19/9/15 那珂市瓜連 水戸・歴史に学ぶ会講演会
安政の大地震で倒れた水戸の両田
藤田東湖と戸田忠敬ただたか
仲田昭一先生
■戸田忠敬父子。
●戸田銀次郎忠敞ただあき。[戸田忠敬]
1804~1855年。
父・戸田三衛門忠之。
母・安島美遠。 
妻・千勢。千勢の墓銘は会沢正志斎。

●戸田銀次郎忠則。
1829~1865年。
父・戸田銀次郎忠敞。
母・千勢。

●安島信立・帯刀。
1829~1859年。
戸田忠敞の弟。
安島家に養子となる。
斉昭(敬三郎)擁立に奔走。
1844年・斉昭雪冤に奔走。
1858年・斉昭譴責に際し家老[として]、藩主義篤を補佐。
1859年戊午の密勅降下に関与との疑いで切腹。
辞世の句。
玉の緒の 絶ともよしや わが君の
かげのまもりと ならんと思へば


■故執政戸田君の墓碑。 [酒門共有墓地]
彰考館編修総裁臣豊田亮奉命撰並書。
我が執政戸田君の逝くや、
景山公侍臣原田成祐に謂て曰く、
嗟乎、忠敞忠を尽くす、
・・・
銘に曰く
天哲人を生む 豈に偶爾と日んや 
両公を賛佐し 頽靡を挽回す
量大容るる有り 衝平倚無く
忠愛国を体す 朝夕蹇々たり
材を用い事を立てる 君を繇し善を好み
吟哦諷詠 興また浅からず
名家品藻 鼎鉉に堪ゆと称す
その胡弔わず 奄忽として泉に帰する
万人嘆惜 我れ英賢を喪う
生有れば必ず没する 敦えてよく避くるを得
令子克肖 謂う宜しく意を慰むべしと
墓墜に旌表し 君公の錫
史臣銘を作り 以て寵澤を紀し
万年堕ちる無し 此の篆額を視よ
■戸田忠敞略年譜。
●1804年・誕生。斉昭5歳。
●1806年・藤田東湖誕生。
●1807年・父忠之家督相続。
●1812年・父忠之・浜田郡奉行。
弟弥次郎誕生・1836年に安島家を相続。
●1813年・父忠之死去・
忠敞家督を相続小普請組・10歳200石。
●1820年・忠敞大番組。
●1824年・忠敞大番組頭・21歳。
●1825年・幕府異国船打払令。
●1828年・忠敞目付。
●1829年・斉昭藩主になる。
●1830年・1月忠敞留守居同心頭列へ降格・
3月忠敞江戸通事。
●1832年・藤田東湖江戸通事・27歳。
●1833年・3月斉昭帰国・忠敞扈従。
丹下原に桜野牧(1835年竣工)・
通事忠敞も牧場掛けの一人となる。
●1835年・4月・忠敞御鷹掛通事より
格式旗奉行上座江戸用人見習(役料100石)
6月・東湖・江戸調役。
8月・忠敞・格式用人列側用人見習。
●1836年・弟弥次郎25歳安島家を継ぐ。300石。
山野辺義観海防惣司となって助川へ。
●1838年・1月・長子忠則、
藩主の長子鶴千代(後の慶篤)御相手となる。
3月・江戸城西丸火災・
斉昭は用材の幕府献上に忠敞に命じる。
将軍・時服白金を下賜。
東湖・領内検地係となり
槍奉行格可増50石(250石に)
●1839年・11月・忠敞若年寄(参政)
与力同心を附せられる
(足高・役料共に200石)
武田耕雲齋参政となる。
12月・忠敞郷村懸・鷹方馬方支配を兼務。
明年、斉昭下国の沙汰あるに対し反対の
