19/4/12 那珂市 徳川斉昭の藩政。
瓜連・歴史を学ぶ会 中央図書館
仲田昭一先生。
■水戸藩の家臣団の編成。
武田家旧家臣・徳川家伏見衆・駿府衆・後北条氏家臣など。
門閥層の誇り・幕府中心主義。

■光圀の藤井紋太夫誅伐。
柳沢吉保らと交流し暗躍した家老紋太夫、
水戸家の将来に危険。幕府に従属することになる。
家臣団の対立が表面化することを未然に防いだ。

■立原翠軒・藤田幽谷の離間。
大日本史編纂方針をめぐり志類廃止の翠軒と継続の幽谷。
(大日本史は紀伝体による日本の通史。
本紀・世家・列伝・志・表を記述。
志は天文・地理・礼楽などの分野別歴史を記述)
門閥派の翠軒と尊王敬幕派の幽谷が対立・派閥対立に。

■水戸藩は幕府の御三家。尊王敬幕の立場。
2代藩主光圀の尊王行動。大日本史編纂・礼儀類典編纂・
神戸市湊川神社に嗚呼忠臣楠子之墓建立など。
1824年の大津浜事件で攘夷思想が強調される。
弘道館記に尊王攘夷の語句が出現。

■1800年
3 月 斉昭・江戸小石川で誕生・治紀の第3 子。
部屋住みが長く、学び・思索の時間があった。
経済・教育・海防を思索、天保の改革で実施した。

■1829年
10月 水戸藩9代藩主継嗣問題。
門閥派は将軍家斉の子で清水家を継いだ恒之丞を擁立、
改革派は藩主斉脩の弟敬三郎を擁立。
改革派・川瀬教徳の決死の南上決断。
藤田東湖・山野辺義観・会沢正志斎・立原杏所らも南上。
10月 敬三郎が藩主就任。斉昭に改名。
改革派の優勢・門閥派の不満。
斉昭の苦悩「改革派・門閥派共に我が家臣」

■人事の刷新。
執政榊原照昌らを罷免。無断南上組を処罰。執政に門閥派を登用。
岡部以徳・朝比奈泰然・野中三五郎ら。
郡奉行に改革派を登用。田丸直諒・藤田東湖・会沢正志斎ら。

■1830年
1月 封事の奨励、政治上に意見有るものは上申を許可。
12月 有栖川宮王女吉子と婚約。

■1831年
1月 家老山野辺義観・御用取調役会沢正志斎。
七郡制から四郡制。川瀬七郎右衛門の提言。
改革派吉成又右衛・石河徳五郎・川瀬七郎右衛門・藤田東湖を登用。
10月 彰考館総裁会沢正志斎。
11月 川瀬宛て斉昭の書簡。
藩主になり色々改革をおこなった。
改革派・門閥派から多くの意見があり耳を離れない。
改革派も吾が愛するところ、門閥派も吾が養うところ。
どちらも藩を思っての主張である。法を曲げられない。
川瀬が不服で職を辞すれば、自分も藩主を辞める覚悟がある。

■1833年 
3月 天保就藩記・小宮山楓軒の記録。
帰国行程は4日間が基本、経費削減で3日間で計画。
しかし都合により4日間になった。
2月末 出立前斉昭の歌。
「みなもとの 清き流れを 継からは 
にこらぬものと 我はまもらむ」
3月2日 江戸邸出立→ 松戸昼食 →小金宿泊。
3月3日 取手昼食 →牛久宿泊。
3月4日 中村昼食 →府中宿泊。
3月5日 長岡昼食→水戸城着。
3月6日 彰考館で会沢正志斎の大日本史の講義をきく。
3月7 日 東照宮参拝。
3月8日・9日 風俗取締、孝行貞節・高齢者・学問優秀者の表彰令達。
5月10日 瑞龍参拝。6代藩主治保の例に倣う。
菅谷村山横目横須賀宅小休 →向山常福寺 →
額田村庄屋鈴木宅昼食 →瑞龍参拝 →太田村浄光寺宿泊 →
西山御旧跡・太田蓮花寺・稲木久昌寺 →田彦村庄屋與兵衛宅小休 →帰城。

