19/9/7 ひたちなか市 ひたちなか市市民大学講座 
第5回「マヤ文明の発展。古典期(2)、コパン王国、パレンケ王国、など」
長谷川悦夫先生。  [ ]はhp制作者メモ。
●マヤ地域の戦い。
マヤ地域では、いろいろなや王国があった。
8世紀ころから終焉を迎える。
それまでに統一された国家はできなかった。
複数の国家が存在していた。
それらの国家では、強い国・弱い国があった。
それらの国家では、仲のよい国。敵対する国があった。
仲の良い国は、婚姻できずなを深めた。
多くの国では、争いが絶えなかった。
敵国の国王を高貴な家臣をとらえて、神の生贄にした。
日本の場合と異なり、敵国の領土を奪うことはなかった。
敵国の一族を全員殺すことはしなかった。
マヤ地域には城壁がなかった。
中国であれば、街を城壁で囲む。
日本の場合は、城を城壁で囲む。
マヤ地域では、野戦で決着をつける戦いだった。
日本の戦いの印象と異なる。
マヤ地域は、鉄がなかった。
車がなかった。
日本の戦いのような兵糧の運搬もできなかった。
マヤ地域の戦いで勝利した王は、
自国の民に王の偉大さを見せた。
戦いは、王の力の誇示をするためのものだった。
マヤ地域は、平和な日々を送って暮らしたよりも、
日々戦いの連続だった。
●文字について。
文字とは、よめること。
絵とちがう。
マヤ文字は絵のように見える。
しかし、よめる。だから文字。
テオティワカンに文字はなかった。
メキシコ盆地には、
クィクィルコ・テオティワカン・トルテカ・アステカ
のひとが暮らした。
しかし文字はなかった。
南米インカには文字はなかった。
アメリカ大陸で文字があったのはマヤ社会だけ。
文字があると過去の歴史のできごとがわかる。
テオティワカンとティカルとは1,000km離れている。
しかし、テオティワカンとティカルとは古くから関係があった。
テオティワカンのひとは文字の存在を知っていた。
しかし、テオティワカンのひとは文字を使用しなかった。
不思議。
日本は中国の文字漢字を受け入れた。
そして、ひらがら・かたかなをつくり独自の日本文字とした。
テオティワカンのひとは文字を受け入れなかった。

以下はhp制作者メモ。
[■コパンの歴史。
コパンは、古典期マヤの遺跡の中で最東南にある。
モタグア川付近は翡翠や黒曜石がとれる。
コパンには先古典期から人々が暮らしていた。
822年.最後の碑文。約400年間王朝が続いた。
初代王が神殿を建てその上に歴代王が次々と新しい神殿を建てた。
●初代王。426年。キニチ・ヤシュ・クック・モ即位。
キニチは太陽神。モはコンゴウインコの意味。
●2代キニチ・ポポル・ホル。
コパン中心部を整備し球技場を建設。
クック・モが建てたティカル様式のヤシュ神殿の上に神殿を築く。
●3代王。?
●4代王
●5代王。?
●6代王。?
●504年。7代王即位。睡蓮ジャガー。
534年。カラコルの石碑に名が刻まれる。
●8代王。?
●9代王。?
●10代王。月ジャガー。
ロサリラ神殿を建てた。
王朝創始者クック・モに捧げられた神殿。
●578年。11代王ブッ・チャン即位。
49年間治世。
●628年。12代王煙イミシュ即位。
67年間治世。
「5カトゥンを生きた王」と尊敬された。
1カトゥンが約20年。
コパンはマヤ南東部の大国として繁栄。
●695年.13代王ワシャクラフーン・ウバール・カウィール(18ウサギ)即位。
繁栄と富を背景に丸彫り彫刻を生み出す。
多くの像・建造物・球技場を築く。
738年。18ウサギはキリグア王に斬首される。
18ウサギ王の斬首はコパン王の権威を失墜させた。
●14代王。カック・ホプラフ・チャン・カウィール
コパンはいっきに沈む。
貴族たちとの合議制の政治体制になる。
●15代王。カック・イピヤフ・チャン・カウィール(煙貝王)。
●16代王。ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート(夜明けの空王)。
コパン歴代の王を刻んだ祭壇Qを置く。
16代王は初代王から王権の象徴を受け取る姿を彫る。
王権の正当性を強調した。
●ウキト・トークが17代王になろうとした。
祭壇Qを真似て16代王と向かい合う自身の姿を彫った。
他の面は未完。


■パレンケの歴史。
●431年初代王クック・パラム(トクタンの支配者)即位。
トクタンという場所から来た。トクタンが何処かは不明。
●第8代。583年。ヨールイクナル女王即位。583-604
●599年.カラクムルの侵略を受けパレンケの3守護神が奪われる。
●611年.カラクムルの侵略を受け大打撃を受ける。
●パカル1世の母サク・クック。パカル1世が即位するまで女王。
パカル1世が即位した後もしばらく若い王を補佐。
●615年.11代王。キニチ・ハナーブ・パカル1世が12歳で即位。
パレンケを復興。
●659年。サンタ・エレナの王と貴族達6人を捕虜にする。
パカル王は多くの建物を建てた。
80歳の長命を誇った。マヤ世界では長命は敬われた。

●684年12代王。キニチ・カン・バラム2世。48歳で即位。684-702。
多くの建造物を建てる。
692年.十字グループの十字の神殿・太陽の神殿をつくる。
パレンケは繁栄。
ウスマシンタ川南岸の多くの都市の優越王となる。
近隣のトニナーを攻撃し勝利。
●702年13代王キニチ・カン・ホイ・チタム2世。57歳で即位。702-711。
建築をすすめる。
711年.近隣のトニナーの攻撃を受け捕虜になる。
パレンケは衰退期を迎える。
10年間王不在の空白期間。
●14代王。721年キニチ・アーカル・モ・ナーブ3世。721-731。
パレンケの復興に力を注いだ。
貴族たちが力を持つようになっていた。
前王がトニナーの捕虜になり王の権威が低下。
●キニチ・ハナーブ・パカル2世が即位。
●パレンケも9世紀前半には放棄された。
最後の王799年即位。]