19/11/5 ひたちなか市中根 正安寺 宗祖親鸞聖人報恩講法要 真宗大谷派
13:00〜法要
14:00〜法話 講師 佐々木弘明氏。
埼玉県本庄市 西廣寺住職・東京教区駐在教導。
[ ]はhp制作者のメモ。
■台風など自然災害が多い。
スマホ・電気・水など生活環境が便利になっている。
災害で便利なものが使えなくなると不便を感じる。
災害が多いと感じる要因かもしれない。
■東京のある駅構内に床屋がある。
なぜあるのか考える。
忙しい生活、効率よく生きようとするためか。
仏教は教えがつたわらない
墓じまい、坊さんなしの葬儀もきく。
どう効率よく生きるか。
どううまく生きるか。
何でもマルかバツをつける。
自分の都合で生きている。
そのような社会になってきている。
最近、自分が何かをときどき考える。
ありのままの私は?
[何のために生きている?]
心をノックされている感じ。
何が変わらないものがないのか考える。
■歎異抄に書かれている善人・悪人について。
なぜ悪人が救われるのか。
歎異抄
■善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、
「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善のひとは、
ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、
他力をたのみたてまつれば、
真実報土の往生をとぐなり」
●善人ですら往生する。
だから悪人は往生する。
ふつうには、
悪人ですら往生する。
だから善人は往生する。
と考える。
阿弥陀仏の本願他力の救いのこころを考える。
自力の善行で往生しようとする善人。
これは、本願のこころに反する。
ひたすら本願を信じる人は、本願のこころにかなう。
自力の善行は信心のない人。
■あるかたが、ふたりの親鸞聖人がいるといった。
ひとりは書かれた親鸞聖人。
ひとりは書いた親鸞聖人。
歎異抄は唯円が書いた。[書かれた親鸞聖人]
唯円の想いが入っている。
[正信偈は書いた親鸞聖人]
■曾我量深先生の言葉。
「善人は暗い人、悪人は明るい人」。
あるお寺でこれを掲示板に書いた。
掲示板をみた学校の校長・教頭が寺に来た。
「教育上よくない」ので撤去するようにといわれた。
住職はそのままにしておいた。
翌日、掲示板をみた中学生が言った。
「善い生徒は先生の前ではよく見せようとする。
明るい。でも本当は暗い」
[悪い生徒は隠しているものがない。明るい]
大人になると善悪の判断基準がきまってくる。
自分のモノサシをもつようになる。
自分のモノサシの目盛はかわる。
食べもの・着るものなど、
自分にとっての都合でモノサシはかわる。
善い人・悪い人も自分の都合でかわる。
[自分に都合の良いものはどんどんむさぼる。
都合の悪いものには怒り・腹立ちの心で接する。
正しく見ることができない心で判断する]
■親鸞聖人は正信偈に書いている。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願  仏言広大勝解者 是人名分陀利華
一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者ひとと言のたまえり。
この人を分陀利華と名づく。
[善人悪人ら一切の凡夫が、阿弥陀如来の誓願を聞信すれば、
釈尊は、それらの人を広く勝すぐれた理解者という。
そのような人を分陀利華という。
分陀利華は、白蓮華で尊いもの]
阿弥陀仏の誓願は、どのような人でも、
例外なく救いたいと願われた願い。
[阿弥陀如来より発せられている願い。
願いに触れさせていただく。
弥陀の本願を信じて念仏する。必ず仏になる]
■善悪に縛られている私たち。
坊さんは悪いことができないと思っている。
善人の看板を背負っている。
善人は看板を背負っている。
■善人と思っているひとが人殺しをする。
2016年相模原市の事件。
[神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」。
元施設職員が侵入。
入所者19人刺殺、入所者・職員26人に重軽傷を負わせた]
元施設職員は、役に立たない人は人間でない。
殺しても殺人ではない。
自分の物差しで判断。
私たちのなかにもある。
風邪をひいているひとと一緒の車はいや。
■唯識道の歌。
「手を打てば 鯉はえさと聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢の池」
奈良興福寺近くの猿沢池で誰かが手をたたいた。
鯉は餌がもらえるとよってくる。
鳥は音に驚き飛び去る。
旅館の女中は客がよんだと思い返事をする。
ある出来事は受け取る立場が違えばとらえ方が異なる。
人は悪いことの反省はできる。
善いことの反省はできない。
自分が善いと思って行うことが
周りの人を苦しめる場合もある。
自分のモノサシ・尺度はわからない。
■阿弥陀 
計り知れない光
自分のことがわからないことを気付かされる
「聞信如来弘誓願」
阿弥陀の願いを聞く。
許されて聞く。
信じて聞く。
これが聴聞。
阿弥陀が判断する。
■私たちは、あれは善い、これは悪いと善悪の価値判断をする。
それは自分の都合での判断。
親鸞聖人は自分は善悪を判断できないと言っている。
歎異抄。
「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。
そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどに
しりとほしたらばこそ、
悪しさをしりたるにてもあらめど、
煩悩具足の凡夫、家宅無上の世界は、よろづのこと、
みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておはします」
■カトリック司祭のことば。
信仰とは頭で考えることではない。
生きてみること。
知ることではない。
歩いてみること。
[キリスト教と真宗のにているところ。
キリスト教。キリストと私が「一対一」でむきあう。
真宗。阿弥陀如来と私が「一対一」でむきあう]
■日々の生活の中で阿弥陀如来を考えるべきではないか。