■藩よりの達し。
瑞龍・湊御殿・郷中へ出かける時の心得。
人馬に費用をかけないこと。百姓に無理をさせないこと。
荷物は極力軽くすること。旅館は最寄りばかり利用しないこと。
場所により不便があるかもしれないが権柄にしないこと。

■菅谷横須賀宅での斉昭の歌。
「此里の さかえしられて いもの子も 
数多に出て 見ゆる楽しさ」
■額田村鈴木宅での斉昭の歌。
「玉椿 千代の色香を 八十あまり
四年は本の 初とそ見る」
3月12日 諸役所巡視。
3月13日 雨中大貫辺りへ鷹狩り。城内へ町人らを呼び会見。
3月21日 湊方面へ鷹狩り。い賓閣(湊御殿)に告志編を示達。
宍戸藩松平頼位に告志編を授与。
3月26日 帰城。

■告志編。斉昭が水戸へ帰国した際に家臣に示したもの。
朝廷・幕府・祖先の御恩を忘れない。
藩・士民・領民の安寧を心から願う。
農人形は農民への感謝を示したもの。
斉昭を飛越し直接朝廷・幕府に尽くすは僭越な行為。
天下が平穏でも乱を忘れず、文武の道に励むこと。

3月28日 軍事編成の鹿狩りを勝倉長者山で実施。

■天保の飢饉。1833年からの数年間。
天候不順が続き凶作になった。

■1834年 
3月 斉昭入国・向山常福寺文書。
3月8日 今暁までに漸く仕度相調い・・・
瑞龍山参拝の途次立ち寄るため。
午前7時過ぎ青柳遠見の者、程無く御入りの旨注進、
寺社役手代東庵下乗橋外へ出迎え・・・、
殿様寵にて午前9時頃正敷入り、
直々玄関江案内それより大方丈壱の間上段着座、
方丈昆布上直々着座挨拶。次に煙草盆、火鉢、茶、干菓子。
・・・斉昭は庭中暫く覧御咄遊ばれ、
程無く供揃いにて玄関より乗輿、裏通り額田江入らせられ候。
欄外注記
宰相様より直々に方丈江御手渡物これ有り候得共、
此一条極秘の由と方丈申され候一切咄これ無く候。依って記録仕り兼候。
3月 烈公当山に御立寄の砌、現住禅髪恵通へ絹地彩畫の
御肖像御直々に御渡在なされ候。
同日、御意の覚書漢文一通、和文一通、
御通事役戸田銀次郎殿より御渡しに相成り候。
和文 御意の覚
一 此度、御肖像萩谷八介仰せ付けられ、常福寺へ御納め遊ばされ候に付、
大切に蔵し置かるる様仰せ付けなされ候。
一 俗に肖像にいたし候後は、其の人短命になるなど
婦人女子申し候ては宜しからず思し召し候故、
人にも秘し置き御晩年の後は誰に拝見致させ候ても
苦しからずとの御事に候間、一切他言等も致さぬよう申された。
一 御木像にも仰せ付けらるべき思し召しに候得共、
此の思し召しは仰せ付けられざる間、御万年の後に相成り候て、
申し立ての上、前文御肖像を本に致し御木像出来候様致す可しとの
御意在らせられ候事。戸田忠敬書く。
4月 久慈郡旧水府村安寺・持方視察。
4月 小石川藩邸に帰着。
9月 神武天皇御陵修復を幕府に建言。
10 月 蝦夷地開拓を幕府へ建言。

