19/2/6 那珂市 水戸・歴史に学ぶ会 幕臣榎本武揚と千島・樺太交換条約。
講師 仲田昭一先生。  
那珂市立図書館。 
< >はhp制作者メモ。
■水戸市住んでいるかたの樺太引揚げ体験記録。
昭和20年8月20日。
樺太真岡港は、
沖からのソ連軍艦の艦砲射撃と上陸したソ連部隊の機銃乱射。
市民は夢中で樺太山脈を・・・逃げた。
・・・この日だけで500人が殺され・・・。
町は3分の2程焼け、
法華寺の和尚は自らの寺に火をつけ
太鼓をたたき続け焼死した。
真岡神社の宮司湖山氏は、
拝殿と本殿の間の玉砂利の所で死んでいた。・・・
真岡中学の同僚でも教連の教官は妻子の首をはね、
自らは割腹自殺をした。
柔道教師は妻子を絞め殺し、
自らはカミソリで頸動脈を切って死んだ。
英語の先生夫妻は防空壕の入口で射殺されていた。

■北方領土問題の変遷概要。
1685年。水戸光圀。エゾへ快風丸派遣。
1791年。木村謙次が高野昌碩の書を読み、
師立原翠軒に北辺警衛に懸命の訴状。
1793年。木村謙次・武石民蔵エゾ地探検。
1978年。木村謙次の「海防下策」に
「百王一姓目出度き国風」を守ろうと尊王海防論。
近藤重蔵・最上徳内・木村謙次ら千島諸島へ
「大日本恵登呂府」標柱建立。
1804年。レザノフ長崎来航。
通商要求拒否に
「貿易開始には武力行使以外にはない」との決意。
1806年。フヴォストフら樺太アニワ湾襲撃。
函館奉行、南部・津軽・仙台・会津・秋田・庄内各藩へ
警備出動命令。
1807年。幕府、全エゾ地直轄。
ロシア兵のエトロフ襲撃続行。
水戸治紀(武公)、
秋葉友衛門・奥谷新五郎をエゾ派遣。
エゾ地騒動を朝廷へ報告。
木村謙次「蝦夷争乱」
1808年。間宮林蔵(東海岸北上)・松田伝十郎(西海岸北上)の樺太探検。
1834年。斉昭エゾ地拝領願い。
1836年。山野辺義観、助川へ土着。助川海防城。
1839年。斉昭「北方未来考」
1844年。斉昭隠居謹慎。
松浦武四郎東蝦夷地巡検、帰途会沢正志斎訪問。
1846年.孝明天皇、幕府へ海防厳重の勅諭。海防勅諭。
幕府、所司代を通じて外国船来航の状況を、朝廷に伝える。
文化度に倣い。
1853年。ロシア極東艦隊司令長官プチャーチン長崎へ。
筒井政憲・川路聖謨ら応対。
領土問題。ロシア ウルップ以北・樺太全島領有。
日本 エトロフ以南・樺太に境界。
大船建造解禁。
斉昭、幕府に大砲74門献上。
プチャーチン長崎に再来。
1854年 目附堀織部正利煕ら蝦夷探検。
榎本武揚随行。
プチャーチン長崎に再々来。
松浦武四郎、斉昭に蝦夷地図献上。
12月21日。日露通好条約。
1855年2月7日にあたる。
現在「北方領土の日」になっている。
「エトロフ・ウルップ間に境界。
樺太は雑居」
エゾ地上知させる。
1861年。2/3ロシア軍艦ポサドニック対馬占領企図。
英船が退去要求し8/15退去。
1862年。露国ペテルブルク会議。
内部不統一で不調。
榎本武揚ら蘭国留学。
1868〜1869年。函館戦争。
榎本武揚投獄。
1869年。ロシア、樺太を「流刑地」に指定。
日本、蝦夷地を北海道と改称。
1870年。樺太。「開拓使」設置。
黒田清隆 樺太開拓次官になる。
1872年。榎本武揚出獄。
1873年。黒田清隆 樺太放棄建議。
1874年。駐露特命全権公使榎本武揚横浜出向。
1875年。樺太・千島交換条約。
ロシア ゴルジャコフ対榎本武揚。
南樺太の権利喪失。
樺太在住のアイヌ人は北海道へ移住。
千島列島
(=この条約で列挙されたシュムシュ島
(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)を
ロシアから譲り受けるかわりに、
ロシアに対して樺太全島を放棄。
地政学的にはロシアの太平洋進出を防いだ。
1905年。ポーツマス条約。
日本はロシアから樺太の北緯50度以南の部分を譲り受ける。
1945年2/11ヤルタ秘密会議。
ソ連の参戦条件。
樺太南半分返還・千島列島の譲渡。
7/25 ポツダム宣言発表。
8/8 ソ連が日ソ中立条約を破棄して9日より参戦と通告。
8/9 ソ連が南樺太に侵入。
8/15 終戦。
8/16 ソ連軍シュムシュ島砲撃、18日上陸。
8/23 停戦協定、29日までに日本の武装解除。
8/22 樺太豊原市へ猛攻。
8/25 南樺太作戦終了。
8/29 択捉島上陸。
9/3 国後島上陸。歯舞群島。
9/5千島列島全島占拠。
1951年。サンフランシスコ平和条約。
ポーツマス条約で獲得した樺太の一部と
千島列島の権利、権原及び請求権を放棄。
北方四島(歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島)は
千島列島の中に含まれない。
1956年。日ソ共同宣言。
平和条約締結後に歯舞・色丹2島を日本へ引き渡す。

