19/8/18 水戸市常磐神社 社務所別館
第36回 水戸学講座 第1講
「書翰から見る水戸黄門」義公と桃の花。
仲田昭一先生
[ ]はhp制作者メモ。
■義公引退。
病身を理由に引退と領内10年行脚の意味は。
●元禄3年(1690)10月 隠退。63歳。
12月水戸帰国。
大内勘右衛門宅で越年。
続扶桑拾葉集・万葉代匠記なる。
●元禄4年(1691)1月 
旧事本紀・古事記・
日本書紀・続日本書紀を
校正し自作の跋文を添え昌平黌へ献納。
5月西山御殿へ移る。
10月梅里先生墓碑建立。
12月那須国造碑修理。
●元禄5年(1692)車塚古墳調査。
8月湊川に楠公墓碑建立。
●元禄6年(1693) 救民妙薬集刊行。
●元禄7年(1694)11月 藤井紋太夫手討ち。
病身を理由に引退しているが、
引退後の活動は活発。
[佐竹氏の拠点常陸太田に住んだのは
佐竹氏に仕えた人々への対策だった]

■御山荘。
伯夷叔斉餓死を以て
道義を千載に伝えた首陽山・西山。

西山公の御山荘は
取分侘びたる御事也。
・・・
御砌の岩根より飛泉ほと走り、
水声聞に清く、
是そ此浮世の耳をも洗つべし。
・・・
又西山の山口に白坂と云所は、
民家少々有り、
その小径を
挟て桃(・・・)数百株植えさせ給い
増井川の流に柴橋を懸けさせ、
桃源郷と号し給う。
・・・・。

■西山遺事俚老雑話。
文政年間高倉胤明編述。

菅谷村横須賀勘兵衛
・・・
彼桃の樹は、勘兵衛へ被仰付、
勘兵衛才覚を以て指上げし趣みえたり、
乍恐奉案に
・・・。

■横須賀家。
横須賀家の先祖は土岐氏。
1560年ごろ那珂郡田野村へくる。

4代勘兵衛庄屋が義公のとき。
義公より江戸土産茶碗・煙管拝領。

●横須賀家の義公書翰。
この度手作りの新茶や蕗を
いただきました。
・・・先ごろ菅谷延命院で
桜の花見をなされたとのこと。
・・・
わたしも伺いたく思っていましたが、
只今精進につとめ禁酒していましたので
同席できませんでした・・・。
光圀

●横須賀勘兵衛宛て医師鈴木宋与。
昨日は御登り候、
ももの木之儀被仰遣
私方より林十左衛門殿へ
申越候間、・・・
去年くらいの
木百本程御ほらせ
可被遣候、・・・
花の赤く御座候を
可被遣候、
花白く御座候は
入申さず候。
・・・・。
五本拾本づつも不参
一度に二三十本づつも参候様
仕度候、左候へば此方にて、
植させ申に能御座候、
・・・
九月廿六日
鈴木宋与
・・・・

●桃源遺事。
西山の山口に白坂と云所は、
民家少々有り、
その小径を挟て
桃(異桃は御好みなく、
唯野桃を御好成候)
数百株植えさせ給い
増井川の流に柴橋を懸けさせ、
桃源郷と号し給う。

●横須賀家文書。
・・・
初たけ百被遣
参着申候、先日も
御こし相届、
致御料理さし上申候。
・・・
八月廿八日
江橋六介
・・・
●横須賀家文書。
明十三日、
御客御帰に遣し候間
はつたけ取次第に
飛脚に而四つ前に
西山迄可被遣候、
御前より御直に被仰付候間
油断有間敷候
井坂与五太夫
酉の上刻 九月十二日
・・・・

■源義公様度々御成拝領物伝書。
後台村車田平八・後改太左衛門。
●元禄八年(1695)丁亥の秋
西山御殿へ初茸を献上す。
度々御成御目見仕る、
同九年丙子の秋
菅谷村の御殿にて御目見仕る。
・・・
此の度は御内意仰せ付けられ、
初茸を献上仕る所、
江橋六介様御取次にて
西山御座の間へ召したまい、
御意あそばざるるは、
便りに初茸を申し遣わすところ、
早速持参もっともに候。
・・・
料理を沢山に食べ酒を飲み
罷り帰れとの御儀なり。
・・・
同十年丁丑十一月、
白鳥御殺生にて
平八宅に御成りあそばさせられ、
親類ともまで御目見え
御盃頂戴仕り、
返上まで仰せ付けらるる。
其の外、御紋付き御羽織、御椀、
御水呑茶碗、御千口拝領。
翌日那珂の湊の御殿へ
お礼に罷り口は、
御殿坪拝見仕り、
其の上金子三百匹下しおかれ、
お目見え仰せ付けらる。
・・・・

