19/1/16 
19/11/4 那珂市総合センタ 那珂市城郭調査フォーラム。
当日会場に行った。
事前申し込みが必要とのこと。資料を戴き帰宅。
後日資料をもとにhp制作。
[ ]はhp制作者メモ。
■2014〜2018年度に那珂市城郭調査を実施。
■那珂市城郭調査報告。
藍原怜先生。
■目的。
那珂市内の城館跡・分布・縄張り・遺跡範囲の確認。
■対象。
48ケ所。
■2015年度調査地区。
福田・後台。
7城郭。
■2016年度調査地区。
飯田・鴻巣・西木倉・戸。
10城郭。
■2017年度調査地区。
門部・戸崎・戸多。
8城郭。
■2018年度調査地区。
静・額田・堤・横堀・本米崎
8城郭。
■那珂市の城郭の特徴。
水系・街道
■水系と城郭。
菅谷地区・宮田掃部助館跡。
東西2つの溜池が水路でつながっている。
館が溜池と接続していた。
■菅谷地区・高野氏館・軍司筑後守館。
水堀だった?
防御性・水利権にも関係していた?
●発掘調査・聞き取り調査。
菅谷・福田地区は湧水点が低い地域が多い。
水の利用と城館跡は関係していたか?
■街道と城館。
菅谷地区は棚倉街道沿い。
福田・後台地区は古代官道沿い。
飯田・鴻巣地区は大子街道・南郷道沿い。
門部地区は瓜連道が城内を通る。
戸崎地区は東部に大子街道。
戸多地区は水戸と下江戸の街道。
城館の多くは街道と関わっている。
■門部館・要害城。
瓜連道が城を通る。
要害城は瓜連道を封鎖できた。
■小屋場館。
義家陣所と伝わる。
駒の膝・鞍掛石の名前が残る。
馬が通れる街道があった?
街道を監視するように曲輪が配置されている。
■菅谷地区の城館。
生活した後がみられる。
戦うよりも城主一族の居住の場所だったか?
■城館に誰が住んだか。
菅谷・福田地区は江戸氏家臣。
門部館は佐竹家臣。
額田地区は額田小野崎氏・・・
那珂地域の城郭には様々な勢力が入っていた。
■城館の役割。
生活のための館・軍事的目的の館。
多種の城館が那珂地域にあった。
佐竹氏・江戸氏・額田小野崎氏が交わった。

■戸村城を考える。
須貝慎吾先生。
■戸村氏・戸村城略年表。
1160年・那珂通能が戸村城に入る。
戸村小三郎と称す。
1221年・戸村小三郎は承久の乱に参戦功をあげる。
1336年・南北朝の動乱・瓜連合戦で戸村氏討死。
[南北朝時代、戸村又五郎が南朝に味方。
1361年、佐竹貞義の金砂城を攻めるが敗れる。戸村氏は滅亡]
1460年・佐竹氏12代佐竹義憲の子義倭が戸村城に入る。
1550年・戸村で佐竹氏と江戸氏の戦い。
1570〜1574年・戸村義和は佐竹氏の赤館攻めに参戦。
1589年・額田の乱に戸村義和参戦。
1593年・戸村義和は朝鮮出兵。朝鮮熊川城で病死。
1596年・佐竹氏家臣小貫伊賀守が戸村城代で入る。
1602年・戸村義国は佐竹氏の秋田移封に従い秋田へ移る。
1604年・残留家臣
檜山氏・高根氏・館氏が戸村の村政をおこなう。

