18/12/2 那珂市瓜連 水戸・歴史に学ぶ会 明治の女性 豊田芙雄。  
明治維新150年記念講座。
齋藤郁子先生 
●大航海時代。スペイン・ポルトガル大規模な航海を行い、
土地で略奪や搾取を行う。
●1543年、ポルトガル人により火縄銃が種子島に持ち込まれた。
●1549年。キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩にくる。
薩摩の島津氏から領内布教の許可を得、布教活動を行う。
キリスト教は西国の大名に保護された。
洗礼を受けキリシタン大名となる大名もいた。
南蛮貿易の利益や鉄砲の火薬原料を得る目的もあった。
●1580年。大村純忠が 「長崎をさしだす」と提案。
現在の長崎市は、ポルトガルの領土となる。
秀吉は驚き怒る。
●1587年にバテレン追放令を出す。
●1592年。長崎を没収。秀吉直轄領とする。
●1596年。サン・フェリペ号事件。
スペイン帆船が四国沖で難波。
助けられた乗組員の一人が、日本占領のため、
まずキリスト教の宣教師を送り込む。
民衆をキリシタンにする。その後、軍隊で支配するという。
秀吉は日本を守るため、キリスト教を禁止。罰則を厳しくした。
●1597年。関西で宣教師・日本人信者26名を捕え、長崎で処刑した。長崎26聖人の殉教。
●1600年。オランダ貿易船リーフデ号が豊後沖で難破。
オランダは貿易のみを望んでいることをしる。
●秀忠は貿易は中国と オランダのみを長崎に限定。
キリスト教は禁令。徹底的に弾圧した。
●1637年。島原の乱。日本でのキリシタンは途絶える。
幕府はオランダ風説書により海外の状況を知ることになる。
海外に行った人は植民地の様子をみてきた。
日本も強くならないと貿易できないと考えた。
■幕末は、女性は外に出ることを許されない風潮があった。゛
明治維新のころの女性の資料は少ない。
●桑原政。 
豊田芙雄の弟。ダイハツ設立メンバー。鉱山の開発にも参画。
●加藤木利与。
1790年、那珂郡野口平村の諸沢佐市衛門の長女として生まれる。
1803年18才の新五郎と結婚。
藩主徳川斉昭の天保改革が、宗教対策として寺院に強い弾圧を加えていた。
新五郎は、誤解により僧侶に切りつけられ、片腕切断、10ヵ所以上の深傷をうけた。
利与は慌てず騒がず、7日間不眠不休で看護した。
夜間には、自ら仕込杖を持ち家の周りを見廻り、僧侶方の動きを警戒した。
男まさりの活躍に、利与の名は隣村まで鳴り響き「孫根の女庄屋」と呼ばれた。
藩主斉昭が幕府から謹慎を命ぜられる。
水戸藩の士民多数は、斉昭の雪冤運動に立ち上がった。
斉昭の藩政関与は1849年まで許さなかった。
加藤木新五郎夫妻は、斉昭の雪冤を願った。
利与は氏神に一週間の夜籠り祈願・水戸の寺院に詣で断食祈祷を行う。
1845年、56才の利与は、片手を失った夫に代わり従者2名と江戸に潜入。
苦心の後、斉昭復権の嘆願書を紀州藩主に届ける。
●黒澤止幾くろさわとき
1806年、茨城郡高野村に生まれる。
家は私塾も開いていた修験道場の宝寿院。
幼い頃に父と離別。祖父や養父から漢学、国学を学ぶ。
26歳で夫と死別。
実家に戻り、20年間、櫛や簪の行商で生計を立てる。
地元有志の子弟たちの教育も行う。
各地の文人と交流する。
1854年、止幾は養父の私塾を受け継ぐ。
斉昭が謹慎うける。
