19/9/5 那珂市歴史民俗資料館歴史講演会
昭和4年陸軍特別大演習と昭和天皇の五台村御巡幸。
仲田昭一先生。
[ ]はhp制作者メモ。
■はじめに。
五台村には
吉田神社・根本正生家・それに隣接する郷士後藤家・
清水寺・水戸藩の軍事調練場の清水原がある。
昭和4年1929年・昭和天皇の御巡幸があった。
[1889年・町村制施行に伴い、
豊喰新田・東木倉村・西木倉村・後台村・
中台村が合併し五台村となる。
1955年・
菅谷町・額田村・芳野村・神崎村・戸多村・
木崎村と合併・那珂町となる。五台村廃止]
[清水寺北側一帯は清水原といった。
斉昭時代は、城外武術訓練所があった]
[根本正生家は清水洞公園近くの吉田神社の近く]

■陸軍特別大演習。
1929/11/15〜19・4日間・
陸軍特別大演習が実施される。
昭和天皇の五台村御巡幸はこの時あった。
11/14午後・天皇は茨城県庁に到着。
11/17・大演習を視察。
西山荘・太田尋常小学校を行幸。
11/18・水戸堀原練兵場で観兵式。
水戸高等学校に設けられた賜饌場で天皇陛下から食事を賜る。
11/19・霞ヶ浦海軍航空隊・鹿島神宮。
11/20・水戸地方裁判所・水戸地方専売局・弘道館。
11/21・常磐神社・好文亭。
11/21午後・皇居に還幸。

■堀原運動公園野球場に隣接し、
陸軍特別大演習記念碑が2つある。
●龍軍軍之跡碑。
陸軍大将・井上幾之介。

安蔵力之助。
●賜閲駐輩之碑。
昭和4年11月20日。
天皇龍軍を掘原練兵場に進められ、
玉歩□□に晋めさせ給う、
茨城・栃木・群馬3県の青年男女凡4万人、
御前行進陳唱して親しく閲を賜る、
寔に無上の寵愛栄にして又曠古の盛観なりき、
野人忝陪覧の栄を荷い感激葛尤なら、
爰に石を建て辞を刻し永遠に聖蹟を
伝ええんと欲すなり。
昭和5年11月 安蔵力之助。
■五台村御巡幸記事。
記録は御巡幸から7年後に
当時五台小校長黒沢哲二氏が書いた。
●永遠の記念。
昭和4年11月水戸を中心に常総の野に
陸軍特別大演習が挙行された。
畏くも聖上陛下には、
茨城県庁の大本営に行幸遊ばされ、
親しく4万余の貔貅ひきゆうを臠みそなわせ給う。
11月18日水戸高等学校賜餞場より
御還幸遊ばされた。
陛下は、直に御愛馬吹雪に御召しになる。
午後3時大本営を御出門。
万代橋を渡られ、青柳を経て、
中台並木より左折する。
いわゆる通学道路を一直線に、
学校東側道路を御通りになられ、
住宅裏へ御出る。
午後3時40分本校正面前を御通過遊ばされる。
天神窪に向かわされ、
西木倉高台の畑道を進ませ給う。
東木倉坂道を御下りになられ、
観音堂(清水寺)側より
再び学校に向かわせ給う。
松林中頃より御引き返しになる。
林沿いの細道を進ませ給う。
途中檜枝垂れからまる。
陛下御親から避け給いしと云う枝、
今も切らずにあり。
斯くて中台県道に御出ての上、
御機嫌麗しく大本営に御還幸遊ばされた。
以上は、当時の奉拝者の講話と
簡単なる謹記とを綜合し、
この光栄を永く後代に伝えんと欲し、
茲に謹んで之を記す。
昭和11年9月30日。

■巡幸永念之碑。
昭和4年11月18日
天皇陛下には高松宮殿下御同伴にて
親しく本校附近を御巡幸遊ばされた
本村の光栄を永く伝えんが為、
校門側に記念碑を建立し、
毎年11月18日を御巡幸記念日と定め、
御聖徳を偲び奉る。
碑文・正面。
巡幸永念之碑
碑陰文・裏面。
昭和4年11月18日観兵式終了後
天皇文武官30余人を従えて
卒かに此地に出御ありこう村あまねく鳳輩の
轍てつを印せられ芻蕘すうぎょうひとしく
聖慮のかたじけなきに感泣す。
乃ち永く之を後昆に伝えんと欲し
村費を以てここに此碑を建つ。
昭和5年11月 五台村住民