■1836年 
家老山野辺義観を海防総司とし助川へ土着させる。

■1837年
7月 藩政改革の4大目標、経済・教育・海防の構想を提示。
■弘道館・偕楽園・郷校をつくる。医学・蘭学推進。
東湖「日本一の総合大学を建設する」
■惣領検地。
田畑の境界を正す・税の公平化。検地帳・絵図の整備。
■海岸防備。
藩士を水戸城下から農村に移し土着させる。
海防陣屋・助川海防城。武備の充実をはかる。
■惣交代。
江戸在住家士200人を水戸引上げ・新屋敷整備。
■斉昭・東湖・楓軒の逸話。
7月 諸改革に消極的な小宮山楓軒の姿勢に対し
斉昭「小宮山には元より用なし、何事も姑息で有為の念なし、
度々召しても益無し」
東湖「小宮山は一国の老成にて人望がある。
その学術人物議するといえども、江戸・水戸執政の信用がある。
これを疎んじ、執政らの望を失うよりは・・・
議論を尽くさせるのが君のつとめ」
東湖の勇気、東湖と楓軒の関係、東湖と斉昭の信頼関係が
後の藩政改革を成し遂げていった。

■9月 青山延于宛て斉昭の書簡。
2男量平の病状は軽くないとのこと、さぞ心配だろう。
結核は容易な病気ではない。同封した別紙薬方はよい。
先年写しておいた。必要な部分を見せる。
主治医に相談し思う通りにするがよい。
結核は伝染するという。病人が使った食器類は用いないように。
度々実験済み、注意しておきたい。
看病人に不吉を申すのは、わきまえないことに思う。
当人は天命でいたし方ないが、兄弟にまでうつしてはならない。
兄弟は皆立派であり、うつりでもしたら自分は残念に思う。
今回ありのままを書いた。量平に万一のことがあっても、
延于が力を落とし病気になるのは絶対に困る・・・

■12月 川瀬教徳宛て斉昭の書簡。
難病はどうか、下り前も用事の節、側医親康に薬用申すべく、
少々の事でもそまま指居候ヘは、たとえは一本指にてもみけし候事
相成火よりも大火に相成候事にて、その上は如何程の火消来候ても
間に合不申段も、その節委細に申候癖か、あまり剛強に過候故、
機会を失い大事と相成り候義は、今更いたし方も無之、
残念至極に存候、・・・。

■1839年。
■東湖宛て斉昭の書簡。
ちょっと耳に入れる。藩医の西村元春らに聞いた。
近く江戸に入る酒は石灰が多く入っている。
それを多く飲むと脾臓を悪くする。
中風の気のある者は発病する。眼病にも悪い。
酒を飲むのは用心するように。川瀬が舌疽で死んだ。
虎まで病身になれぱ孤独になる。自分一人では万事不行届きになる。
国家のために用心してくれ。承知と思うが、心配なので連絡する。
虎は酒好きだから止められない。良い酒を少しずつ飲んではどうか。
飲まずにいると少しでも酔うようになる。
酒に飲まれぬようにしてくれ。虎のことだから外に心配は無い。
酒を飲み過ぎ身を滅ぼすな。そればかりが心配意だ。
日ごろは多く飲まぬように。

■1840年
1月 参政戸田37才・耕雲斎37才・側用人東湖35才・
小姓頭結城寅寿23才を抜擢・1842年に寅寿は執政。
1月 2度目の水戸帰国。前年は門閥派番頭ら経費削減から帰国反対。
2月 参政戸田・側用人東湖ら弘道館掛。
弘道館教授頭取会沢正志斎・青山延干、青山延光教授。
3月 千束原で追鳥狩。
7月 領内総検地開始。

■1841年
8月 弘道館仮開館。
斉昭は臼杵の神官鶴峯戊申・キリスト教容認の開国思想家に会う。
鶴峯は1857年に水戸藩士分に登用される。

■1842年
7月 偕楽園開園。
11月 領内総検地終了。
12月 大砲鋳造のため領内寺院に梵鐘供出を命ずる。
冬から領内で種痘を実施。

■1843年
1月 江戸弘道館開設。
5月 将軍家慶から賞賜を受け宝刀を授かる。
5月 水戸弘道館内に医学館を開設。
8月 水戸東照宮を唯一神道に改める。神仏分離をはかる。