●2月7日は「北方領土の日」
1855年のこの日に、日露通好条約が調印されたことにちなむ。
北方領土返還要求運動の全国的な盛り上がりを図る。

■榎本武揚。
1836〜1908年。
旗本元天文方出仕・西ノ丸目付榎本円兵衛の次男。
昌平坂学問所・中浜万次郎塾に学ぶ。
1854年 目附堀織部正利煕ら蝦夷探検。
榎本武揚随行し蝦夷地への開眼。

■幕府の文久改革。朝廷・薩摩藩主導。
1862年。京都守護職新設。松平容保。
歩兵・騎兵・砲兵からなる洋式陸軍・海軍の整備。
洋学研究の推進。
蕃書調所を洋学所へ拡大・改組。
榎本武揚・西周らをオランダへ派遣。
榎本はヘーグに於いて気象学(気圧計・電信技術研究)・
航海術・砲術・造船術・機関学・国際法を研究。
プロシア・オーストリア戦争に国際観戦武官として従軍。
通信連絡に驚嘆。モールス通信機購入(日本人初)。

■明治政府(岩倉具視ら)
日露関係から蝦夷地の重要性。
戊辰戦争の蝦夷地拡大防止。

■小御所会議。
1867年。小御所会議でのクーデター。
1868年。榎本、幕府海軍副総裁になる。
慶喜の東帰を追い江戸へ。
3月江戸城明け渡し。

■箱館戦争。
箱館戦争。1868〜 69年。
<太陽暦(新暦)。平年は365日。
400年間に97回の閏年をもうけ366日とする。
1872年12月2日(旧暦)の翌日を1873年1月1日(新暦)とした>
徳川家は駿河、遠江70万石へ減封される。
約8万人の幕臣が路頭に迷う。
榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、
北方の防備と開拓にあたらせようとする。
旧幕府艦隊の北行。
品川 →平潟 →仙台 →10/12石巻 →10/20箱館鷲ノ木
<1868年、4/12、館山沖へ移動。
品川沖に戻り、
富士山丸・観光丸・朝陽丸・翔鶴丸を新政府に渡す。
開陽丸など主力艦は温存。
7月、榎本に奥羽越列藩同盟から支援要請。
8/20、旧幕府艦隊が仙台を目指す。
9月、仙台東名浜沖。
10/9、東名浜から牡鹿半島基部の折浜に移動。
平潟口総督宛てに旧幕臣の救済のため
蝦夷地開拓の嘆願書を提出。
10/12、折浜を出航し宮古湾に向かう。
10/18、宮古湾。
幕府直轄・箱館奉行。
松前・江差周辺の松前藩領を除く。
奥羽諸藩が蝦夷地に兵を派遣。
東北戦争のため防備兵力は少なくなる。
新政府は箱館府を設置。
10/20、箱館府。弘前藩・福山藩・大野藩兵が箱館に到着。
旧幕府軍、上陸後箱館へ進軍。箱館府に嘆願書を提出。
10/21 箱館、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸。
10/22、箱館府軍奇襲。
10/24、旧幕府軍が箱館府軍を撃破。新政府は五稜郭を放棄。
10/25、新政府軍は青森へ退却。
10/26、旧幕府軍は五稜郭へ入城。艦隊箱館入港。箱館を占領。
10/27、旧幕府軍が松前城に出陣。
10/28、松前城藩主は内陸の館城に移動。
11/1、旧幕府軍は松前藩兵の奇襲を受けるが撃退。
11/5、松前城落城。
11/12、旧幕府軍松前から江差に向けて進撃。
11/15、松前兵敗走。夜天候急変、開陽丸座礁。数日後に沈没。
旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、
新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。
12/1、旧幕府軍は蝦夷地の開拓を求める嘆願書を新政府に提出。
12/14、新政府は、嘆願書を却下。
12/15、旧幕府軍、箱館政権を樹立。
榎本武揚が総裁。
1869年2月、新政府軍、陸軍が青森に集結。
海軍は艦隊を編成。
3/9、新政府軍艦隊、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆。
3/20、旧幕府軍は宮古湾に向けて出航。
3/23、旧幕府軍艦、暴風雨に遭遇。戦力低下。
3/25、旧幕府軍奇襲したが失敗。
3/26、新政府艦隊青森に到着。
4/9、新政府軍乙部に上陸。新政府軍江差を奪還。
4/14、二股口の戦い、新政府軍撤退。
4/16、新政府軍、箱館へ向けて進軍開始。
4/17、新政府軍松前を攻撃。旧幕府軍は松前城を放棄。
4/20、新政府軍木古内口総攻撃開始。
4/29、新政府軍矢不来を攻撃。旧幕府軍、箱館方面へ敗走。
4/29、二股口の戦い、旧幕府軍、五稜郭へ撤退。
5/11、新政府軍は箱館総攻撃開始。
5/12、五稜郭に箱館湾の甲鉄による艦砲射撃開始。
5/14、新政府軍の降伏勧告に対し、旧幕府軍は拒絶>
榎本はオランダ留学時に入手した「海律全書」を
新政府軍黒田清隆に届けさる。
5/18榎本軍降伏、五稜郭明け渡し。

