20/1/25東海村 古文書と歴史を学ぶ会講座 
石神組奉行所の成立
高橋裕文先生 
 [ ]はhp制作者のメモ。 
■発見。
茨城大学図書館に
頁と頁が圧着していた
厚さ20cmくらいのかたまりがあった。
補修専門家により解読可能な状態になった。
石神組御用留の記録とわかった。
東海村の古文書を読む会・茨城大学の連携により解読された。
東海村の予算により出版された。

■石神組御用留とは。
石神組御用留は1809年の石神郡奉行所記録。

■東海村外宿に石神組奉行所があった。
郡奉行所は、東海村石神外宿にあった。
久慈郡31ヶ村・多賀郡28ヶ村・那珂郡26ヶ村
合計85ヶ村を管轄した。
ほぼ現在の
日立市・東海村・常陸太田市南部・
那珂市東北部・ひたちなか市北部。

■経緯。
当初、郡奉行所は水戸城下の奉行宅にあった。
1802年。11郡となる。
9郡が在地郡奉行制となった。
石神郡奉行所はそのひとつ。
陣屋は久慈川渡船場のあった石神外宿村の西の塚越。
現在の東海村外宿浄水場のあたり。
1400坪の敷地面積をもって建てられた。
8反歩(2400坪)の大きさがあった?
初代郡奉行は岡山次郎兵衛。
1805年に加藤孫三郎が就任。
1824年.外国船来航により海の近く水木?に移転。
1830年に廃止。

■水戸藩の農村荒廃
■水戸藩の人口変遷
1720年31万人。
1786年23万人。
水戸藩の人口減少は
全国的にも関東地区と比べても多かった。

■原因
年貢率の高さが農村の再生産を阻害。
[その結果、実質年貢率の減少・
人口減・土地荒廃となった。
田が荒地になり木が育ったら大変]
■水戸藩の在地郡奉行制の導入。
水戸藩は改善案を募った。
高野昌碩の提言。
1799年.高野昌碩「富強六略」。
郡奉行所が水戸城下では、支配地域が遠すぎる。
郷村の実情を把握できない。
郡奉行所を管内の農村に置く在地郡奉行所制を提言。
陸奥塙代官が在地陣屋に居住し
農村再建に取り組んでいることを評価。

■在地郡奉行制の導入
武茂郡より野々上組を南郡より野分組(紅葉組)を分ける。
高野昌碩・小宮山楓軒を郡奉行とし在地郡奉行制を開始。
その後、水戸藩を11郡に分ける。
翌年に安良川組は松岡藩となって独立。10郡となる。
浜田・常葉組は奉行所を水戸におく。
他は在地へ郡奉行をおく。

■10郡と郡奉行所の所在地
大子組(大子)。
小菅組(小菅)。
大里組(大里)。
八田組(八田)。
鷲子組(鷲子)。
石神組(石神)。
増井組(増井)、
紅葉組(紅葉)。
浜田組(水戸)。
常葉組(水戸)。
■水戸藩での農村立て直し策。
■大きく2つの策があった。
藤田幽谷の勧農抑商論と小宮山楓軒の民富論。

■藤田幽谷の勧農抑商論。
商品経済の農村への浸透により
農民が奢侈となった。
惰農が増え農民が都市へ流入。
豪農は貧農の土地を兼併するため貧富の差は拡大。
農村荒廃の原因となっている。
在郷商人の商業活動を抑える・
農民を農業に専念させる
「勧農抑商論」を提言。
[農民に質素の生活・過酷な労働を強いるものとなった
農民にも商人にも明日の夢がない・・・]

■藤田幽谷の「勧農抑商論」の結果
「勧農抑商論」に立つ藤田幽谷の浜田組。
水戸に郡役所があり、
水戸近郊が管轄だが
農村荒廃は好転しなかった。

■小宮山楓軒の民富論。
農民間の自生的な富の形成を肯定。
農政は下から村を立て直す「民富論」。
下からの改革により、困窮郷の農村復興に成功した。
困窮村の立て直しのため規則を定め巡村。
農民に勧農・風儀改革の指導を行う。
他領商人の荷を蔵に預かり金を貸して利殖を行い、
その利金を貯え農民の救済に使った。
農民も農業に出精し生活を立て直せた。
山の下草刈り・植林の作業では
人足に出た老若男女に現金を支給した。
戸口も増え田地も開けた。
1820年、小宮山楓軒離任時は
数千人が見送り別れを惜しんだという。
鉾田市紅葉に小宮山楓軒顕彰碑がある。


■大内玉江は東海村にある榊橋近くのひと。
小宮山楓軒を慕う。
藤田幽谷には厳しい見方をしていた。

[■他の組はどうした。
浜田組はよくなかった。
紅葉組は成功。
石神組は?
はっきりわからない。
郡奉行 加藤孫三郎は小宮山楓軒を慕ったか。
その他の組の成果ははっきりしない。
組によりいろいろと事情があったようだ。
古文書がでてきていない]