19/11/10 みんなで学ぶ、東海村の古代官道を考える会。 
東海村の古代官道と石橋駅。
東海村立図書館
高橋裕文先生
[ ]はhp制作者メモ。
■はじめに。
東海村史に石橋駅うまやについて書かれている。
しかし、道について書かれていない。
駅があるなら道があるはず。
痕跡とおぼしき直線。
小林文具店近くから東海駅に向かう斜めの道。
この道は南西方向が住宅・工場で消えている。

●常磐線は水戸から日立へ・古代官道も南北。
久慈川に下がるには崖が多い。
谷を使って下がるのは古代官道も同じ。

●村松虚空蔵から石神城に行く道。
塩の道。
常磐線と交差するところに石橋がある。
線が交差するところには何らかの存在理由がある?

●亀下には舟渡という地名がある。
古代官道に関連する地名として。
東海村豊岡石橋駅説の根拠となった。
もうひとつ東海駅西側に石橋の地名がある。
ここは河内駅より近すぎる。
面積が広く何らかの関連施設があったか。

■現在は那珂市本米崎石橋駅説が定説となっている。
定説のもとは木下良氏説。
しかし問題点がある。
久保田喜一氏が那珂市本米崎「石橋」を
石橋駅の地としたことが元になっている。
木下良氏はこれにつながる
米軍航空写真による直線が古代官道とした。
しかし
●[木下良氏]東海村豊岡の石橋は
水戸の河内駅から18kmになる。
[高橋氏}測ってみると15kmの平均値だった。
●[木下良氏]豊岡では久慈川を歩いて渡れない。
[高橋氏}本米崎「石橋」でも歩いて渡れない。
●本米崎「石橋」の場所は水田の中にあり駅家を建てるはずがない。
[木下良氏]台地の上に石橋駅が置かれた。
[高橋氏}考古学者の黒沢彰哉氏が現地をみると、
古代遺跡は見当たらないという。
●直線の先に額田の広大な千石溜という沼地がある。
官道を大きく曲げなければならない。
最初から官道を作らなかった。
●航空写真の直線上に古代遺跡は福田の春日神社のみ。
●直線道路は額田台地を北上し太田に至る副道ではないか。
「石橋」にはつながらない。

■石橋駅につながる官道を調査・発表。
上河内駅を起点とし東海村豊岡の石橋駅までのルート復元。
直線コース・官道関連地名・地形をたどり調査した。
[官道イメージ。hp制作者作成]

●栗田病院[那珂市豊喰505]の道路が北西斜めに直線。
●その先に後台駒潜[那珂市後台駒潜]がある。
●那珂市菅谷に
源義家が遠征の途中菅屋を掛けて休んだという
八幡太郎伝説がある。
●那珂市堤に
南朝で奥州の北畠顕家あきいえが休息したという
御所堀の地名がある。
●6号国道に「孫目」・馬籠という古代官道関連地名がある。
●東海村小林文具店の前の斜め線に
「久慈海道」という地名がある。
●東海駅西口に「石橋」という地名がある。
「大大房」という古代道路にちなむ名前がある。
●駅の北の豊岡に「石橋」という地名がある。
ここが上河内から15kmにあたる。
官道の基準は30里・16km。
●北の岡集落に経塚がある。
●谷津に沿って常磐線は下りる。
古代官道も谷津を利用したと考える。
付近に「道入寺」という地名がある。
●長松陰の山号は住吉。
外宿の住吉神社も近くにあったという。
住吉神社は海の神を祀る神社。
近くに湊があったとも考える。
●1494年・白方に船方、寺家、社家があった。
豊岡は白方に含まれていた。
●石橋駅は水陸交通の要衝だったと考える。
蝦夷征討の兵粮を大船で陸奥まで海上輸送したと考える。
●万葉集。
防人久慈郡丸子部佐荘まるこべのすけおの歌。
久慈川は 幸さけくあり待て 潮船に 
真楫まかち繁貫しじぬき 吾は帰り来こむ


[久慈川、変化することなく待っていてくれ。
防人が終わったら 潮船に乗り帰って来くる]
当時は谷津の下を久慈川が蛇行していたと思われる。
●対岸の亀下に
「船渡」「大道畑」=大道端という
古代官道関連の地名がある。
●日立側の南高野の直線道路を上がる。
大甕神社前を通る。
日製工場内の助川駅に至る。
●この説は茨城新聞の記事になる。
[18/8/24 古代官道、直線ルート説。
那珂の高橋さん 水戸-日立間を探査]
教育財団川井正一氏も同じであるという。
■常磐線東海駅西口が古代官道の合流点となり、
地下に埋蔵されている可能性がある。
●駅東口は発掘した。
古代住居跡はあった。
古代官道は確認できなかった。
駅西口は可能性が高い。
現在更地で駅前ロータリー開発予定地になっている。
試掘をするように
生涯学習課・区画整理課・村長に申し入れた。
■眠っている歴史がある。
それを掘り起し本当の歴史を作っていくことが必要。
何もしないのでは歴史は消えて行ってしまうばかり。