19/8/24 東海村 古文書と歴史を学ぶ会講座 鎌倉幕府の成立と金砂合戦。
宮内教男先生。
■武家社会の成立。
●以仁王もちひとおうの令旨りょうじ。
諸国の源氏挙兵。
平清盛は福原遷都。半年後に還都。
●源頼朝挙兵。1180年。
石橋山の戦い。敗れるが鎌倉を根拠地に武士集結。
富士川の戦いで平維盛軍に勝利。
●平氏の動き。
1181年。南都焼討。平重衡ら平氏軍が東大寺・興福寺を焼討。
1181年。平清盛亡くなる。
●源義仲の挙兵。
1183年.倶利伽羅峠の戦いで平家軍を破る。入京する。
平氏都落ち。
後白河と対立。後白河は頼朝に義仲追討を命じる。
1184年.義経が義仲を討伐する。
●平氏滅亡。
1184年.一ノ谷の戦い。
1185年.屋島の戦い。
1185年.壇ノ浦の戦い。
●守護・地頭の設置。
1185年.守護・地頭を配置。
●奥州合戦。
1189年.奥州藤原氏滅亡。
■吾妻鏡で辿る金砂合戦。
●1180/10/21。
小松羽林[平惟盛]を追い攻め、上洛すべきを士卒等に命ぜらる。
而るに[千葉]常胤・義澄[三浦介]・廣常[上総介]等諫め申して云く、
常陸国佐竹義政並びに秀義等、数百の軍兵を相率いながら、
未だ武衛[頼朝]に帰伏せず。
隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。
然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべし。
●1180/10/27
佐竹秀義追討のため [頼朝は]常陸国に進発する。
●1180/11/4
武衛[頼朝] 常陸の国府[石岡市]に着く。
佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。
然れば楚忽の儀莫く、熟々計策有って、誅罰を加えらるべき。
常胤・廣常・義澄・實平以下宿老の類、群儀を凝らす。
先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総介廣常を遣わす。
案内せらるの処、義政は、即ち参るべきの由を申す。
秀義は、父隆義は平家方に在り不在であること。
旁々思慮在って、左右無く参上すべからずという。
[秀義は、]常陸の国金砂城[現在の西金砂神社]に引きこもる。
義政は廣常が誘引により、大矢橋にいき、廣常に誅される。
頼朝は秀義を攻撃するため、軍兵を遣わす。
下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥次郎實平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・
佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。
数千の強兵を相率い競い至る。
秀義は、金砂に於いて城壁を築き、要害を固める。
兼ねて以て防戦の儀を構え、敢えて心を揺さず。
干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。
御方の軍兵は麓の渓谷を進む。
故に両方の在所、すでに天地の如し。
[金砂城のあった西金砂山405m地点は、ゴツゴツとした硬い山肌。
急峻な渓谷と断崖を形成。金砂城は天険の要害だった]
然る間、城より飛び来たる矢石、多く以て御方の壮士に中たる。
御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃び難し。
また岩石路を塞ぎ、人馬共に行歩を失う。
茲に因って軍士徒に心府を費やし兵法に迷う。
然りと雖も退却すること能わず。
箭を挟み相窺うの間、日すでに西に入り、月また東に出る。
●1180/11/5。
寅の刻[午前4時頃]、實平・宗遠等、使者を武衛[頼朝]に進す。
佐竹が構う所の寨、人力の敗るべきに非ず。
その内籠もる所の兵は、一を以て千に当たる。
廣常申して云く。秀義が叔父佐竹蔵人[義季・昌成]と云う者有り。
知謀人に勝れ、欲心世に越える。
賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うる。
これに依ってその儀を許容せしめ給う。
[頼朝は]廣常を侍中[義季]の許に遣わした。
侍中[義季は]廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。
廣常云く、近日東国の親疎、武衛[頼朝]に帰往し奉らずと云うこと莫し。
而るに秀義主独り怨敵たり。太だ拠所無き事なり。
骨肉と雖も客何ぞ彼の不義に與せしめんや。
早く武衛[頼朝]に参り、秀義を討ち取り、件の遺跡を領掌せしむべし。
侍中[義季]忽ち和順す。
[義季は廣常とその兵たちを案内し、金砂城へ向かう。
秀義の築いた防衛線を抜け、]金砂の城の後に廻り時の声を作す。
その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。
秀義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。
廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、[秀義]逃亡す。秀義跡を暗ます。
●1180/11/6。
丑の刻[午前2 時頃]、廣常[は]秀義逃亡の跡 [金砂城]に入り、城壁を焼き払う。
その後軍兵等を方々の道路に分ち遣わす。
秀義主を捜し求むるの処、[秀義は]深山に入り、奥州花園城に赴くの由風聞す。
■佐竹氏は平家に味方したから源頼朝に討たれたのか。
平家を討伐前になぜ佐竹氏を攻めたのか。
奥州藤原氏と佐竹氏は仲が良かった。
奥州藤原氏を牽制するために金砂合戦があった。
恩賞を与える土地が欲しかった。
・・・からか?