19/10/20 水戸市常磐神社 社務所別館
第36回 水戸学講座 第3講
「書簡から見る水戸黄門」義公と千寿会
講師 宮田正彦先生。
水戸駅から常磐神社への途中。千波湖。
■義公と小城おぎ鍋島藩主鍋島元武なべしまもとたけの
書簡が多く残っている。
■鍋島元武について。
小城鍋島3代藩主。
小城鍋島藩。7万3千石。
柳の間詰め。大名格。
佐賀市。
1662年.元武は江戸で生まれる。
1679年.家督を継ぐ。
1693年から1709年江戸城奥詰の職を務める。
5代将軍徳川綱吉の信用を得る。
1713年.52歳で死去。
水戸駅から常磐神社への途中。セイタカアワダチソウ。
■書簡。
5年間 54通。
光圀が鍋島元武に宛てた書翰が徳川光圀書翰集にある。
自筆書簡が53通,右筆書簡が1通,
書簡の署名は、梅里宰相・光圀が多い。
宰相は,中納言になる前の職位。参議。
光圀、57歳〜63歳頃までの書簡。
貞享じょうきょう元年1684年から元禄3年1690年頃。
■なぜ若い鍋島元武と書簡のやりとりをしたか。
光圀と鍋島家では
母が小川坊城ほうじょう家の出身で姉妹。
いとこ。
水戸藩はなにかと長崎に関係があった。
光圀が鍋島家を助けたことがある。
島原の乱で鍋島家家臣らが抜け駆けの軍律違反をした。
幕府から蟄居を命ぜられたが、光圀が鍋島家を助けた。
光圀は島原の乱は戦ではなく地方の事件とした。
軍律違反をうやむやにした。
鍋島藩主は、光圀の恩を決して忘れてはいけないとした。
■書簡の内容
光圀60才にして悠然な境地の書簡。
生類憐みの令をやめさせようにしているように思える。
千寿会の目的は不明。
光圀を中心に20名ほどが集まった会。
くだけた文章が随所にみられる。
文中のいたるところに洒落や風刺がある。
文章は高慢なところがなく、丁寧な文。
水戸駅から常磐神社への途中。??。
■水戸黄門不思議のひとつ。
なぜか名前の字を変えている。
国→國→圀
圀は則天文字。
則天武后は、自分の権威を示すため新たな文字をつくった。
■書簡の宛名
同一人物に対していろいろな名前を使用している。
喜州様・鍋島紀もし様・喜之守様・荒川主平様など。