19/11/2 ひたちなか市民大学講座 
第8回
「マヤ文明の盛衰−古典期終末期から後古典期、
王国の終焉と新しい時代」
長谷川悦夫先生。

■王国の終焉。
800年代。
マヤ王朝支配が終わりを迎える。
100万規模の人口を抱えた地域。
最終的に無人のジャングル。
●各都市の最後の長期暦の日付。
王朝崩壊の物差し。
カラクルム771年。
パレンケ799年。
ヤシュチラン808年。
キリグア810年。
コパン822年。
カラコルム859年。
ティカル869年。
■衰退の要因。
●王朝間戦争。
●人口過剰と環境破壊。
●被支配階層の反乱。
●宗教による末世感。
●自然災害。
●外敵の侵入。
●経済組織と交易路の変化。
●気候変動。
●疫病の流行。
●王朝間戦争・人口過剰と環境破壊・
被支配階層の反乱が有力。
他は現実のデータに反する。
●王朝間戦争事例。
戦争に関する碑文が多い。
●人口過剰と環境破壊。
コパン。5世紀から森林破壊。
800年。周辺の森は切り尽くされた。
人骨より古典期後期には貴族階級も栄養不足。
●被支配階層の反乱。
カンクエン、被支配階層の反乱。
宮殿付近の池から高貴なひとの人骨37人。
人骨には激しい暴力の痕跡。
浅い穴から王の遺体。
いずれも800年前後。
●王朝崩壊。
王朝間戦争・人口過剰と環境破壊・
被支配階層の反乱
複合的に作用した。と思われる。

以下省略。

以下はhp制作者のメモ。
[1697年。スペインにマヤ文明最後の王国が併合。
しかし。
マヤの末裔は今800万人いる。
現在30のマヤのことばが話されている。
マヤ文化は現在もいきている]