■額田家菩提所上宮寺所蔵宝物。
●紙本着色聖徳太子絵伝め・
法然上人絵伝集成3「拾遺古徳伝絵」。

上宮寺13世が石山合戦での功績により、
本願寺11世顕如上人より賜ったもの。
国指定重要文化財。
「拾遺古徳伝絵」は、
上宮寺から徳川頼房に献上・
義公が常福寺に寄進した。
「拾遺古徳伝絵」は、
現在常福寺にある。
[義公の意向で「拾遺古徳伝絵」は
常福寺にいった。
上宮寺は見返りとして
水戸藩より土地をもらった]

●額田家所蔵大覚禅師法衣類の件。
額田九兵衛信通の時、
延宝六戊戌年源義君の命に因て、
家に伝わる所の
大覚禅師の法衣、墨跡等を
鎌倉の建長寺に納む。
時の住侶頑室和尚甚だよろこび、
書翰並びに唐画の掛物を送られて謝す。
・・・

●水戸紀年。
延宝6年(1678)7月の条。
額田九兵衛信通
曽て蔵む処の鎌倉建長寺の
什宝大覚禅師肖像及び伽梨墨跡等
十品を其住持玄廉に還しむ。
其先額田の城主たりしとき、
建長寺の住持兵を避けて
額田氏に寄宿したる時携来る所なりと云。

●義公は延宝6年(1678)11月、
建長寺に建長寺境内絵図を寄進している。


●浄鑑院常福寺への阿弥陀三尊像寄進。
水戸家伝来極小 
阿弥陀三尊像を常福寺へ寄進。
●厨子銘文。
この弥陀観音勢至三尊は
我が家に伝え在り今、
報内浄鑑院に寄する。
以て克く四衆を供養するという。
貞享四年(1687)歳次丁卯十一月穀日
水戸候源光圀識
●貞享四年(1687)は義公の父
武田信吉の菩提を弔うため、
[向山に]新たに
浄鑑院を建立することが
決定された年。
極小 阿弥陀三尊像は、
阿弥陀如来1.7cm・
脇侍は0.7cm。
浄鑑院常福寺を本寺とし
瓜連常福寺には院代が置かれた。
浄鑑院常福寺は、
幕末天狗。諸生の乱で焼失した。
[現在、浄鑑院常福寺はない。
極小 阿弥陀三尊像は
瓜連常福寺にある。
最近発見され話題になった]

■額田村鈴木家文書。
万姫は、義公が拾われたこども。
寵愛し、10歳のとき水戸の
城中に住まわせた。
義公は万姫が14歳になったとき
額田の鈴木市十郎に嫁がせた。
万姫16歳のと長女を出産。
長女は9歳で水戸城に奉公。
万姫16歳のとき長女を出産。
万姫19歳のとき二女を出産。
義公はこの時西山に隠居していたので、
鈴木家へ赴き、
親しく抱き上げ命名した。
万姫は83歳で死去している。
額田阿弥陀寺に墓がある。
その後、代々の水戸藩主は、
帰国して何方へ御成りになっても
村方を通好する際は、
必ず鈴木家に寄っている。
この時鈴木家は
大概は昼食場とされた。
歴代の御成りに際しての
鈴木家の
槍掛・雪隠・外繋並びに
惣垣などの普請は、
先例によって藩の負担で成された。

■安政二年(1856)7月 
国君御代々御成家並びに
御目見等書上張 
庄屋 大和田源衛門。
御用金百両、
元禄十三年(1700)辰三月
御上納指上げ申し候。
同十月中金拾両指上げ申し候。
西山公御一宿、
御土産として金弐枚六右衛門栄昌へ。。
あしぎぬ 壱足 妻染へ
唐縮緬帯 一筋 娘 六へ
郡内袴 倅 仙之允へ
孫 半兵衛へ


■義公の眼力はどこから。
●桃の木の植栽法や
花の色への関心は何からか。
●「拾遺古徳伝絵」を常福寺へ寄進。
水戸家伝来極小 
阿弥陀三尊像を常福寺へ寄進。
額田引接寺本尊阿弥陀如来立像は
高萩八幡神社を神仏分離して安置。

●額田家伝来の
建長寺関連家宝を
建長寺へ返却させる。

●東海村願船寺。
願泉寺を願船寺に変更させる。
寺側に不満有り。