■瓜連城の調査成果について。
五十嵐雄大先生。
■はじめに。
瓜連城が総構えを持つ城であることを明らかにした。
■瓜連城の特徴。
■周知の瓜連城は常福寺境内。
北西側に高さ最大12m幅7mの土塁と堀が残る。
北側の堀は竪堀が連続している。
茨城県ではあまり見られない。
関西の城の傾向。
■出城。春川の館。
街道を見下ろす場所に立地。
瓜連城死角を守る場所。
■瓜連城は南北朝時代だけでなく、
戦国時代まで使用された可能性がある。
■瓜連城の史料。
■佐竹の乱の瓜連城。
1408年・佐竹の乱が勃発。
1416年・上杉弾正の乱・鎌倉公方側の勝利。
弾正側についた残党狩りがはじまる。
1417年・瓜連城が鎌倉公方側の陣所となる。
瓜連城にあった常福寺は鹿の臥床・荒廃していた。
了誉上人は常陸太田市阿弥陀寺(現香仙寺)に避難。
■瓜連城が山入の乱に城郭として再整備された?

■那珂市城館跡調査の意義。
高橋修先生。
■茨城県の城郭遺跡調査。
大規模城郭の個別調査から分布・縄張調査へ。
1940〜60年代・川崎春二・常陸奥七郡城郭図。
1979年・日本城郭大系4 茨城・栃木・群馬。
1985年・重要遺跡調査報告書U城郭跡。
■自治体史編纂。
1988年・瓜連町史。
1990年・那珂町史
■茨城城郭研究会の成果。
Hpの公開ほか。
■個別城郭の縄張調査は進展。
広領域で分布・縄張の網羅的把握を目指す調査は停滞。
■城郭は単独で存立しない。
支城・出城・関連施設の集合として把握する。

■那珂市城館跡調査。
額田城跡・瓜連城跡・南酒出城跡・戸村城跡。
有力武士の政治拠点。
●街道・水系に沿って
連なるように散在する
土豪・地侍の生活空間。
大きな城も・小さな城も。
■発掘事例。
1976年・常陸堀之内館跡。
2008年・高野氏館跡。
2009年・軍司筑後守館跡。
2015年・軍司筑後守館跡。
2015年・地天館跡。
2017年・堀の内館跡。
■茨城大が来中世史研究会による調査経緯。
2013年・軍司筑後守館跡の破壊。
分布調査。
57ケ所の中世城郭遺跡を確認。
開発により消滅する城郭がある。
網羅的・統一的な分布・縄張調査が必要。
■2013年・那珂市中世城郭分布・縄張調査を開始。
2014〜2018年度・
那珂市から那珂市城館跡調査を受託。
■茨城県中世城郭総合調査。
茨城県教育委員会が2018年度より実施。
期間は5年間。


■那珂市城館跡調査の手法。
藍原怜先生。
■調査範囲の仮定。
埋蔵文化財包蔵地の確認。
縄張調査の先行研究の検討。
■地表面遺構確認。
●遺構がどの程度残っているか。
地表面観察で確認。
●曲輪形状・規模を歩測。
方角を確認。
歩幅75cmで歩き20歩・
15mごとに方眼紙に1cmとして書く。
約1:1500の下図を作成。
堀・土塁は目視による推測。
可能な限り簡易距離計で計測。
●下図を1:2500の都市計画図に
縮尺を合わせて乗せる。
方位・距離を修正。
遺跡周辺の建造物・
地形・標高を加えトレース。
■消滅遺構の復元。
消滅経緯・記録保存の信憑性を確認。
先行研究・記録・航空写真との照合。
消滅前の遺構を予想し地図に加筆。
■遺跡範囲確定。
遺跡範囲を都市計画図上に確定。
包蔵地範囲からもれると、
遺構が未調査で破壊される。
遺構範囲の正確な確定が必要。
■遺跡分析は以下を考慮する。
遺跡の歴史・伝承。
曲輪の機能。
周辺遺跡・宗教施設。
街道・河川。

■2014年度
那珂市中世城郭遺跡分布・縄張調査報告。
菅谷地区。
藍原怜先生。
■地区の概観。
●同規模の平地城館が狭い範囲に密集。
全国でも珍しい。
●水系管理と城館跡に関係がある。
●江戸氏に仕えた城主が多い。
額田小野崎氏との境の地域。
●城主は近世地誌・伝承で確認できる。

