19/10/4 那珂市文化財愛護協会公開研修会 
水戸藩時代の那珂地方。
那珂市中央公民館。
野内正美先生。
■はじめに。
家康の5子武田信吉・10子徳川頼宣が
水戸地方を支配。
1609年11子徳川頼房が水戸藩をひらく。
旧武田氏・旧今川氏・旧北条氏の
家臣などが集まり水戸藩を形成。
[曲りや コムラサキ]

■01佐竹氏時代の那珂地方知行割。
●1595年
秀吉が佐竹義宣に54万5800石の所領を安堵。
●佐竹義宣が東義久に那珂地方に、
ふく田・酒出・杉・よこ堀・
こうのす・いいだ・五だい・
とりはみ・中だい・すがや・堤
5757余石を与える。
●東義久が、
屋吹尾張守に70石酒出之地を与える。
●義宣は
小貫伊賀に戸村2770石余の管理を任せる。
小野崎千代房に、
那賀郡之内石神之内に900石を与える。
真崎彦六に、
那賀郡之内田谷之内に800石を与える。
大縄讃岐守に、
那賀郡之東木倉之内に150石、
那賀郡之たかば預り分を加えて
都合697石余を与える。

■02佐竹氏の転封に伴い備前検地。
●1602年8月〜12月。徳川家康が検地を実施。
●1602年11月
水戸城主に家康の5子武田信吉・15万石。
芦沢伊賀は、東木倉村他1000石。
●1603年9月。
武田信吉病死・
家康の10子徳川頼宣が城主・
20万石。
●1609年12月
家康の11子徳川頼房が城主・25万石。

■03頼房の時代。1609〜1661年。53年間。
●水戸藩は家康の意思で新たに作った藩。
漸次に諸士を召し抱えた。
譜代の家臣はいない。
●頼房は水戸藩江戸邸に住む。
国元の城代・家老・奉行に指図し藩政を執行。
●寛永期1624〜1643年
水戸城修築・城下町建設・
領内総検地・掟発布・商業振興・
産業振興・交通運輸施設・
用水普請・新田開発を実施。
●藩主頼房の国入り回数は11回。
10月に水戸にきて12月に江戸に帰るのが基本。
●頼房の家臣。
附家老中山新吉・その子中山信正。
老中。伊藤玄蕃・三木仁兵衛。
城代。芦沢伊賀信重。
奉行。望月五郎左衛門恒隆。

●1a1641年
藩で全領検地を実施。
1月〜9月に実施。
●検地前29万2000石。
検地後36万9000石。
●増えた理由。
徹底的な隠田摘発。
検地竿を1間あたり6尺3寸から6尺に変更。
●1641年・1642年大凶作。
寛永の大飢饉。
●藩は農民を救済せず。
藩は年貢を増やす。
多くの農家が潰れる。
農村は荒廃。

●2a1644年・寛永検地に基づき
全領の知行割替えを行う。
東木倉村271石余。
鴻巣村838石余。
中台村953石余。

●3a水田の干ばつ対策。
久慈川取水の岩崎江(用水)と、
那珂川取水の小場江、溜池。
●岩崎江。18ケ村。
1648着工・1650年通水竣工。
岩崎・上大賀・久慈岡・上根本・
横瀬・部垂・宇留野・前小屋・
下根本・上岩瀬・下村田・
下岩瀬・下大賀・瓜連・中岡・
磯崎・門部・北酒出。
●木場江。24ケ村。
1656年着工・1658年通水。
小場・向山・下江戸・大内・
田崎・戸・上国井・下国井・
田谷・上河内・西木倉・中河内・
東木倉・西蓮寺・中台。青柳・
津田・市毛・枝川・堀口・
勝倉・武田・金上・三反田。
●4a水戸藩の新田開発の奨励。
●1644〜1651年。開発上昇。
●1655〜1672年。開発最盛期。
●5a水戸藩の郡制と農村の組織。
●郡制。
●1641年。3郡。南・北・中。
●1751年 4郡。武茂・南・太田・松岡。
●1802年 11郡。
大里(中岡・門部・北酒出・南酒出)。
小菅。
石神(堤・杉・横堀・向山・額田・本米崎)。
安良川。
紅葉。
八田(下江戸)。
増井。
鷲子。
大子。
常葉(戸・田崎・大内・中台・
東木倉・西木倉・豊喰・飯田・
戸崎・鴻巣・福田・後台・菅谷)。
浜田。
●郡奉行。代官。
手代。立山係・歩付係・刑罪願書。
郷中の取締・年貢徴収・田畑耕作奨励・
人別改め・山林用水管理
●大庄屋。
●山横目。
●庄屋・組頭。
郡奉行より年貢割付帳を受け取る。
村民に年貢高を割当徴収する。
●1659年・村内農民を十人組編成。
年貢納入・犯罪の共同責任を負う。
1803年・五人組となる。
●従属民。譜代下人・譜代下女。
17世紀末より小農として自立。
●郡奉行から庄屋への指示。
文書で行われる。
各村を回し伝えられる。
回す文書は御用留に写される。
●年貢。
郡役所より各村に年貢割付帳が渡される。
村役人は年貢小割付帳を作成。
●土地台帳として検地帳・名寄帳を作成。
●戸籍簿として人別帳を作成。
●村レベルの粉争・訴訟。
山横目が仲介した。
●6a貢租制度。
正祖・
雑税(夫金・舫もやい金・縄藁代・浮役金)・
夫役。
●田方の年貢米。
石高に年貢率をかけ、付加税を加え算出。
籾で納める。
●畑方の代方金。
金で納める。
●夫金。
藩が江戸屋敷などで領内の農民を
呼び寄せ人夫として使う。
人夫での作業代を金で納める。
●舫もやい金。
江戸詰めの武士が、
夫金を他の武士の知行地から出させた金。
●縄藁代。
石高に応じて縄・藁を納める。
金の場合、縄1房・藁1束とも銭5文。
●浮役。
農業以外の租税。
野銭・紙船役・河岸役銭・
漆役・石切役銭・火打石運上・
鮭鱒運上・竹木払・鮎運上・
馬売買役・湯役銭。

