19/12/5 ひたちなか市中根 正安寺法話。
はじめての正信偈 
同朋新聞2019年12月1日より
●原文。
帰命無量寿如来 南無不可思議光
●読み方。
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
●帰命無量寿如来から正信偈ははじまる。
帰命無量寿如来・南無不可思議光の2句。
総讃または帰敬ききょうといわれる。
南無阿弥陀仏と同じ意味。
南無はインドの言葉ナマスを漢字であらわした。
帰命はインドの言葉ナマスを中国の言葉に訳した。
尊いものとして敬い重んずる。
信頼して従う。
真の依り処とする。
という意味。
無量寿如来・不可思議光は阿弥陀仏のこと。
●無量寿。
はかりしれない寿命。
阿弥陀仏の大いなる慈悲をあらわす。
如来は
真如しんにょより来生らいしょうする・
真実の世界からきてくださった
という仏の尊称。
●不可思議光。
阿弥陀を中国語に訳したもの。
人間にはおもいはかることのできない
仏の無限の智慧。
●阿弥陀仏は光の仏。
無量寿如来・不可思議光は
わたしたちの心の闇やみが深くても
必ず照らしてくれる。
●帰命無量寿如来 南無不可思議光を詩にする。
つきせぬいのちの ほとけに きみょうし
はてなきひかりの ほとけに きみょうす

●主語がない。
帰命無量寿如来 南無不可思議光には
わたしは・・・という主語がない。
声に出すとき自分ということばはない。
自分中心の思いはなくなる。
阿弥陀仏が中心になる。
念仏申すとき。
念仏はわたしの声であるが
それは阿弥陀仏の願いのこもった声である。
阿弥陀仏の本願の呼び声である。

以下はhp制作者メモ。
[念仏。
南無阿弥陀仏の全体が名号
帰命無量寿如来・
南無不可思議光の全体が阿弥陀仏の名前。
私の思いは常に自分の都合がつきまとう。
自分の都合による念仏は、
自分のことを念じているだけ。
仏を念じたことにはならない。
自我にこだわり続け悩み苦しむ。
まともな念仏のできないわたし。
わたしに代わって
阿弥陀仏の方が念仏してくださる。
清らかな念仏を
信心というかたちで私に回向されている。
阿弥陀仏の慈悲により、
私に振り向けられる。
慈悲のはたらきに感謝し、
南無阿弥陀仏。
帰命無量寿如来・南無不可思議光。
私たちに差し向けられた信心として
受けとめる感謝の念仏。
それが感謝の念仏をいただくこと??]