■城館構造。
二つの特徴。
●主郭を中心部にもつ。
主郭から同心円状に曲輪を配置。
高野氏館・加藤安房館。
●多数の曲輪を不規則に配置。
平野小六館・地天館。
■遺構の様子から。
戦には対応難しい城館。
出土遺物から考え、
長い間生活空間として機能していた。

■所在地と水系から。
城館は同じ谷筋状にある。
溜池を通して同じ水系。
城館の堀に水を入れたものもある。
■平野館(寄居館)
江戸氏に仕えた。
軍事的性格のつよい館。
館南側・湊街道。
館東側・旧太田街道。
館は交通の要所にあった。

■2015年度
那珂市中世城郭遺跡分布・縄張調査報告。
福田・後台地区。
藍原怜先生。
■地区の概観。
●水系管理と城館跡に関係がある。
●多くが古代官道沿いにある。
●各城館主の仕えた先は様々。
佐竹氏・江戸氏・額田小野崎氏のもとに仕えている。
■後台地区の場合。
常陸大掾氏領→江戸氏領→佐竹氏領と変遷。
1590年・佐竹氏と江戸氏の合戦の場となった。
■城館の構造。
●河川と低地で形成された台地に城館がある。
水系は同じ。
原坪館・向坪館・東崎館は水堀か?
■代表的城館。
福田中坪館(福田氏館)
●城館の一角にあった金光寺は佐竹氏と縁がある。
山入りの乱では江戸氏の配下。
1584年・額田小野崎氏の配下。
●主郭を中心に周囲を
大小さまざまな曲輪・
金光寺など宗教施設を配置。

■2016年度
那珂市中世城郭遺跡分布・縄張調査報告。
飯田・鴻巣・西木倉・戸地区。
須貝慎吾先生。
■薬山館・根城内館。
●水系が豊富。
堀を多用。
虎口が簡素。
生活空間として機能。
■木戸館。
南郷道に隣接。
二重の方形区画。
生活空間として機能。


■飯田・鴻巣地区まとめ。
江戸氏・額田小野崎氏との境。
谷状低地に形成された微高地に立地。
水系が豊富。

■2017年度
那珂市中世城郭遺跡分布・縄張調査報告。
門部・戸崎・戸多地区。
須貝慎吾先生。
■門部地区まとめ。
1540年・額田小野崎領となる。
1591年・額田の乱で戦場となる。
佐竹方として額田城を攻める。
●環境。
沢が入り組み細長く独立した河岸段丘上にある。
瓜連街道が通る。

■2018年度
那珂市中世城郭遺跡分布・縄張調査報告。
静・額田・堤・本米崎地区。
大山恒先生。
■静地区の中世城館。
城菩提城・古徳城・江戸城。

■額田・堤・横堀・本米崎地区の中世城館。
額田城・森戸館・
小堤館・北酒出城・南酒出城・
坊の内館・堤館・
神生館・本米崎館・大学原館。
■白菩提城。
静神社の約700m北・山の先端。
東西130m・南北60mの平地。
帯曲輪・土塁・横堀・堀切・虎口。
出城か?
■小堤館。
佐竹義直が額田城築城以前に居住か?
鱗勝院・義直の開基。
土塁・堤が一部残存。

■神生館(加納館)
神生氏のが居住か?
1588年・神生の乱後
小野崎氏を便りこの地に匿われる。
竪堀・横堀・腰曲輪・土塁の一部残存。

[■神生の乱
1588年・江戸氏家臣神生氏が江戸氏を離れる神生の乱。
乱で江戸氏長男通升が戦死。
額田小野崎氏が神生氏を助けた。
江戸氏と額田小野崎氏が対立。
江戸氏は佐竹氏の支援を受け額田城を攻めた。
額田小野崎氏を伊達氏が支援。
翌年和議。江戸氏勢力が衰退]