●夫役。
労役負担。
100石につき人夫4人・馬2匹。
●指銭。
村でかかる費用にあてる。
庄屋・組頭役料・諸役人泊り賄代・
人足日雇銭・村役人出張宿賃小遣・定使給。
■4光圀の時代。
1661〜1690年。
藩主になると重臣の整理をする。
付家老中山氏1万5000石・
家老山野辺氏1万石・
鈴木石見守5000石。
水戸藩家臣の序列をきめる。
●日帳役(後の奥右筆)を置く。
日帳役は強大な権力をもつ。
1665年・寺社奉行の設置。
1667年。奉行の半数を江戸に移す。
寺社改革。
1696年・寺社奉行の廃止。
寺院から人別改の権限を奪う。
●藩主在任中11回就藩。
水戸城滞在・領内巡視。
●寺院整理断行。
●民政。
浮役の免除。
不作の年の年貢軽減・町人・
百姓へ生活資金や種籾の貸し出し。
身寄りのない老人・孤児・
男やもめ・女やもめ・廃疾者の救済。
風俗の粛正。
善行者・孝行子・節婦の表彰。
稗倉を建てる。
1688年・紙の専売制の創始。
多賀郡大能の馬の放牧。
木葉下金山など鉱山の採掘。
高利貸しの取り締り、
貸付利子を一割以下に公定する。
1690年・検見制度改革、
検見を庄屋・組頭に一任。
●光圀の治世初期。
年貢を毎年引き上げる。
新田開発がさかん。
1668年以降。度々飢饉になる。
1680以降。農村荒廃が全領規模となる。
長年の重い年貢が農村を疲弊させた。
新田開発から既成田畑の充実へと方針転換。
新田開発は水源の山を荒らした。
年貢を減らし農業推進しようとした。
藩の財政難は継続。
農民と藩の関係は悪化をたどる。
■5 3代綱條つなえだ 
1690〜1718年。
1688年・罹災した江戸藩邸再建のため
幕府から3万両拝借。
1670年・綱條藩主になる。
度重なる凶作・年貢負担の過重・
農村の疲弊により深刻な財政危機。
藩は・倹約の徹底・藩士からの借り上げ・
領民から御用金調達。
1690年・領内の富商・富農153人から
1万6338両を調達。
1704年・江戸藩邸普請費用として
188人から1827両を調達。
菅谷村勘兵衛が元禄に110両、宝永に10両・
後台村市郎左衛門から40両・
額田村市兵衛が60両・額田村市衛門が33両・
額田村善八が33両・額田村伝衛門が14両を上納する。
1701年・安田宗貞・清水清信を招く。
安田には藩札の発行・清水には勧農や治水を担当。
1706年・松浪勘十郎を招き改革を一任。
●諸役所の整理統合。
新田開発。
勘十郎堀・太平洋から涸沼・北浦に至る運河建設。
1708年・3000人の農民が水戸藩江戸屋敷に強訴。
1709年・松浪勘十郎罷免・改革中止。
■宗尭むねたか
1718〜1730年。
●質素倹約。
幕府・諸侯との贈答なし。
食膳は二汁七菜から一汁三菜に。
26歳で死去。