■1844年
弘化甲辰の国難。
寅寿の画策、大乗寺住職日華の讒言。
社寺改革推進、今井金右衛門に陣頭指揮させる。
5月 幕府から致仕謹慎を命ぜられ駒込に閉居。
改革派・領民の雪冤運動。寅寿ら門閥派優勢・高松藩の後見。
8月 諭書を下し士民の雪冤運動に自重を促す。

■東湖の藩政回顧・常陸帯・謹慎中の著述。
斉昭の藩主就任、旧弊を破る、人事の刷新、
封事の奨励、質素倹約の励行、婚姻養子の是正、
定府の減員、飢饉の救済、収支の正常化、
追鳥狩の実施、弘道館建設朝廷の尊崇、
夷狄対策・大砲鋳造、社寺改革、床几廻新設し若者鍛錬、
告志編等多数の著述編修、検地の実施、幕府から褒賞。

■斉昭隠居にあたり慶篤への教諭。
家臣両方の言に理があり判断に迷う時は、四書五経、
徳川家光・敬公・南龍公、威義二公[頼房・光圀]らの言行より
対処すれば大きな間違いはない。
将軍・明将は贅沢を禁じている。太平に武を忘れるな。
武家に必要なものを好め。茶器・掛け物ではない。
甲冑・刀剣・鉄砲・馬具が必要。
家中には何々派と色々ある。理の正しいものを用いよ。
明将言行録・武道初心集を常に読め。
僧侶に十分注意。奥向きから取り入ってくる。
武士の在り方・目標を立てそれに向かい常に励め。

■1845年
豊田天功宛て斉昭の書簡。
天功の中風の気を心配して烏犀円・
犀の角の先を粉末にした漢方薬を下賜。
これは昔家康からの拝領品。
少々だがやるからハッカ湯で服用すればよい。

■年不明・豊田天功宛て斉昭の書簡
その後どうか。松延定雄に話を聞き案じている。
何分加養するように。歯茎が腐る壊血病では、
・・・血熱にてハグキ腐乱してもこれ有るべく、
宣露という症と察せられる。
六味地黄、煎薬にて用い、此付薬ハグキへ昼夜付け・・・。

■1846年
11 月 謹慎解除。

■1847年
9月 慶喜一橋家相続。
10月 寅寿は長倉・旧御前山村松平将監屋敷へ永牢。
寅寿の子息種徳家禄・屋敷召上蟄居・
1858年3月絶食牢死・結城家断絶。
後に家名再興・門閥派大森忠恕の弟道家が名跡を継ぐ。
11月 東湖の許々路廼阿登こころのあと。
13才で襲封した慶篤は父斉昭への敬が強い。
父斉昭に対する愛を感じていない。親好を深めるべき。
慶篤に連枝連中が斉昭政治の悪口の吹聴も防げる。
連枝連中、高松藩松平頼胤・守山藩松平頼誠・府中藩松平頼縄。
・・・門閥派・天狗派は、学派対立が原因。
旧家は藩に貢献してきた家柄。
長所を称え懇ろに御書など与え協力に向かわせて欲しい。
寅寿は天晴大忠臣、さすが結城宗廣の子孫。
初めから斉昭を罪におとしめようとは考えなかったと思う。
・・・幕府は父兄、水戸藩は子弟の関係。
幕府が無理を言っても逆らわない。
幕府の怒りの解けるのを待つのは水戸藩の常道なり。
・・・天を怨まず、人を咎めず、謙遜を守ることを望む。
諸改革は天下のためやったが、時勢への配慮に欠いた。
赤心のみにて不行き届きがあった。
忠孝の至情から急ぎ過ぎ、他人の怒りを招いた。
幕府を批判してはいけない・・・

