18/12/22 東海村 古文書と歴史を学ぶ会 天狗諸生の争乱。
仲田昭一先生。
■水戸藩の抗争源流。
水戸藩の門閥派・改革派抗争をたどる。
●水戸藩当初の家臣団構成。
門閥層の誇り。幕府中心主義。
●徳川光圀の藤井紋太夫誅伐。
家臣団の対立が表面化することを未然に防いだ。
●立原翠軒・藤田幽谷の離間。
派閥対立に。
●水戸藩9代藩主継嗣問題。
改革派の優勢。門閥派の不満。
●天保の改革に反対。弘化甲辰の変。
改革派・領民の雪冤運動。処罰・入牢。
●ペリー来航。
改革派の勢力挽回。
●1855年安政の大地震。
藤田東湖圧死。
改革派の焦り。
結城寅寿処刑と一派の処罰。
死罪5名(寅寿・十河・谷田部雲八・大嶺広忠・大嶺広益)
目付の前で結城が無罪を主張。
何の吟味もせずに処刑。
水戸における吟味無し処刑の例となり、
将来無実の士民がみだりに処刑されるもとになった。
非常なる怨恨を生む。
●安政の大獄。
領民の雪冤運動
●天狗・諸生の争乱。
領民を巻き込む。残虐非道・惨殺処刑の応酬。
●王政復古。

■天狗・諸生の争乱。
1863年.
5月。長州藩、下関通過の米・仏・蘭艦隊攻撃。
5月。伊藤博文ら英国留学へ。
7月。薩英戦争。
田中源蔵 倒幕。藤田小四郎 敬幕。
1864年3月。藤田小四郎等攘夷を主張して筑波山に挙兵。
10月。天狗党軍議。
一橋慶喜を頼り武田耕雲齋を総大将に西上を決定。
「天狗党」を使用する。

■島崎藤村「夜明け前」に描かれた天狗党。
●天狗勢は水戸藩の有為な人材の集団。
●天狗争乱は宗教戦争に似ている。
●天狗禍もあるが長州藩の敗北(禁門の変)も大きい。
●単なる浪士の集団ではない。
尊攘意思の表示である。
●中山道を西上進行。
●和田峠の激戦。
とうとう、田沼玄蕃頭は来なかった。
●天狗党の評価。
旅籠銭一人前弁当用共にお定めの
250文ずつ払って通るのを意外とした。
まるで30万、40万石の大名が通行の騒ぎだと言うものもある。
一方に討死にを覚悟してかかっている
こんな水戸浪士のあるからである。
軍いくさの習い、是非ないことと思し召されよと、
生きている人にでも言うようにそれを言って、
暗い土の上にぬかずいた。
短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。
浪士等の軍律を厳しくすること。
砥沢口合戦の日にも和田峠に近づかず、
諏訪松本両勢の苦戦をも救おうとせず、
必ず二十里ずつの距離を置いて
徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、
そういう幕府の追討総督だ。
●天狗党の降伏。
慶喜は厳然たる態度をとって
容易に水戸浪士を許そうとはしなかった。
田沼侯に対する世間の非難の声も高い。
浪士らの勢いのさかんな時は
20里ずつの距離の外に屏息、
徐行逗留してあえて近づこうともせず、
1000余人の同勢と言われた水戸浪士も、
途中で戦死するもの、負傷するもの、
沿道で死亡するものを出して、
敦賀まで到着するころには823人だけしか生き残らなかった。
そのうちの353名が前後5日にわたって
敦賀郡松原村の刑場で斬きられた。
耕雲斎ら4人の首級は首桶に納められ、
塩詰めとされたが、
その他のものは3間四方の5つの土穴の中へ投げ込まれた。
残る250名は遠島を申し付けられ、
180名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、15名の少年とが無構追放となった。

●天狗派・諸生派の多くは、弘道館で学んだ人達。
それを失ったことは、
明治維新を迎えて水戸に人物なしの状況を作った。

■王政復古。
1865年.
9月。開国派豊田小太郎暗殺。
10月 条約勅許。
1866年.
7月。将軍家茂薨去。
12月。一橋慶喜将軍に就任。
12月。孝明天皇崩御。
1867年.
10月。慶喜の大政奉還。
12月。王政復古の大号令。