■宗翰むねもと
1730〜1766年。
3歳で藩主になる。
1745年・諸役人の冗費整理・公務精励の改革令。
1749年・幕府から改革を命じられる。
1750年・奉行を若年寄と改称。
寺社奉行・郡代を置く
郡代→郡奉行・代官→勧農役→庄屋→一般農民。
1751年・郡奉行を全員変更。
1752年・代官を全員変更。
1752年・日帳役を奥右筆に改称。
●改革諸政策。
農村の新興、諸産業の開発。
諸士生活難の救済と士風の刷新、文武奨励、倹約。
行政の改革、綱紀の粛正。
紅葉運河の掘削。
一般風俗、社寺の粛正。
●改革は一応成果をだした。
藩財政が安定したことは、
農民から多くの年貢を
とりたてたことを意味する。
■治保はるもり。
1766〜1805年。
1768年・煙草会所の設立。
1768年・太田で鋳銭事業を開始。
1769年・養蚕業の奨励。
1770年・こんにゃく玉会所の設立。
1771年・太田で鋳銭座うちこわし。。
1774年・鋳銭反対一揆。
1777年・鋳銭座を閉鎖。
●1773年・幕府から再度の財政立て直し指令。
勧農の方針。
しかし農村荒廃・藩財政も悪化する。
1783年・天明の大飢饉。
1785年・凶作。
1786年・大水害。水戸下町水位3.6m。
1789年・武茂郡奉行皆川敬純。
人口減少・荒地増加を述べ、
困窮村救済として富民から
御用金を上納させるよう提案。
1799年・小宮山楓軒が郡奉行に任命される。
南郡の紅葉村に20年間滞在。
江戸出しの一大薪炭生産地にする。
1802年。11郡に改編する。
郡奉行の任地在勤制。
農村救済・農村支配の強化。