■1849年
3月 藩政関与を許される。

■1851年
4 月 種痘を実施させる。

■1852年
6月 朝廷に斉昭の地球儀・上大地圓形表を献上。
地球儀は明治天皇即位式式場に据えられた。
■臣斉昭恐みも白す・・・
然りと云とも今天皇の聖徳赫赫明明大将軍の
指揮欠たる所無く異端邪法の徒何の隙をか伺べき、
島の崎崎磯の崎崎、神を敬ひ君を戴く公民充満るを見れば、
尊き哉楽き哉。
故今此国形を上るに附て、聊か此事聞奉らくと、
臣斉昭恐み恐みも拝て表す。

10月 藩士に党派争いをやめ文武精励を諭す。

■1853年
6月 ペリー来航。
7月 幕府の海防参与となる。東湖海防御用懸。
7月 海防愚存を幕府に提出・武備充実し開国を。
12月 水戸で鋳造した大砲74 門を幕府に献上。
家定13 代将軍に就任。

■1854年
3月 日米和親条約調印。
海防参与辞任申し出。
7月 幕府の軍制参与。
10月 豊田天功著北島志を老中阿部に贈る
12月 斉昭発議の毀鐘鋳砲の太政官符下る。

6月 武田耕雲斎宛て徳川斉昭の書簡。
弘道館の梅も偕楽園の梅も小石川の梅の実から育てた。
軍用として梅は大切、梅の実を勝手に拾う者が
ないようにすること。

■6代藩主文公・治保の時。
藩士の子供が外出していた時、にわか雨が降ってきた。
藩士の子供は畑の芋の葉を折り傘の代わりに持ち帰った。
文公これを見て「畑の持ち主に断ったのか」
ことわっていないと答えると、
断りなくとってきては泥棒だ。
たとへ下々の者の品でも、盗んではいけない。
文公は子供と世話する人に3日間の外出を禁じた。

■悪いことをしたものを見逃さないこと。
小さい過ちを許すと規律が乱れ国が乱れる。

■藩主の子供は藩士の範とならねばならない。
子どもの時の教育も厳しくなる。
寒い季節でも、朝4時起床。水で顔を洗う。
戸をあけて外気にあたる。大声で四書の素読。
明るくなってくると鷹合わせ・または庭廻り。
食事後、書物・剣術。コタツには入らない。

■藩主の子供は藩を継げるのは長男だけ。
他の子供は他家に望まれれば養子にいく。
養子先で水戸徳川家の名を辱めてはいけない。
文武ともに励む。馬術は馬場を乗っているだけではダメ。
好文亭、仙波のあたりを回ること。
湊などへも付の者と共に腰弁当で遠馬すること。

■守役杉山千太郎宛て斉昭の書翰。
文武の稽古の相手を特定の者にすることなく、
士分であれば誰の子でもよいから相手をさせるように、
決して遠慮させず力一杯相手させるように。
また、水戸の子供たちも、5・6才になれば
読書手習い剣術などの稽古を始めるだろう。
水戸の弟どもに負けるなという教育をしてはいけない。
弟たちに負けてはならないと励ますことは、
当人に励みにはなるが、逆に弟たちが不出来になるよう
仕向けようとすることがあってはならない。
むしろ弟たちが良くできるのを自慢できるように
ならなくてはならない。

■「女誡」を著し、
「歎難に耐え抜く真の武士を育てるには、女子もまた
古の烈女を手本とするようでなければならない」と、
女子教育の重要性を指摘している。

■斉昭はペリー来航の頃、越前藩主松平慶永にいった。
攘夷はとても難しい。
外国は大砲・小砲など軍備が十分整っている。
外国は日本のような小国でなく大国だ。
かつての武田勢の軍備では太刀打ちできない。
それより外国と貿易開港する方がよい。
若い貴君は、その時は是非ご尽力願いたい。
自分は今まで攘夷の巨魁として世を渡ってきた。
今更変えることはできない。

■斉昭は漂流し渡米した土佐漁師中浜万次郎を招いた。
米国の大統領制・選挙制度・年貢率の是非・
大統領への直接面会は可能か・軍艦建造の費用・
パナマ運河・米国の日本理解・米英相互の理解度などを尋ねた。

