18/12/8 常陸太田市久米町 正念寺聞法会  真宗本願寺派。
末燈鈔 第5通にかかれている自然法爾の事についてお話をきく。
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、
行者のはからひにあらず、
「然」といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからひにあらず、
如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
・・・・・
この道理をこころえつるのちには、
この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。
つねに自然を沙汰せば、
義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。
これは仏智の不思議にてあるなるべし。
愚禿親鸞86歳

●はなしを聞いたがまったく理解できなかった。
カレンダーに
「亀は亀のままでいい 兎にならなくていいのだよ」
このことをいっているのではと一緒に聞かれた方がいった。
<如来にまかせて生きていくことが大切。それが、自然ということばになった?
歩くものを助ける形のない状態か?>

●ひとには三毒がある。どん欲・しんに・愚痴。
あるおばあちゃんのはなし。
「となりの家に蔵がたったとき、一番の怒りが生じた」
「となりの家の蔵が大水で流れたとき、一番の喜びを感じた」といった。
ひとの煩悩、凡夫の姿。このような心がどこかにある。
自分さえよければ・・・という気持ちがある。
●仏教のことを勉強することは、
それにより次の見える世界に行く、自力で行くのではない。
やみのなかにいる自分の周りを少し明るくすることか?
<提灯のように。
ひとは小さな先にある光、阿弥陀かも、光に向かって歩いている?>