■開拓使設置。
1869年7月、北方開拓のために設置。
箱館府は廃止。鍋島直正長官就任。
1869年9月、東久世通禧長官就任。
<1871年5月、札幌に開拓使庁。
1871年8月、分領支配廃止。
開拓使が直轄統治。旧松前藩領は除く。
1870年、樺太開拓使を設置。
黒田清隆開拓使次官が専従。
1871年8月、開拓使10年計画決定。
1871年10月、東久世長官辞職。
1872年10月、旧館県の福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡が
青森県から開拓使に移管。
1874年、黒田が開拓使長官となる。東京在。
北海道開拓に難渋し樺太の開拓は進展せず。
1875年5月、樺太・千島交換条約で日本は樺太を手放す。
日本は樺太アイヌを北海道に移住させた。
1876年、札幌農学校・開拓使麦酒醸造所が設立。
現在の北海道大学・サッポロビール。
1881年、開拓使官有物払下げ事件。
1882年、開拓使廃止。
北海道は札幌県・函館県・根室県になる>
開拓使登用の旧幕臣363名。内箱館奉行所関係者237名。
最後の箱館奉行杉浦誠。
箱館奉行→ 駿府藩公儀人→ 外務省→ 開拓使権判官。

■榎本武揚出獄・樺太・千島交換条約。
1872年 榎本武揚出獄。
<5/21、榎本ら旧幕府軍幹部は、東京へ護送。
6/30、兵部省軍務局糾問所の牢獄に収監。
黒田清隆、福沢諭吉らが助命を主張。
獄中では、洋書などの差し入れを受け読書。
1872年1月、特赦により出獄。
3/6、放免となる。
3/8、開拓使に四等出仕として任官。
北海道に行く。
函館・日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。
函館に日本で初めての気象観測所設置。
空知川流域の炭田鉱床を発見。後の石狩炭田。
10/18、駐露特命全権公使に任命される。
1/14、日本最初の海軍中将に任命される。
1874年3/10、横浜を出発。
6月サンクトペテルブルクに着任。
6/18、アレクサンドル2世に謁見。
6/20、クロンシュタット軍港を視察>
1875年5/7、外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフと
樺太・千島交換条約を締結。
日本は南樺太の権利喪失。
樺太在住のアイヌ人は北海道へ移住。
ウルップ島以北からシュムシュ島までの千島は日本とする。
これにより、北方4島(歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島)は、
千島列島には含まれず日本固有の領土であることを証明した。
地政学的には、ロシアの太平洋進出を防いだ。
8月から9月にかけて西欧を視察。
1878年7/26、帰国のためサンクトペテルブルクを出発。
ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断。
<9/29、ウラジオストック到着。10/14、汽船で小樽に着く。10/21、東京。
1879年2/12、条約改正御取調御用掛。
9/10、外務省二等出仕。
11/6、外務大輔。
11/18、議定官を兼任。
1880年2/28、海軍卿に就任。
1881年4/7、海軍卿を免ぜられる。同年予備役へ退く。
1881年5/7、皇居造営御用掛、
1882年5/27、皇居造営事務副総裁。
8/12、駐清特命全権公使、北京へ赴任。
1883年末に李鴻章と大沽で会談。
1884年、李鴻章と度々会談し、天津条約締結に貢献。
1885年10月、清国駐在を免ぜられ帰国。
1885年12/22、内閣制度が発足。
第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任。
1885年、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立。
1887年5/54、子爵に叙される。
1888年4/30、黒田内閣が誕生、逓信大臣に留任。電気学会を設立、初代会長となる。
1889年2/11、大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務める。
3/22、逓信大臣から文部大臣へ。
5/17、文部大臣を更迭、枢密顧問官となる。。
1891年3/6、「育英黌」を設立し管理長に就任。
5/29、外務大臣。
1892年8/8年、外務大臣を辞任、枢密顧問官となる。
1894年1/22、農商務大臣に就任。
1895年、栃木県・群馬県知事は連名で政府に
足尾銅山に関する要望書を提出。
榎本はこれを放置。
1896年9月、大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。
1897年2月、田中正造が国会で
鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出。
政府の取り組みを非難する演説を行った。
被害農民は1千名を超える陳情団が上京。
3/5、榎本は被害農民と面談。
3/18、政府は、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題、
政府は関与しない。
鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。
但し政府は黙視していたわけではない」と回答書を出す。
この回答は被害農民の反発を招き、
大挙東京押出しを引き起こす。
3/23、榎本は現地を視察。
3/24、鉱毒調査委員会を設置。
3/27、陳情団と面談。
3/29、農商務大臣を引責辞任。
1908年、死去>