19/10/26 東海村 古文書と歴史を学ぶ会講座 徳川光圀の文化事業。
仲田昭一先生  [ ]はhp制作者のメモ。
■光圀寄進 阿弥陀三尊像。
二十六夜尊大祭 聖冏しょうげん上人600年遠忌特別法要。
常福寺所蔵 厨子入阿弥陀三尊像公開。
今 那珂市常福寺で実施されている。
常福寺に光圀が寄贈した阿弥陀三尊像がある。
阿弥陀三尊像は、
聖冏上人600年遠忌に合わせたように見つかった。
中尊阿弥陀如来像が約 1.5p。
脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像はさらに小さい。
見てもよく見えない。
誰の手で作られたのか。鎌倉時代の像。
なぜ光圀の手に入ったのか。
今後の調査に期待。
脇侍は少し膝を曲げている像が多い。
これは来迎らいごうのとき、臨終の者を迎える姿勢。
[来迎。
念仏行者の臨終の際、
阿弥陀三尊が白雲に乗って迎えに来て極楽に連れて行く。
真宗では
真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。
このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生またさだまるなり。
(親鸞聖人 ご消息)]
[常福寺という寺が現在の常陸太田市常福地町にあった。
真言宗の寺。
その後廃寺になった。佐竹家臣の墓?がのこっている。
了実上人は、瓜連城址内の白蓮塚に草庵を結んでいた。
1336年.浄土宗、了実上人によって常福寺が開山。
寺の名前は、常陸太田の常福寺をもらった。
常陸太田の常福寺が瓜連に移ったわけではない。
1405年、現在の瓜連に移転]
■水戸徳川家は、参勤交代のない江戸定府だった。
御三家。
尾張徳川家・義直、
紀州徳川家・頼宣、
水戸徳川家・頼房。
頼房はあばれもの、気性が激しい。
「江戸におけ」と家康がいった。
[だから水戸藩は特例の江戸定府?]
水戸は、尾張・紀州にくらべ石高が少ない。
■頼房は中山信吉の教育をうける。
中山信吉は後北条氏家臣。
小田原征伐における八王子城攻防戦後、
徳川家康に召し抱えられる。
頼房が常陸国下妻10万石に配されるに伴い、
家老に任じられる。
[後に松岡藩主]
■光圀は、水戸藩家老三木邸にて誕生、育てられた。
三木啓次郎は、松下電器創業時に松下幸之助を援助した。
松下幸之助のお礼として、
テレビドラマ「水戸黄門」は松下電器の提供。
■水戸藩は佐竹の文化を廃棄した。
というひともいる。
しかし光圀は歴史・文化を大切にした。
光圀は興廃継絶こうはいけいぜつを願った。
廃すたれたるを興おこし、絶たえたるを継つぐということだった。
文化的に貴重なものは修復し後世に残すと考え実行した。
■東海村の願船寺について。
真宗大谷派。
願泉寺として開創。
光圀が願船寺にきたとき泉でなく船がよいといって名前を変更させた。
[嗚呼無明の大夜には無漏の恵燈あり
難度の苦界には四十八の願船あり 
然れば願泉寺の泉の字をあらためて船という字を書くべし」と命じて,
願船寺となったと伝えられる。
境内には「泥涅泉」と光圀命名による泉がある]
■大日本史の編纂の方針。
出典註記と史料蒐集について光圀より指示が出ている。
●出典註記。
本文の一記事毎に史料の出典を註し、
考証の理由とか結果についてもこれを記す。
「大日本史」をつくることは難しい。
将来優れた人があらわれ
日本の歴史を編修する時に役立つものをつくる。
一つ一つの事についてもすぐに決断しない。
独断で結論をださない。
それぞれの事について、根拠とした書物を註に記す。
[決断はのちのひとにまかせる]
●史料蒐集
出典註記をするために、史料の蒐集をおこなった。
人を遠国他郷に遣わして、古記録などを探した。
佐々介三郎が活躍した。
●水戸市六反田の 六地蔵寺(六蔵寺)の典籍。
六地蔵寺に恵範えはん上人が戦国時代に集めた多くの書物がある。
光圀は六地蔵寺の史料が大切なものと考えた。
文書保存に注力した。
大事な書物に補修をおこなった。
大事な書物の副本を作った。
法宝蔵という書庫を庫裏くりから離して建てた。
後に法宝蔵から慶長小判30枚が見つかった。
小判30枚は、光圀が将来の修理のために瓶かめに入れておいた。
と考えられている。
●那珂市常福寺 国指定重要文化財 拾遺古徳伝絵。
法然上人の行状を説いた伝絵
親鸞聖人の弟子覚如上人が
常陸門徒のためにかいた。
石山合戦の功績として那珂市上宮寺にあった。
光圀が浄土宗の寺にあるのがよいと考え、
上宮寺から常福寺に移した。