執政藤田主書・中村与右衛門を退隠・
岡崎・額田らを罰する。
東湖辞職し史館の編集に。
●1840年1月・斉昭下国。
1月・結城寅寿・小姓頭。
2月・執政渡辺寅・参政戸田忠敞(学校造営掛)・
側用人藤田東湖に弘道館掛400石。
青山延于・会沢正志斎を教授頭取、
杉山忠亮・青山延光を教授。
3月・追鳥狩・1841~1843年にも実施全4回。
8月・戸田忠敞、大寄合頭上座用達(執政800石)
9月。結城寅寿・小姓頭・若年寄(参政)
武田耕雲斎・若年寄。
10月・戸田忠敞・学校造営掛惣司。
常平倉。
●1841年8月・弘道館仮開館・本開館は1857年8月。
東湖100石可増。
結城寅寿・勝手改正掛。
●1842年・執政戸田忠敞・側用人藤田東湖。
3月・結城寅寿・大寄合頭上座用達(執政)。
武田耕雲斎・大番頭。
領内寺院破派の令。
7月・偕楽園開園。
幕府薪水給与令。
[外国船に飲料水・燃料の給与を認める法令]
●1843年3月・斉昭参府につき忠敞扈従し江戸にて将軍家慶に謁す。
4月・将軍日光社参。
斉昭供奉し東湖・安島扈従、忠敞は江戸留守居。
5月・将軍斉昭を賞し忠敞・東湖ら謁見を許す。
6月・斉昭水戸へ帰国。
検地の総監を命じられる。
検地は1837~1844年に亘る。
領内の僧侶ら斉昭を怨嗟・江戸へ大運動。
●1844年・検地終了。
1月・忠敞200石加増・1000石。御内用命で江戸へ。
4月13日・斉昭幕府より7ケ条の詰問。
忠敞弁明書差出。
4月18日・老中奉書により斉昭江戸召還。
5月2日・斉昭水戸出発。東湖・寅寿扈従
5月5日・斉昭参府。
5月6日・斉昭致仕謹慎駒込邸へ。
藩主義篤になる。
中山信守・山野辺義観・興津能登守ら差控。
鵜殿平八・忠敞・東湖・今井推典は蟄居。
小石川長屋に謹慎。
8月・結城寅寿・執政辞任聴許。
10月・武田・吉成ら斉昭の雪冤運動。
11月・寅寿の表家老職免じ水戸へ。
11月・斉昭の謹慎解かれるも藩政関与ならず。
●1845年2月・忠敞・東湖小梅屋敷長屋へ移り幽閉。
結城寅寿大寄合頭列。
谷田部雲八・尾羽平蔵ら奥右筆。
執政・太田資春・鈴木重矩・朝比奈弥太郎ら。
●1846年12月・蟄居免。
●1847年1月・忠敞水戸自宅・東湖水戸竹熊へ宅慎。
9月・七郎麿一橋家相続。
10月・忠敞隠居慎み忠則継嗣。
10月・結城寅寿の禄を半減謹み隠居。
●1852年6月・斉昭朝廷に地球儀を献上。
この年、結城派の執政鈴木石見守・太田丹波守・興津蔵人・
若年寄内藤藤一郎・右筆頭取尾羽平蔵・谷田部雲八ら罷免。
執政に岡田新太郎・大場弥右衛門・白井織部ら。
海防総司に山野辺義観。
若年寄に杉浦羔次郎・武田耕雲斎。
側用人に近藤次郎左衛門。
小姓頭に会沢正志斎・青山量介。
祐筆頭取に高橋多一郎・原田兵介・矢野唯之允ら。
●1853年・斉昭・小石川邸に移る。
7月3日・斉昭海防参与。
7月20日・忠敞・東湖定江戸勤務海防御用掛。
10月16日・寅寿・長倉松平将監屋敷へ幽閉。
11月9日・忠敞肩衣・袴を拝領。
11月18日・忠敞慶篤より忠太夫の三文字をうける。
東湖は誠之進と改名。

