19/11/30 東海村古文書と歴史を学ぶ会
藤田東湖先生と秋山魯堂。
仲田昭一先生。
■秋山魯堂。
名は毅、茂三郎忠彦とも称する。
1783年生まれ。
1826年・小普請組。
1831年・下勘定役見習。
1832年・蔵奉行。
1838年・江戸詰となり藩の管庫のある小梅に移る。
当時、東湖は定江戸通事だった。
●魯堂に対する会沢正志斎のことば。
「慷慨義を好み、酒を嗜み客を愛す、
・・・夫子国を憂い、幽憤思いを焦がして客を引き、
劇飲談論して客を忘る」
魯堂は熱血憂国の士であった。

●魯堂は東湖より22歳年上。

■東湖の「丁酉日録」に魯堂のことが記されている。
●出会い。
秋山茂三郎、水戸蔵奉行にてありしが、
去年江戸へ永詰仰せ付けられ、
この間上着せりとて、今日来り訪い、
故郷親友よりの伝言など申し述べ、
鈴木・国友より国事箇条書に認めたるをおこせり、
●魯堂は、水戸に於いても東湖と接触があった。
江戸に於いてもしばしば会っていた。
国事・世情のことを話し合った。
●1830年・「丁酉日録」より。
5月28日・秋山茂三郎呈書、
御内拝見仰せつけられ、麦買の事。
7月朔、秋山茂三郎来り、
この気候遠き慮ありちき旨をいい、
麦米を買入れ、非常に備えんと説、
逐一尤も至極なり。
から麦金壱両に6斗なりと云う。
その外、議論時を移して去る。
●当時は、天候不順により、
各地に一揆・打ちこわしが起こっていた。
1830年・大坂では大塩平八郎の乱が起きている。
大飢饉だったが、水戸藩では一人の餓死者もださなかった。
これは斉昭をはじめ皆の努力による。
魯堂ら当該役人の先憂・任務への真摯な姿勢・気迫があった。
●1832年仲秋・東湖が魯堂を訪ねた時の詩。
吁嗟三秋の半、
萬戸括目して看る、
奈た何ぞ清翫を負わん。
空しく起こる吾人の嘆き、
君看ずや江城の東墨水の畔、
壮士相逢いて髪冠を衝く、
苦心肯えて呑まん予子の炭、
慷慨未だ斫らず呉国の案、
腰間の宝剣誰の為にか鍛う、
三尺の蒿下徒に腕を扼す、
玉兎々々若し人間に向かうを憚らずんば、
咬々明名直に来たりて壮士の観に入れよ。


■東潮と小梅水哉舎記
●魯堂は、小梅下屋敷の中に
水哉舎という剣道道場をつくった。
東湖に道場の「道場の記」を書いて欲しいとお願いした。
約束を果たさないまま東湖も魯堂も転任。
●斉昭が水戸藩の改革を進める。
東湖も参加。しかし幕府の処分を受ける。
1844年・東湖は小梅の下屋敷に禁錮の身となる。
そこで「道場の記」を思い出し、小梅水哉舎記を書いた。

■小梅水哉舎記
●1837年・魯堂が倉庫番になる。
当時、小梅の下屋敷は、上役人は賄賂を受け取る。
下で働く足軽達は、酒を飲んだり賭博をしたりの生活をしていた。
魯堂は小梅の下屋敷の有り様を見るに見かねて撃剣舎・剣道場を作る。
●そうすると、若い者は読書に励む。
壮年の者は剣道に励んだ。
●足軽の身の者でも、
必ず雙刀を身につけるようになった。
●皆礼儀を言うようになった。
それは魯堂の影響であった。
ひとりの人物の与えた影響は大きかった。
魯堂が下屋敷の風紀を一変した。
●魯堂は、下の者を使うとき厳しかった。
ただ厳しかったのではない。
恩情があり優しく接した。
また、子弟を教育した。
その教えの根本は国に報いること。
個人一身の利害ではない。
国に報いるものは自分一身の利益・賄賂を受け取らない。
●「苟しも人の道に志す、
水の混々として料に盈ちて進むが如から使めば、
則ち沛然其れ孰か能く之を禦がん」
孔子は川のほとりに立った。
「水哉、水哉」水なるかな、水なるかなといった。
この水哉より水哉舎と名付けた。
水には源がある。混々と湧き出る。
誰でも、勉強するものは昼夜を問わず、
水が湧き出る如く勉強する。
道を広めていく努力をしなければならない。