19/1/26 東海村古文書と歴史を学ぶ会 徳川慶喜と王政復古。
仲田昭一先生  
 < >はhp制作者メモ。
●バラバラでは力は足りない。
ひとつになって外国に対応。
藩がバラバラではだめ。
何でまとめる。
朝廷の存在。
それが明治維新が必要だった理由。

■徳川慶喜 七郎麿。1837〜1913年。水戸藩主徳川斉昭の7男。
生後7か月で水戸へ。
逞しき子どもにもに育てよ。
弘道館での教育。
1847年.水戸より江戸へ出て一橋家相続。

■幕政の改革。老中 阿部正弘。
●老中 阿部正弘。海防掛設置。

●安政の改革。
大船建造解禁・築地に軍艦操練所設立・長崎海軍伝習所設置。
総督 永井尚志。

■徳川慶喜と大政奉還。
1859年.安政の大獄で隠居謹慎。
1860年 斉昭逝去。
1862年。一橋家再相続。
将軍後見職に任ず。
1864年。3/25。禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ず。
3/27 藤田小四郎ら筑波山挙兵。6/16 平岡円四郎暗殺される。7/19 禁門の変。
1865年。2/3 天狗党352人敦賀で処刑される。
1866年。8/7 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮辞任。8/20 徳川将軍家相続。
1867年。10/14。大政奉還。
12/9。王政復古の大号令。
1868年。1/3 鳥羽伏見の戦。
1/6 大坂脱出、海路江戸へ。
1/7 徳川慶喜追討令。
2/12寛永寺で謹慎。
4/11 江戸無血開城。
水戸弘道館で謹慎。
7/23 静岡で謹慎。
1869年。9/28 謹慎解除。
1880年。5月。正二位の旧位に復す。
1897年。東京へ移住。
1913年。逝去。

■水戸家の教育 指導者の姿勢 家庭教育。
■水戸家の教育。武田耕雲斎宛徳川斉昭書簡。
●指導者の姿勢。
・弘道館の梅も偕楽園の梅も
小石川の梅の実から育てたもの。
軍用として梅は大切。
梅の実を勝手にひろうものがないようにすること。
・藩士の子供が外出していた時。にわか雨が降ってきた。
藩士の子供は畑のいもの葉を折り傘の代わりに持ち帰った。
文公これを見て
「畑の持ち主に断ったのか」
ことわっていないと答える。
と、文公はこどもともどもを世話する人に
3日間の外出を禁じた。
・悪いことをしたものを見逃さないこと。
小さい過ちを許すと、
規律が乱れ国が乱れる基になる。

●家庭教育。
・藩主の子供は藩士の範とならねばならない。
子どもの時の教育も厳しくなる。
寒い季節でも、朝4時起床。
水で顔を洗う。
戸をあけて外気にあたる。
大声で四書の素読。
明るくなってくると鷹合わせ・または庭廻り。
食事後、書物・剣術。コタツには入らない。
・藩主の子供は藩を継げるのは長男だけ。
他の子供は他家に望まれれば養子にいく。
養子先で水戸徳川家の名を辱めてはいけない。
文武ともに励む。
馬術は馬場を乗っているだけではダメ。
好文亭、仙波のあたりを回ること。
湊などへも付の者と共に
腰弁当で遠馬すること。

●書。
慶喜の小さいときの書がある。
斉昭が子供に自由に好きな字を書かせた?
小さい時から四書の素読が日課だった。
暗記していたと思える。
何か書けといわれ、
頭に浮かんだ字を書いたのでは?
・6才の時。「進思盡忠」と書いている。
<「孝経」君子之事上也、進思盡忠、退思補過。
君子が君主に仕えるのには、
君主の前に進み出ては、
忠義を尽くそうと努め、
退いては(君主の)過ちを補おうと努める>
・7才の時。「志於道」と書いている。
「論語」子曰、志於道、據於コ、依於仁、游於藝。
子曰わく、道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ。
・「游於藝」と書いている。
芸は礼・楽・射・御・書・数の六芸。

●斉昭から長男慶篤への教え。
判断迷うときは、四書五経による。または、徳川家光・敬公・南龍公・・・。
冑・刀剣・鉄砲・馬具を好のめ。茶器・掛け軸はだめ。
名将言行録などの書を常にそばに置き読むこと。
僧侶には十分留意。とくに奥向きから取り入ってくる。
武士としてのあり方。目標をたててそれに向かって常に励むこと。

■慶喜の書。
●紙本墨書絹装
「無貴賤接以誠 無大小待以誠」
貴賤なく誠をもって接し、大小なく誠をもって待つ。
身分にとらわれず人とまじわり、
家柄にとらわれず人材を登用することが
誠を実現する方法である。