■10治保はるもり。
1766〜1805年。
1804〜1818年。
庄屋などが商業活動を行うようになる。
一般農民との対立を深める。
藩財政窮乏・異国船出没。
飢饉後の荒廃農村復興をはかろうとした。
●農政論。
藤田幽谷・勧農或問。自給自足的な農村に戻す。
坂場流謙・国用秘録。商品経済を発展させる。
1806年・青山延于の意見書。
良い政治には人材が必要。教育を盛んにする。
1807年・藤田幽谷が彰考館総裁。
●1809年3月〜1810年4月。
藩主水戸在住。
領内巡視・間引対策・農村振興・
文武奨励・軍備拡充・士風刷新・家中諸士救済。
1810年・軍事訓練実。
1810年12月・軍政改革。
■1816年・斉脩なりのぶが藩主になる。
病弱で藩政は重臣が実施。
●1821年・飯田村の願書。
村で潰れ・断絶が多発。
上納について藩の御救いをお願いしている。
■1829年・斉昭が藩主になる。
1829〜1844年。
重臣の刷新・改革派を重用。
側右筆を新設。
●大改革の実行。
1833年・1836年・1838年に大飢饉。
備蓄米・稗・5800石の米買付しにより救民した。
水戸藩は餓死者ゼロの成果をあげた。
1840年・斉昭帰国。
中下士層出身の改革派が、藩政府の中枢となる。
●1840〜1842年。検地を実施。
検地は年貢を増やすためでなく、
公正な年貢を賦課し、
農村を復興させるために実施された。
●弘道館建設。
水戸学の理念にもとづく藩士のための学校。
1841年8月・仮開館式。
●1840年より毎年軍事演習を実施。
●敬神廃仏の宗教弾圧を断行。
神道式の葬祭式を公布。
人別を神官に委ねる氏子帳の作成を命じる。
1842年・執政結城朝道のもと、
僧侶らは仏教弾圧の異議を幕府に訴えた。
1844年。斉昭は隠居謹慎。
慶篤水戸藩主となる。
執政戸田忠敞・側用人藤田東湖・
寺社奉行今井惟典は蟄居。
■13幕末の水戸藩。
●改革派の復権。
1853年・ペリー艦隊来航。
欧米列強に備えてきた水戸改革派の復活。
斉昭幕府参与。
戸田忠敞・藤田東湖復活。
●農兵採用。
武士は経済的に破たん。弱体化した。
中世のように農村に土着させる考えがでた。
1836年・家老山野辺氏が助川に築城。
土着させた。
1955年・農兵取立てが行われる。
農兵には鉄砲・大小刀が与えられた。
教育機関として郷校が拡充・増設された。
●経済政策。
1853年・蒟蒻の国会所の設立を布達。
会所は大子と袋田に置かれた。
1855年・紙の国会所の設立を布達。
会所は緒川村の小舟に置かれた。
●違勅条約調印。
1855年・安政の大地震。
戸田忠敞と藤田東湖死亡。
1856年・元家老結城寅寿らの結城派を処罰。
額田北郷寺門登一郎、江戸水戸御構え追放処分。
1858年・井伊直弼はアメリカと違勅条約調印。
●大獄と密勅。
1858年6月・斉昭・慶篤が幕閣の責任追及。
1858年7月・斉昭蟄居・慶篤・慶喜を登城停止処分。
1858年8月・朝廷より水戸藩に密勅。
諸藩と協力し幕政改革を実施せよ。
幕府は家老岡田徳至・大場景淑・武田正生を隠居・
家老安島信立・尾崎為貴を左遷するよう要求。
5月27日判決くだる。
斉昭を永蟄居・安島信立を切腹・
茅根泰死罪・鵜飼知信を死罪・
鵜飼知明を獄門とした。
1858年9月。水戸藩領民・小金駅(松戸市)に屯集。
1859年5月・水戸藩領民・小金駅(松戸市)に屯集。
那珂地方からも神官をはじめ多数の農民が参加。
●勅書返納問題と桜田門外の変。
1859年11月・幕府は勅書返納の勅命を得た。
1859年12月・幕府は水戸藩に勅書をだすよう命じた。
水戸藩は勅書を直接朝廷に返すと答えた。
1860年3月・水戸藩士を中心として
桜田門外に井伊直弼を襲撃。
井伊直弼は死亡。
1860年8月・斉昭死去。
1861年5月・英国公使館襲撃の東禅寺事件。
1862年1月・老中安藤信正を襲った坂下門外の変。
これらに参加するものが相次いだ。
●攘夷国是。
1862年・一橋慶喜将軍後見職になる。
1862年11月。激派の先の家老
岡田徳至・大場景淑・武田正生を執政にする。
1863年3月・将軍家茂上洛。
慶篤将軍に従い上洛。
那珂地方からは
菅谷村小宅三衛門ほか多数随行し本圀寺に入る。
●尊攘派の横暴と挙兵。
1864年3月・
田丸稲之衛門め藤田小四郎ら筑波山に挙兵。
●水戸藩の政争と内乱。
弘道館の諸生が立ち上がる。
1864年5月・
諸生は、保守派城代朝比奈弥太郎・
市川三左衛門・佐藤図書らに率いられ
水戸から江戸にいく。
尊攘派の執政を罷免。
朝比奈・市川・佐藤が執政になる。
1864年6月。幕府が筑波勢の追討軍を出す。
この軍に諸生も入る。市川が率いる。
1864年6月。下妻郊外高道祖の戦で筑波勢勝利。
水戸の攘夷派江戸に行く。
朝比奈・佐藤は罷免。
江戸から水戸にもどる。
途中敗れた市川軍と合流。
水戸城に入る。
水戸城を掌握する。
幕府は、宍戸藩主松平頼徳に水戸藩の鎮静化を命じる。
1864年7月。幕府は筑波勢追討のため
田沼意尊を出す。
宍戸藩主松平頼徳の軍が水戸に着く。
総勢5000人。大発勢という。
水戸城に入れず那珂湊にいく。
1864年9月。
田沼意尊水戸に入り弘道館を本営とする。
松平頼徳は幕営に赴き幕府軍監と会見。
1864年10月。松平頼徳切腹させられる。
松平頼徳の榊原新左衛門以下1154名は
常澄村長福寺に移される。
1865年4月。榊原ら43名切腹ないし死罪・
427名江戸の獄舎送り。
●1864年10月。
武田耕雲齋の筑波勢が那珂湊を脱出。
11月に大子から西上へ。
天狗党と呼ばれる。
1864年12月。
頼った一橋慶喜指揮下の金沢藩に敦賀で降伏。
1865年2月。敦賀で処刑される。
死罪352人・
流罪武田金次郎他130余人・
構いなし追放187人・
水戸藩農民で水戸藩に引渡し130人。
[武田金次郎は武田耕雲齋の孫]
●1866年12月・一橋慶喜将軍になる。
1867年10月・大政奉還。
1867年12月・王制復古の大号令。
1868年1月・鳥羽伏見の戦い。
1868年3月・市川ら諸生派、会津方面に脱走。
1868年10月・諸生派水戸に帰る。
弘道館で天狗党と戦う。
諸生派は弘道館を脱走し、
松山村(千葉県匝瑳市)で壊滅。


■おわりに。「茨城の史話」瀬谷義彦より。
水戸藩の党争で、
最後の勝者は天狗派の士民。
その主体は、
1862年2月・「除奸反正」の勅書を奉じ、
京都から江戸藩邸に戻った本圀寺勢。
1868年3月市川ら五百余人が会津に脱走。
1868年5月・武田金次郎が同士百数十名と、
威風堂々と水戸に戻る。
市川派に縁故のある人々を惨殺した。