■東湖は攘夷策を述べた内藤恥叟に
「平生読書するのは何のためか、
今日早鐘が鳴れば都下は瓦解する。攘夷が出来ると思うか」
と攘夷の容易なことを否定した。

■東湖家の伝では、「東湖も米国へ連れていくから、
準備をしておくように」と斉昭から云われた。

■松平慶永の逸事史補。
斉昭公は尊王攘夷論を盛んにした。攘夷家の巨魁という。
天下でこれをしらないものはない。
尊王の意は盛ん。実によく感じる。
夷を悪むことを世人は皆知っている。
初めてペリーが渡来の頃、世上一般は外国人を憎んだ。
斉昭公はさすが賢明の君。早く外国人と交際が必要といった。
斉昭公が私に贈る書中に言う。外国人との交際の道が一番良い。
しかし今の時勢ではどうしようもない。
慶永は少年なので心得るがよい。とても攘夷はできない。
ぜひ交易和親の道を開いて欲しい。
斉昭は歳をとった。攘夷の巨魁として世を渡ってきた。
死ぬまで攘夷は変更できない。貴君へこの事を申し伝える。

■1855年
4月 追鳥狩復活。
8月 幕政参与。
10月 安政の大地震。東湖・戸田が圧死。
墓碑に斉昭の親筆。東湖・表誠之碑。戸田・旌忠之碑。
寅寿派側医十河祐元による慶篤毒殺計画疑い。
11月 湊の反射炉第一期工事完成。

■1856年
4月 寅寿処刑・44才。十河祐元処刑。
8月 領内各郡村に義倉を設置。
9月 農兵を設置。

■1857年
寅寿派の谷田部処刑・大嶺兄弟処刑。
5月 弘道館本開館。
7月 軍制・幕政参与免ぜられる。
11月 老中堀田正睦に大艦大船建造提言。
自ら米国にいって交易開始を提案・却下される。

■1858年
4月 井伊直弼大老就任。
6月 日米修好通商条約調印。
6月 不時登城して違勅調印に抗議。
7月 急度慎を命ぜられ駒込に幽閉。
8月 水戸藩に戊午の密勅降下・藩内分裂・混迷。
9月 安政の大獄始まる。
斉昭再度の蟄居謹慎、家老安島帯刀ら切腹死罪。
領民は雪冤運動に南上、門閥派の藩政復活。
寅寿派の市川三左衛門・佐藤図書・朝比奈泰元ら台頭。

■1859年
8月 水戸への永蟄居命令。
戊午の密勅の取扱いで尊攘派分裂・藩内混迷。
運動鎮圧のため再三諭書を下す。

■天狗・諸生の争乱。領民を巻き込む。
1864年 藤田小四郎ら筑波山挙兵。
両派とも遂には残虐非道、惨殺処刑の応酬。
門閥派・改革派ともに多くの犠牲者を出す。

■1860年
3月 桜田門外の変。親書を下し藩士の妄動を戒める。
8月 斉昭、謹慎中の水戸城中で死去・61才。
喪を秘し永蟄居免ぜられる。
9月 瑞龍山墓地へ埋葬・謚は烈公。

■1862年
8月 従二位権大納言を追贈される。

■1868年
明治新政府の成立。水戸藩出身者は極少。
廃藩置県・水戸藩の解体。残る怨念と対立。

■1873年
3月 常磐神社創建・祭神は光圀と斉昭。

■1875年
4月 明治天皇は水戸藩小梅邸に行幸。
斉昭の老中堀田宛の書簡を見る。
国内での外国貿易でなく、外国に出向いての交易を提言。
そのために自らの欧米視察派遣を申請。
申請は数回あったが幕府は却下した。
陪席した大久保利通はいった。
「攘夷は、天下の人がみな、烈公が主張者と知っている。
しかし、開国論の主唱者が烈公とは知らなかった。
その議論の卓絶していることに驚く」