●1854年・斉昭幕府の海防参与を辞す。
6月6日・忠敞は大寄合頭上座・定江戸用達。
東湖は側用人兼務。
11月・斉昭琵琶1面を製し関白鷹司政通を経て朝廷に献上。
●1855年2月・忠敞は用達再勤(役料とも1300石)
10月2日・江戸大地震。
圧死25039人・水戸藩小石川邸内死者46人・負傷84人。
忠敞・東湖死亡。水戸の両田逝く。
斉昭の追悼は篤く水戸に帰り葬葬儀をおこなった。
斉昭は墓碑に題してその功労を表彰。
忠敞の碑に対して「旌忠」と題して
豊田天功に命じて撰文せしむ。。
東湖の碑に対して「表誠」と題して
青山延光に命じて撰文せしむ。
10月25日・忠敞の妻千勢歿す。震災の負傷が原因。
●1856年4月・小姓頭横山金蔵・大森金八郎ら蟄居。
医師十河祐元斬罪。
4月25日・結城寅寿死罪。
安島帯刀は側用人。
●1858年4月23日・井伊直弼大老就任。
6月19日・日米修好通商条約無勅調印。
7月5日・斉昭謹慎・
尾張徳川慶恕・越前松平慶永ら隠居謹慎処分。
7月10日・安島帯刀は執政。
7月20・戸田忠則は側用人兼若年寄。
8月8日・「戊午の密勅」水戸藩に。
8月晦日・幕命で岡田信濃守・大場弥右衛門・
武田耕雲斎の三家老隠居。
安島帯刀・尾崎豊後は表家老。
●1859年3月・忠則は学校掛。
5月20日・斉昭諭書を以て民心を鎮撫・
小金屯集勢を退散。
8月3日・忠則小梅邸に出張・
慶篤の鎮撫諭書で抗議南上の有志土民に退散を命じる。
8月27日・
斉昭に水戸永蟄居・慶篤に差控・慶喜に隠居謹慎・
幕臣一橋派岩瀬忠震・永井尚志に謹慎・
川路伊豫之介・鵜飼吉左衛門に死罪・
鵜飼幸吉に獄門・鮎澤伊太夫に遠島。
9月5日・忠則は御国勝手掛。
9月14日・梅田雲浜は獄中死。
10月7日・橋本左内・頼三樹三郎は死罪。
10月27日・吉田松陰は死罪。
12月16日・幕府は水戸藩に勅書返納の朝旨を伝達。
水戸藩は朝廷へ直納をきめる。
●1800年3月3日・桜田門外の変。
3月6日・忠則は用達。
8月15日・斉昭死去。
●1861年2月・忠則に梅香屋敷を賜る。
●1862年3月・忠則は大日本史編纂懸。
11月・幕命で安政の大獄・桜田門外の変などの処罰者赦免。
東禅寺事件・坂下門外の変により
白井久胤・太田資忠ら鎮派退陣。
岡田徳至・大場景淑・武田耕雲斎・杉浦羔二郎ら執政に。
●1863年1月・武田耕雲斎水戸藩領内の攘夷派運動鎮撫にあたる。
3月27日・藤田小四郎・田丸稲之衛門ら筑波山に拠る。
4月・忠則用達停止。
5月初・岩船山に集合し筑波山勢の鎮撫へ。
5月28日・武田耕雲斎・奥津蔵人は隠居謹慎。
中山直正隠居・目付山国共昌蟄居。
6月・忠則用達再勤。
江戸執政は市川三左衛門・佐藤図書・朝比奈泰尚。
6月14日・水戸藩は市川に筑波勢追討を命ずる。
6月17日・幕府は歩兵頭北条新太郎に筑波勢追討を命ずる。
7月14日・幕府は若年寄田沼意尊に筑波勢追討を命ずる。

■吉田令世のりよ著・水のひとすじ。
斉昭の徳を称えたもの。反対派を攻撃すること多し。
忠敞はこの著が藩内反対派の怒りをかうことを配慮。
斉昭に上言し出版中止に務めた。

■ふもとの道のはし書。
忠敞が小石川長屋に蟄居中に書いた。
かならずあさまなるををかしと思わず、
学問のひまあるにはこの文をも親しく読み
心に覚えたくおもゆべし。
・にごり江に やどれど澄る 月影は
よよに曇らぬ 鏡とぞしれ
・秋の夜の 澄ぬる月を しるべにて
ふみなまよいぞ 物の部の道


●先祖甚三郎重政参州二連木の
城主戸田丹波守藤原政光の三男・・・
榊原康政付となる(知行500石)・・・
1624年頼房に仕える・・・
重政より10代目忠敞。
斉昭公にはながとせあさからぬご恩を蒙り、
数々の官を経て不肖の身にあれど、
去りにし年執政をも命ぜらるべきのよし
・・・夜に日に愚かながらも忠をはげみ
仕え奉るべくと思いけれど、
心ならねばと自ら述懐のこし折れ浮かびければ、
書して奉る。
・筑波山 登る力も あらぬ身は 
路はずかしみ ふもとをぞ思う
・物の部(武士)の 道しふみなば 登るとて
何はずかしき ことのあらなむ