■水郡線の水戸一高下トンネルを架橋に。
太田における演習御親閲行幸のお召し列車が、
那珂トンネルを通るには狭いという事情のために、
土橋やトンネルを廃して切通しとし、
橋付近の線路の側幅の拡張工事、
土橋の改良工事すなわち代替の架橋について
国鉄側は茨城県に了承を求めた。
これに対して県は、
史蹟保存と生徒の通学に支障のない
ことなどを条件にこれを認めた。
橋は昭和4年9月に完成。
本城橋と命名された。

■常陸太田市立太田小学校の記念碑。
太田小学校庭り西隅に
「聖上御駐蹕ひつの処」と刻した記念碑がある。
裏面。
昭和4年陸軍特別大演習に際し、
11月17日 天皇陛下本町に行幸あらせられ、
駐蹕ちゅうひつ5時間御講評を終えさせられ、
還幸し給う、乃ち其の光栄に伝う。
昭和5年11月17日。

■宮中見聞録。侍従次長木下道雄著。
「御即位奉祝、荒天下の分列式」
昭和3年12月15日。
二重橋前広場で、
東京・千葉・埼玉・山梨・神奈川の
青年男女4万人の分列式・奉祝歌奉唱式があった。
当日は降雨荒天になった。
天皇は、
「君たちが濡れるなら、わたしも濡れよう」と
お立ち台玉座の天幕を撤去させた。
若者は感激した。
若者は外套を脱いでしまった。
外套を左わきに抱え、
右肩に銃を担ぐ姿で、
天皇の前を行進した。

■宮中見聞録。侍従次長木下道雄著。
「水戸地方陸軍特別大演習と青年学徒の大分列式」
昭和4年秋。
水戸で陸軍特別大演習あった。
青年学徒の大分列式の前夜。
参加青年が水戸郊外に野営。
澄み渡った秋の夜空。皎々たる月光の下。
1万人が1000余の天幕を張り、かがり火を焚いた。
高松宮殿下のご視察があった。

■宮中見聞録。侍従次長木下道雄著。
「鹿児島湾上の聖なる夜景」
昭和6年11月19日。
熊本地方で陸軍特別大演習があった。
演習後鹿児島から軍艦榛名で横須賀に向かった。
夜、天皇はひとり甲板に立ち、
海岸の方に向かって挙手会釈をしていた。
薩摩半島海岸には
提灯・松明・かがり火をたいた住民がいた。
軍艦から海岸までは10km以上はなれている。
天皇から住民は見えない。
明かりは20〜30kmにわたり紐のようにのびていた。
天皇は望遠鏡で住民の見送りを確認したのだ。
住民から天皇は見えない。
これをみた侍従長は艦長と相談し、
全部の探照灯をつけて、
大隅半島・薩摩半島の空・海・海岸一帯を照らした。
海岸の住民は軍艦榛名の反応に感激した。

■昭和天皇御製。
●昭和6年。
降る雪に こころきよめて 安らけき 
世をこそ祈れと 神のひろまえ

[降る雪に心を清める。
安らかな世を心を込めて祈る。
神の御前にて]

●終戦時。
身はいかに なるともいくさ とどめけり

●昭和21年
ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 
松ぞををしき 人もかくあれ

[雪がしんしんと松に降りつもっている。
松は降りつもる雪に耐へ色を変えない。
そのようなひとでありたい]

●昭和22年
たのもしく 夜はあけそめぬ 水戸の町 
うつ槌の音も 高くきこえて

[天皇が終戦直後に水戸を訪れた。
復興が進む水戸市街の様子を見渡されて詠まれた。
昭和22年の新年御歌会で「曙」と題され詠まれた。
御製碑が水戸城大手門にある]

●昭和41年
わが庭の 宮居に祭る 神神に 
世の平らぎを いのる朝朝