薩0.7cm。
寄進の時、宮殿・厨子を新調。
厨子裏に義公による
阿弥陀三尊像の由来と寄進目的が記されている。
1709年
常照山浄鑑院常福寺は、
瓜連の草地山蓮華院常福寺にかわって本寺になる。
1717年。
瓜連の草地山蓮華院常福寺に院代がおかれる。
その後斉昭のときの
社寺改革・海防対策のための梵鐘提出に反対。
常照山浄鑑院常福寺は廃寺処分となる。
斉昭が幕府より謹慎させられる。
常照山浄鑑院常福寺は復活する。
しかし、天狗・諸生の争乱で焼失。

■飯田村大和田家文書。
1856年7月。
国君御代々御成家並びに御目見等書上帳。
●御用金100両。1700年。上納。
義公御一宿。お土産。
金 弐枚
あしぎぬ壱疋 妻へ
唐縮緬帯一筋 娘へ
郡内袴 倅と孫へ
●義公がこられたときに
家族全員が御目見得拝領物があった。

■額田村鈴木家。
鈴木市十郎は紅花栽培で財をなした。
義公の養女万姫が鈴木市十郎に嫁いでいる。
万姫は義公御落胤?
万姫の墓は阿弥陀寺にある。
水戸家墓所の墓標と同様に、
亀の胴体に龍の首がついてた台石の形式となっている。
現在文化財に指定されている鈴木家住宅は
義公が訪問したときに使用された書院。
鈴木家の屋敷はとても広かった。
************講演終了**********


■那珂市図書館に
義公と関係ある那珂市20ヶ所の
パネル展示があった。
●01帝青山弘願寺 臨済宗 下大賀
1345年。佐竹氏が静神社境内に建立。
1668年。義公の神仏分離策により下大賀に移る。
●02静神社 
1667年。奈良時代の銅印がみつかる。
義公は箱をつくり銘文を記す。
銅印は国指定文化財。
綱條が紙本着色 三十六歌仙を奉納。
●03小場江おばえ用水路。
1656年より。
頼房により小場江用水路が開発された。
用水路により那珂台地の稲作が安定した。
現在も使用されている。
義公は1661年に藩主になっている。
●04大和田家。飯田村庄屋。
大和田家書付がある。
大和田家と義公のかかわりがわかる。

●05法満山一乗院千手寺。真言宗。飯田。
1396年。佐竹氏が常陸大宮石沢に創建。
常陸太田稲木に移る。
水戸吉田に移る。
1700年。義公により現在地に移る。
義公寄進の薬師如来像がある。

●06東皐山清水寺 曹洞宗 東木倉。
1697年。呉雲により開山。
呉雲は義公が中国より招いた僧・心越の弟子。
水戸市祇園寺の開山は心越。
東皐山清水寺は祇園寺の末寺。
義公の歌
ここもまた 国こそ替わる山城の 
心の住める おなし清水

1869年。廃仏弾圧のなかで廃寺となる。

●07根本正
義公御壁書を生涯の指針のひとつとしていた。
*苦は楽のたねと知るべし、楽は苦の種と知るべし。
*欲と色と酒と敵としるべし。
*朝寝すべからず、舶の長座すべからず。
など。
●08鹿嶋八幡神社(額田神社)額田北郷。
はじめに鹿嶋神社が建立された。
その後源頼義・義家の東北遠征時、八幡社が建立。
1694年。義公は八幡社を合祀、額田神社とした。
義公御手植えの榊の木がある。
●09両部山宝光院毘盧遮那びるしゃな寺 真言宗 額田北郷
1698年。義公が鎌倉時代創建の遮那寺と観音寺を一緒にした。
義公は額田城主が八幡神社に奉納した
大般若経を毘盧遮那寺に移した。

●10鈴木家住宅 額田南郷
義公の養女万姫が鈴木家に嫁いでいる。
歴代藩主が訪問・休憩・食事・宿泊した。
現在文化財として書院がある。

●11光圀山摂取院引接いんじょう寺 浄土宗 額田南郷。
1696年。義公の開基。浄鑑院常福寺の末寺。
本尊阿弥陀三尊は義公寄進。
綱條実母の供養塔がある。

●12証拠山即是院阿弥陀寺 浄土真宗 額田南郷。
1391年。額田城主の招きで大山禅坊阿弥陀寺が移る。
義公の養女・万姫の墓がある。
義公御手植えとされる、しだれ桜がある。

●13常照山浄鑑院常福寺 浄土宗 額田南郷。
■浄鑑院常福寺へ寄進の阿弥陀三尊像のこと。
1689年。義公は伯父武田信吉のため
常照山浄鑑院常福寺を建立。
水戸家に伝わる極小阿弥陀三尊像を寄進。
寄進の時、宮殿・厨子を新調。
寺は天狗・諸生の争乱で焼失。
墓碑の一部が残っている。

●14太胡院蒼龍寺 曹洞宗 南酒出。
はじめ水戸城下城東に建立。
仙波村に移る。
1699年。義公の命により現在地に移る。

●15楢原山正法院上宮寺 浄土真宗 本米崎。
1221年。東野の楢原山に創建。
1577年。額田に移る。
1583年。現在地に移る。
義公は山林6町6反歩を上宮寺にあげ
法然上人絵伝の拾遺古徳伝を入手。
水戸家菩提所の浄土宗である瓜連常福寺に寄進。

●16大野山延命院 真言宗 菅谷下宿。
1446年。菅谷堀の内に創建。
元禄時代。現在地に移る。
1699年。義公が宿泊している。
[斉昭の時廃寺]
●17武田山不動院大聖寺 真言宗 菅谷。
1422年。鹿島・八幡の神宮寺として創建。
1673年。義公により再興。
本尊大日如来は義公の寄進。

●18横須賀家 菅谷村庄屋・山横目。
義公は休憩のため立ち寄っている。
桃の苗木・初たけを西山御殿へ届けている。
義公書翰が残っている。

●19車田家 後台村庄屋。
車田家「義公様度々御成拝領物得書」が残っている。
初たけの献上。
菅谷御殿での拝謁。
西山御殿でご馳走を受けたこと。
那珂湊の御殿での拝謁。
などが書かれている。


●20鹿島三島神社 後台。
鹿島神社・三島神社・駒形八幡宮・若宮八幡宮があった。
1698年。義公により鹿島神社・三島神社は合祀される。
義公神鏡を寄進。
駒形八幡宮・若宮八幡宮は末社となる。

●義公の至願1.
彰往考来
古を明らかにして未来を考える。

●義公の至願2.
興廃継絶こうはいけいぜつ
廃すたれたるを興おこし、絶たえたるを継つぐ