それよし五とせを過ぎぬ、禄も千石までぞ賜りける。
・・・
将軍家の御制度にたがうとて、
君臣とも重きおんとがめを蒙りける、
折しも我は公事にて江戸にありければ
母妻子にもはなれしまま旅の官舎ぞ慎みとなりぬ。
(遺言)
●質素倹約に努めよ・聖賢名臣の言行に習え。
●学問をせよ、学問は己の身を治める為なり。
●ひろく交遊するなかにも親友・心友を選べ。
●上役に成りたりとも下を卑しむことなかれ、
上役は下役の過ちを補い表沙汰にする事無く
責任を取ること肝要なり。
●文武は両輪の如し、必ず怠るべからず。
●役職を承りてはいかなるものと雖も必ず従え、
嫉妬心こそ身を誤るものなり。
●その人、その任にあらざる人物と思っても、
上下の関係は正しくし、礼儀を尽くせ。
●克己心を忘れず、君父友朋への義利・恩を失うべからず。

■扶桑歴代略覧。
(弘化・嘉永の稿本、5冊。
1884年4月19日水戸下市大火災の時焼失)
[弘化1845~1848年・嘉永1848~1855年]
孫忠正誌(仮目次)
●地形要地の弁。
日本国東西南北の地形を勘案して都市計画を立てるべし。
●天道是非の件、武器変革の件。
時代によって武器の変容はある。
平安の時代と雖もその変化に適切に対応すべし。
●武家の始め土着の弁。
戦なき世が続き武士は奢侈軟弱な生活に陥っている。
実際に土着させることは難しい問題ではあるが、
本来半農半兵の姿を想起しつつ生活に励むこと。
また、海岸防備のためにも、その要地には土着させるべきである。
●外寇海防の件。
鎖国と雖も海浜に異国船の接近あり、
単に打ち払うのみでなく
状況を適切に把握して対応すべきである。
●本朝治乱変革。
●皇朝時代興廃略説。

■戸田孺人岡野氏墓碑銘。
会沢正志斎撰文。
●孺人岡野氏、初め梅と称し、千勢と改む、
留守居物頭荘五郎行従の女なり、母は島村氏、
孺人、文政中忠太夫戸田府君に帰す、
六男二女あり、・・・・
●哀公の疾病、・・・・
孺人適ま忠則を産む、蓐在り、未だ起日ならず、
起整し旅装を飾る、鯣を挙げこれに餞して曰く、
君国難に赴く、当に心を尽くして周旋すべし、
閫内はすなわち妾と姑氏と謹んでこれを守らん、
家事を以て心を累することなかれ、
府君遂に往く、事定まると聞きて帰る。
●甲辰の難、府君江戸に在り、小梅の別野に幽す、
・・・
家君政を輔け、天下のために尽力す、
反って幕府の疑う所と為す、
冤柱に遇うと雖も、心に愧ずるなし、
他日汝輩幸いに門を出るを得ば、
文学を務め、武技を講じ、
国に忠じて以て父志を継がん、
是に於いて日夜勉めて姑氏を慰め、諸子を勧励す、
閨門雍睦、人間言無し、既にして府君赦されて家に還る、・・・・。
●銘に曰く、婦得既全、婉順貞固、善く夫子に事う、
言動度有り、子に義方を誨う、
姑を養うに和煦、永く天する所に従う、九原奚ぞ祔せん

■佐久間象山・書常陸帯後・藤田東湖を悼む。
水戸の藤田東湖、厄に遇うの日、
其の君の屈冤を傷み、
常陸帯二巻を著して以て其の美を称揚す
・・・・
此に至って相観ること頃刻、又時事逼迫し其平生を叙し、
而して其の著書を問うに遑あらず。
尋いで予譴を得て北に帰る。
後一年にして江都の地震で東湖死す。
偶々此書を得て而して之を読むに、
畴昔を俯仰すれば昨日の事の如し。
而して東湖は即ち復見るべからず。
因りて大息流涕、為に其の後に書す。
丁日(安政4年)春月、象山、平敬。