●絹本墨書
「誠」
徳川将軍家に入るために一橋家を離れる際に書いたもの。

■水戸徳川家の「庭訓」。
●2代義公光圀。
我が主君は天子也。今将軍は我が宗室なり・・・。

●7代 武公治紀。
我等は将軍家いかほど御尤もの事にても、
天子に御向かい弓をひかせられなば、
少しも将軍家にしたがいたてまつることはせぬ心得也・・・。

●9代 烈公斉昭と慶喜。
慶喜は・・・唯庭訓を守ったに過ぎない・・・父斉昭も同じ志にて・・・
天子と将軍家の間に何か起こった場合、
水戸徳川家は決して天子には弓をひかない。
<これが水戸徳川家の庭訓>

●徳川慶喜。宗家相続・将軍職就任を迫られて。
・・・徳川の家をこれまでのごとく持ち伝へんことは覚束なければ、
この際断然王政の御代に復して、ひたすら忠義を・・・
予が政権奉還の志を有せしは実にこの頃の事にて、
東照宮は日本国のために幕府を開きて将軍職に就かれたるが、
予は日本国のために幕府を葬るの任に当たるべしと
覚悟をさだめたるなる。
・・・旗本などの始末をどうするとか
こうするとかいうところまでには、
考えが及ばない。
「昔夢会筆記」



■大政奉還に反対。
●紀伊藩主 徳川茂承。
・・・各々が徳川氏のために
ますます君臣之大義に励み、
以て数百年のご厚恩に報ずる・・・。

●水戸藩主 徳川慶篤。
・・・やはり、幕府を恢復することが、
かえって王室安泰の基である・・・。

■徳川慶喜の至誠。
国の未来のためにひたすら恭順・私を捨てる。
200年来の先祖の栄光を地に落とした。
多くの部下を路頭に迷わせた。
苦渋の選択の拠りところは「水戸家の遺訓」。

■鳥羽・伏見の戦い。大坂城脱出のこと。
1867年。
12/9。小御所会議。12/13。慶喜の辞官治納地。幕閣ら反対。
12/23。江戸城二の丸全焼。
薩摩藩士の放火?
12/25。三田薩摩藩邸を桑名藩兵が焼き討ち。
明治元年。
1/1。討薩の表。
大義により君側の奸を一掃する。
諸藩も早々に出兵を。
1/2。幕府軍1万5千の軍勢で対応。
1/5。幕府側現職老中淀藩寝返る。
1/6。津藩の寝返り。
慶喜江戸にて再起を?
刺殺されるまでも会桑二藩を諭して国に帰らせ、再上京して朝廷の御為に粉骨砕身仕えるべし、
と懇願すればよかりしものの、諭しえず、
「いかようにも勝手にせよ」と言い放ちが一期の失策なり。
1/7。開陽丸に移る。
1/12。江戸城着。


■徳川慶喜の決意。
慶喜の幕政改革 →大政奉還決意 →小御所会議 王政復古の大号令 →鳥羽・伏見の戦い →大坂退去後ひたすら恭順 
仏国レオン・ロッシュの支援申し出謝絶。
・・・勅命といはんには違背し難き国風なり。
・・・国内各地に戦争起こりて、300年前の如き兵乱の世となり、
万民其害を受けん、これ最も余が忍びざるところなり。・・・
抑東帰以来余が心既に決して、聊かも動揺することなし。・・・。


<●慶喜は英仏などの代理戦争を避けた。

●慶喜は家訓により朝廷に対して弓をひかなかった。というが、
何故幕府側をまとめられなかった。何が不足していたのか。
とくに戊辰戦争、
亡くなった藩の人々をどのように考えたか。
天狗党の扱いも同様。

戦争は終わり方が難しい。
会津戦争の場合、会津藩が降伏を官軍に申し出た。が、
官軍は拒否した。結局落城まで行った。
庄内藩は最後まで抵抗した。西郷隆盛がおさめた。
会津戦争で、西郷隆盛が官軍の将として参加していれば、
別な展開になっていたかもしれない。
天狗党の場合、慶喜のために京にいった水戸藩のひとを
慶喜はこばんだ。
天狗党を逆賊として討伐側大将となった。
その結果、水戸藩士三百数十名は虐殺された。
現在でも天狗派・諸生派の和解はならない?
会津藩は家訓により徳川家のために最後までたたかった。
慶喜は無血開城で城を明け渡した後。
ひたすら部屋に閉じこもった。
部下のことを無視するように口を閉じた。
慶喜は自決することもなく生涯を終えた。
奇才斉昭のこども慶喜が将軍になってしまった。
それがいくつかの悲劇を生んだようにも感じる。
戦いの終わり方は難しい。
太平洋戦争は玉音放送により戦争終結>