19/11/26 那珂市本米崎 
上宮寺報恩講 真宗本願寺派。
法話 講師 鶴山信行師。
神奈川県 真宗本願寺派 常光寺住職。
無上甚深じん微妙の法は、
百千万劫にも遭遇あいおうこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
■仏法は聴聞という。
仏法は毛穴から入る。
耳から入ったものはそのまま出ていく。
毛穴から入ったものはでない。という。
■榎本栄一さんの詩。
この耳は 不思議な耳で
テレビの声は 聞こえにくいが
何万光年の かなたより
人身 受け難し と
聞こえてくる
テレビの音は聞こえにくくなった。
仏法を聞かせていただくことのできる
人間の世界に生まれさせていただいたご縁。
それを教えてくれた何万光年、
昔からの呼びかけ。
「聞」とは「うけとる」こと。
「味わう」こと。
「聞けば 聞くほど 
聞かずにおれぬ 仏法さま」という。
■関東の弟子、京都に行く。
歎異抄第二条。
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、
身命をかへりみずして、
たづねきたらしめたまふ御こころざし、
ひとへに往生極楽のみちを
問ひきかんがためなり。
歎異抄は声に出して読める本。
親鸞聖人は関東の弟子に答える。
総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然上人にすかされまゐらせて、
念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
そのゆゑは、
自余の行はげみて仏になるべかりける身が、
念仏を申して地獄におちて候はばこそ、
すかされたてまつりといふ後悔も候はめ。
いづれの行もおよびがたき身となれば、
とても地獄は一定すみかぞかし。
はるばる訪ねた弟子に対し。
念仏を称えることしか知らない。
と言い切っている。
■自余の行
念仏以外の行業。
仏に成るとは無我になる。
行をつんでも多くの人は
これだけのことをやったと
ただ、まいあがるだけ。
無我はむずかしい。
凡夫は自分を悪く言わない。
夫婦間でも同じ。
■赤尾の道宗。
幼い時に夕食に出た大きなイワナを目にし、
思わず持っていた箸を落とした。
罪のない人間を殺すことは
悪いことだというのに、
人間が何も知らない罪もない
魚を採って食うてもよいものですか?
と父にきいた。
深い慈悲の心をもっていた。
蓮如上人の法話をよく聞き、
妙好人といわれた。
■人間とは何か。
財産・教養よりも大事な問題。
幸せとは何か。物があればしあわせか。
ほとけに幸せですかと問われた時
はいと答えられない人はおおいのでは。
ひとりはさみしい。
仏法をきく。何を聞くのか。
わたしのことは分かっていると言いたい。
親鸞聖人は言う。
善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。
そのゆえは、
如来の御心に善しと思し召すほどに
知りとおしたらばこそ、
善きを知りたるにてもあらめ、
如来の悪しと思し召すほどに
知りとおしたらばこそ、
悪しさを知りたるにてもあらめど、
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、
万のこと皆もってそらごと・
たわごと・真実あることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします。
阿弥陀仏の本願のみがまことといっている。
■ひとは怪しい生き物。
自分の都合で考える。
阿弥陀如来は何とかしたい。助けたい。
■二人が一緒では親ではない。
こどもができて親になる。
こどもに親にしてもらう。
■仏はおまえのところにいる。
かねてしろしめして。
人の時間。
仏教は無限の時間。
■他力の悲願。
超世ちょうぜの悲願
キリスト教では愛。
仏教では渇愛など愛は良い意味では使われない。
仏は慈悲深いかた。
一緒に泣いてくれるかた。
■親鸞聖人は阿弥陀如来に救い摂られると、
この世から明るく楽しく
生かされるといっている。
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏うろの穢身えしんはかわらねど
こころは浄土にあそぶなり
■ひとは何かの光を
頼りに生きている。
煩悩具足。
生れた時から満ちている煩悩。
■ひとはご縁かあれば
どのような悪事もおこなう。
アメリカの動物園。
大変に危険な猛獣がいる。
あまり近づかないようにとの看板。
そっと近づいてみる。
見えない。
もっと近づく。
そこには鏡がおいてあり
見えたのは自分の姿。
大変危険な猛獣は自分だった。
■豊臣秀吉辞世の句。
露と落ち 露と消えにし我が身かな 
浪速のことは 夢のまた夢
財・位階を求めた秀吉。
その結果手に入れた豪邸も英名も
すべて夢のまた夢。
一体何をしていたのか。
後悔する秀吉の心の歌に思える。
一方で、突然にガンの告知を受けた
念仏者・鈴木章子さんの詩。
今日一日を精一杯生きることの大事さを
うたっている。
変換
死にむかって 進んでいるのではない
今をもらって 生きているのだ
今ゼロであって 当然の私が 
今生きている
ひき算から 足し算の変換
誰が教えてくれたのでしょう
新しい生命 嬉しくて 踊っています
“ いのち 日々あらたなり ”
うーん わかります
死を前にした、秀吉と鈴木さんのことば。
かなり違う。
■してはいけないではなく
おまえも同じものをもっていると教える。
■超世の悲願
阿弥陀仏のお慈悲にあう。
それが救い。
妙好人の境地。
■虚仮不実・虚実のわが身。
親鸞聖人はいっている。
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
さらに
修善も雑毒なるゆえに虚仮の行。
聖人が自ら虚仮でしかないといっている。
人間の善は欲や怒り、
憎しみに汚染されている。
煩悩がまじっているひとの行いは雑毒。
雑毒の行をして、
かの仏の浄土に求生せんと欲するは、
これ必ず不可なり。
私が浄土を願ったとしても、
雑毒の善であるためできない。
わたしを救ってくれる行の道はない。
といっている。したがって、
阿弥陀仏に帰依するしかない。
阿弥陀仏の不可思議な力をたよる。
阿弥陀仏に帰依する。
虚仮の身のわたしを
阿弥陀仏は救ってくださる。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏。

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候。
その故はもろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏の方より往生は治定せしめたまう。
その位を一念発起・入正定之聚とも釈し、
その上の称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、
心得べきなり。

■前住職の話。
仏からみたらお粗末な私。
大きなはたらきで迎えて下さる。
めをつぶり南無阿弥陀仏を
称えるのではなく、
阿弥陀如来をみて
南無阿弥陀仏を称えよう。
如来の呼びかけを感じて称えよう。

■掲示板のことば
ものを食べるということから
「いのち」をいただくという
深いこころへ
そこには合掌という
尊い姿がある。

みなさん手を合わせて
食事をしてますか
佛教は実践です
一人ひとりが手を合わせて
食事をしているところ
尊い世界が生まれます。
そこに深くて広い佛様の
世界を拝んでいきたいですね。
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