止幾は、斉昭の罪を晴らすため単身京都にいく。
「国と主君を思う一念」を「長歌」に認めて朝廷に献上しようとした。
止幾は捕らえられ、処罰を受け常陸国への立入禁止となる。
止幾は「幕末勤王の女傑」と呼ばれた。
止幾は、密かに錫高野に戻り私塾を再開。
1872年、学制が発布されると、止幾の私塾は錫高野小学校の教場となる。
止幾は小学校教師に任命される。
日本女性教師の最初とされる。
●根本徳子 根本正の妻
徳子は幕末の水戸藩師士桜任蔵の孫娘。
女子学院を卒業後、新潟県高田市の女子学院分校で教師をしていた。
媒酌は豊田芙雄。
人物短評本に根本正を評してこうある。
「毎年の議会に同一の服装、同一の態度、
同一の論旨を繰り返すので名物の一つとかぞえられている」 
そんな揶揄に耳も貸さず、
未成年の禁酒に執念を燃やし続けることができたのは妻、徳子の功である。
徳子は禁酒法が通るまで「全財産を失ってでも出馬させる」と語っていたという。
●森田千世。
山川菊栄の母。
水戸藩儒者青山延寿の娘。女子師範の第1回卒業生。
森田竜之助と結婚。23年菊栄を出産。
生涯は,菊栄の著作「おんな二代の記」「武家の女性」にくわしい。
91歳で死去。
●山川菊栄(きくえ)
母は森田千世。
女性解放のためにペンをとる。時代を文字に記す。
1890年東京に生る。女子英学塾卒業。
26歳で社会主義者の山川均と結婚。
多くの論争に参加。
切り口の鋭さ、知識の豊富さ、論理の厳正さは抜群といわれた。
1947年、初代・労働省婦人少年局長となる。
●豊田芙雄(ふゆ)。
県立水戸高女の先生が、
豊田芙雄の晩年に座談会形式で聞いた記録がある。
1回目
出生地・父母、兄弟・名前・幼児の家庭状況・幼児教育・家庭の躾・武家の女子教育。
2回目。
藤田東湖と桑原家・東湖の塾・青年時代
3回目。
結婚・住居・下市時代・五軒町時代・
佐幕等(市川)の跳梁・豊田家の人々・悲境時代・教員生活の首途。
4回目
舅天功・姑天功夫人・夫小太郎・藩主烈公・文明夫人・萬里小路睦子・和歌について・吉田家
5回目。
昭憲皇太后の小梅低行啓・東京師範学校奉職・幼稚園保姆・鹿児島幼稚園創設
ここで、座談会形式の講和は終わっている。
豊田芙雄の年譜。
1845年水戸で生まれる。父は桑原信毅・母は雪子(藤田東湖の妹)。
1862年 豊田小太郎と結婚。
小太郎は豊田天功の長男。
1866年 小太郎脱藩。小太郎の芙雄へのことば「心を鬼にしておれ!!」
夫は国事に奔走。京都で暗殺される。
小太郎の死を悲嘆し、約2mの追悼文を書く。
1870年 自宅に塾を開く。
1873年 発桜女学校教員。
1875年 東京女子師範学校教員。
1876年 日本人初の幼稚園保姆。
ドイツ人松野クララから幼児教育を学ぶ。遊戯・唱歌を創作。
1879年 幼稚園設立のため鹿児島へいく。
1887年 旧藩主篤敬イタリア公使夫人総子の随行者として欧州へ。
同時に、文部省から「滞欧中女子教育事情取調べ」の辞令を受ける。
1894年 私立翠芳学舎を東京丸の内数寄屋橋に創設。
時の文部大臣西園寺公望と旧藩主篤敬に懇願され1年で閉校させ、栃木へ。
1895年 栃木県高等女学校教頭、同県師範学校教諭を兼務。
両校の舎監にもなり校風刷新に努める。
1901年 茨城県高等女学校教諭。
1903年 茨城県水戸女子師範学校教諭を兼任。
1925年 大成女学校校長。
1941年 97才で死去。