18/12/25 那珂市本米崎 上宮寺定例法座 真宗本願寺派。
< >はhp制作者メモ。
■全員で正信偈を称える。
■藤井智学師 常陸太田市 青蓮寺住職。  
●青蓮寺のはなし。
10月におこなわれた上宮寺開創800年記念法要。
上宮寺第31世住職継職法要のときの
上宮寺住職の表白をきいて感動した。
表白の最後に沈黙の時間があった。
上宮寺住職の想いが感じる時間があった。
青蓮寺報恩講の時に表白をおこなった。
青蓮寺も開創800年たつ。
鎌倉時代、畠山重秀が、
常陸・稲田の親鸞聖人を訪ねて證性と名のり、
真宗の道場とした。
・・・親鸞聖人がともしびをともしてくれた。
・・・
2018年混迷の時代。・・・
親鸞聖人は真実を教えてくださった。
<聖人の教えをともしびに生きていく>
●縁と心路。
常陸太田市 生涯学習情報誌フォンズに書いたこと。
縁と心路しんろと題した。
縁によって生かされている私との出会い。
縁起がいいとか悪いとか考える。
縁起は元々仏教の根本思想のひとつ。
全ての物は縁によって起こっている。
仏教的平等思想の根幹。「生かされている私」との出遇となる。
青蓮寺には「豊後国の二孝女物語」という史実が残っている。
約200年前、旅の途中病に倒れ青蓮寺で養生していた父。
7年越しに消息を知った娘2人が苦難の末辿りつく。
翌年に帰ることが出来た。
娘達は「お父さんは独りぼっちじゃなかった」
多くの村人が父を助けてくれる姿を見て手を合わせた。
娘達は「常陸国は極楽のようだ」と話した。
人の悲しみを自分のこととして悲しみ、
人の喜びを自分の喜びとして喜んだ当時の人々の心がある。
●訪ねてこられた人。
生涯学習情報誌フォンズを読んで青蓮寺を訪ねてこられた人がいた。
そのかたは、大変に悩まれていた。
どうしたら悩み・くるしみが無くなるか、
その解を求めていた。
2時間ほど話をした。
仏教のこと、何をしれば悩みを解消できるか。
しかし、悩みを解決できるものはこれだと答えられるものではない。
あそうかと思うときがある。そのようなものだ。
自分もかつて何を理解すれは仏教がわかるのかと考える期間があった。
訪ねて下さって問いかけている姿が、
かつての自分の姿に見えてきた。そのものだった。
わかれば助かるものではない。
ああそうか。縁によって生かされている私。
縁によって私が私にであう。
<これだというものはなく、
「ああそうか。そうだったのか」
と思うときが仏教に出会った時なのではないか>
●自分が自分に出会うとは。
ああそうか。
私の物の見方を根底から破る働き。仏教に出会う。
自分の良い悪いで考えるのではない。存在を考えさせてくれる。
<親鸞聖人は「何が善で何が悪なのか、
そのどちらも私はまったく知らない」と言われている。
・・・歎異抄後序
・・・私にとって都合のいいものを善という。
私にとって都合の悪いものを悪という。
仏の教えに出会ったとき、そんな自らの姿が明らかになる>

●遇縁存在ぐうえんそんざい
自分の存在の尊さに会う。存在することに意味がある。
<遇縁存在。善導大師のことば。その時々に遇った縁により在り方が決まる存在。
生きるために、他のいのちを奪わなくてはいけないわたし。
今、いのちがわたしを生きている。
いのちよりも大切なものが見つからない限り、
ひとはいのちを大切にしない。
わたしの思いを大切にし、いのちを軽視する>

●研修会。
研修会に研修生として参加した。
多くの職業の方がおられた。
80数歳になられた研修生のかたのあいさつ。
としをとり何かと大変。
自分は、少年のはなしを聞かせてもらう、
わたしのはなしを聞いてもらっいます。
研修テーマで、
どのようにして少年を指導できるかという話になった。
話を進めていくうちに、知能指数のはなしになってきた。
最後のまとめに入ろうとしたとき、80数歳の研修生がいった。
少年の話をよく聞いてあげることが大切。
少年を指導しようとする人は、いつのまにか、自分が高い位置にいて偉いと考えている。
そうではなく、話し合いをして、
人が人に出会っていくことが大切。
ひとを知能指数で評価しては間違い。
<ひとそれぞれによいところがある。
皆違っている。同じ尺度で評価することはよくない>
私が生きていて、いのちが私を生きている。
良し悪しだけてみている。
●安田 理深やすだりじん
「足で蹴飛ばしていたものをあら勿体なやと頂ける世界を浄土という」
今、自分があることに有り難い。
今まで蹴飛ばしていたものを尊いと思う。
物の見方を根底から見直す。
自分の存在が尊いもの。いのちの尊さ。
<今まで、大切なことを足で蹴飛ばしていないか。
生きていることがあたりまえではない。本当の「勿体ない」世界に出会う>
●愚禿悲嘆述懐和讃。
自分の中に嘆く 愚禿悲嘆述懐和讃。
親鸞聖人悲嘆述懐の16首の和讃がある。
親鸞聖人の想いがつよく詠まれている。
愚禿悲歎述懐
〈第一首〉
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
・・・・
已上十六首これは愚禿が かなしみなげきにして述懐としたり。
この世の本寺本山のいみじき僧ともうすも 法師ともうすも うきことなり
釈親鸞書之

南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏。
上宮寺の前住職さまは、徒歩で京都に向かわれているとのこと。
ご苦労さまでございます。
親鸞聖人が稲田から京都に向かわれたことを想いなされているのか??