18/11/24 東海村古文書と歴史を学ぶ会 
徳川斉昭と弘道館。
仲田昭一先生  [ ]はhp制作者メモ。
●斉昭は、30才で家督をつぐ。
「よく30才までいたな」というのが感想。
家督を継ぐまで勉強する期間があった。
●水戸藩の郷校ごうこう。
常陸太田・太田益習館。日立市・暇修学芸館。那珂湊・湊敬業館。
常陸大宮市・野口時雍館。などがあった。
■弘道館建設の背景。
斉昭の改革四大眼目。
●領内検地のこと。
●家臣土着のこと。海防。
●学校建設のこと。
●家臣惣交代のこと。江戸家臣の帰水。

■弘道館記の精神。
●学校の位置は国王居処の西とした大陸に倣って
西大手門側とした。
●藤田東湖の抱負。
会沢正志斎への書簡。
弘道館記・・・天下を奮起せるべき「天下一の文章」とせねばならぬ・・・。

●藤田東湖の具申。
・・・この度の学校は天下一に遊ばされずに候はでは
御建立の甲斐も御座無く候間、
何卒学問事業一致遊ばされ候様、至願に絶えず候。
会沢正志斎→藤田東湖起案→佐藤一斎(昌平黌教授)→藩主斉昭最終決定。

[斉昭は藩学校の建設を考え、
彰考館総裁の会沢正志斎に弘道館記の作成を内命した。
しかし会沢が辞退。
そこで、藤田東湖に建設の主旨を示し起草を命じた。
東湖による草案は、幕府儒官佐藤一斎の諮問。
会沢正志斎・青山拙斎らに意見を求め、斉昭が裁定]、
●内容。
六つの問いと五つの眼目。
●鹿島神社と孔子廟。
1841年.弘道館仮開館。
斉昭、水戸藩の家臣は「二念無く精勤し、忠孝文武に励み、
御国恩に報い奉るように」。
鹿島神社。
敬天の誠と勇猛剛烈という文武を兼ね備えた
建御雷神たけみかづちのかみを祀る。
孔子廟。
人倫の道を教えた聖人であり、
歴史を述べ乱臣賊子の心胆を寒からしめた武の面を持つ
孔子を祀る。
鹿島神社と孔子廟を設置したこと。
弘道館記に記す。
「神州の道を奉じ、西土の教えを資とり」
「文武岐わかれず」
「神を敬い儒を崇し」
を具現化したもの。
幕府・他藩では孔子のみを祀るのが多かった。
鹿島神社を設置したのは、
皇室・天朝を尊ぶ尊王の意思をあらわしている。
1857年、本開設する。
仮開設から本開設までの期間が長かった理由。
鹿島神社の幕府からの許可が下りず分祀祭ぶんしさいができなかった。
また、1844年斉昭の隠居謹慎が命じられた。
●弘道館記碑を八卦堂に据えた。
八卦堂は、万物流転の易えきの世界を示す。
「大和之道」が万古不動ばんこふどうの要かなめであることを示している。
●隣接して建てられる要石歌碑。
「行く末も ふみなたがへそ 蜻島あきつしま 大和の道ぞ 要なりける」
●梅。
梅の実は酸を含んで渇きをとめる。
軍旅の用となる。「備えあれば憂いなし」の構え。
「天下の魁さきがけ」となる意思を示す。

■弘道館の運営。
●教授と生徒。
教授の任にあたる者の位置づけを高めた。
学生らに恭順の念を抱かせた。
教えに従順ならしめようとした。
入学生徒は講習生と称した。
講習生の中から学力優れ・品行正しいものは
居学生と呼ばれた。
落第・卒業はなかった。

●多彩な教授陣。
青山延于。文館の総教。
會澤正志斎。文館の総教。
青山延光。儒学者。
杉山忠亮。儒学者。
根本敬義。儒学者。
吉田令世。国学者。
飛田勝。儒学者。
豊田天功。水戸学者。
国友尚克。儒学者。
里見四郎左衛門。槍術。
里見鉄之介。槍術。
里見鉄次郎。槍術。
菊池為三郎重善。無念流。
長尾理平太景英。無念流。
渡邉松太郎政綱。北辰一刀流。
朝比奈泰尚。
市川三左衛門弘美。
久米直次郎久敬。無念流。
住谷寅之介信順。
茅根伊豫之介。
美濃部幾之介。
福地寅之介道遠。神発流砲術。

●学則。
*私見に偏執することなく・・・。
*六国史をはじめ・・・・。
*文武の道は節義を重んじ・・・
*君子は実行を務める。・・・
*学問の根底は聖人の経典を基本とする。・・・
*兵学は戦陣における実用の学である。・・・
*学生は互いに礼譲を以て・・・

●教授と学生の交流。
(省略)

■「一張一弛」
斉昭は偕楽園をつくった。
偕楽園は孟子「古の人は民と偕に楽しむ」に由来する。
斉昭藩主就任以来、
質素倹約や文武の奨励・風俗の矯正や教育を強いてきた。
これが「一張」。
それが達成された時は遊楽の場を設けて民に安らぎを与える。
これが「一弛」。
弘道館は「一張」。偕楽園は「一弛」。
弘道館と偕楽園は一対のものとして計画・つくられた。

■主な藩校。
●岡山藩。花畠教場。
1641年創設。
●会津藩。日新館。
1664年創設。1799年大改築。
敷地7,000坪。
●幕府。昌平黌。
1691創設。敷地11,000坪。
●佐賀藩。弘道館。
1706年創設。
●長州藩。明倫館。
1719年創設。敷地14,300坪。1849年増改築。
●名古屋。明倫堂。
1738年創設。1783年再興。
●土佐藩。教授館。
1760年創設。致道館1862年。文武漢館1861年。
●米沢藩。興譲館。
1776年再興。敷地5,548坪。建坪450坪。
●熊本藩。時習館。
1784年創設。敷地7,000余坪。
●福岡藩、修猷館。
1784年創設。
●福山藩。弘道館。
1786年創設。
●秋田藩。明徳館。
1789年創設。
●金沢藩。明倫堂。
1792年創設。敷地17,820坪。建坪1,116坪。
●彦根藩。弘道館。
1799年創設。
●酒田藩。致道館。
1805年創設。
●松代藩。文武館。
1805年創設。
●水戸藩。弘道館。
1841年仮開館。1857年本開館。
敷地54,070坪。建坪5,000坪。
●鹿児島藩。造士館。
1855年創設。
●盛岡藩。作人館。
1858年創設。

[■弘道館記。  ●6つの問い。  ■5つの眼目。
●弘道とは何ぞ。
人が道をひろめ行うこと。
●道とは何ぞ。
天地自然界の大きな筋道。
●弘道の館は何のため為に設くるや。
日本国を創始した神々が秩序の根本を定めた。
後世の天皇に継承。天地の位置が決まった。
そのもとで万物が成育・繁栄。
天皇が世の中を照らし天下国家を統御する。
天皇の位は永遠に続く。
日本国は尊くおごそかなもの。
人民は安心して生活できる。
歴代天皇は、他人の長所をとり、自らも善をおこなった。
中国の堯・舜・夏・殷・周の政治や教育を手本として治めた。
日本は発展した。が、
仏教などの外国の思想が入った。
異端の教えや邪悪な考え方が世の中を惑わした。
一部の学者は伝統的な日本の道を捨てた。
外国文化のため天皇の権威はしだいに衰えた。
世の中が乱れた。
道徳はあいまいになった。
徳川家康公は乱世を治めた。
正道に戻し皇室を尊んだ。
外国の圧力や間違った思想をしりぞけた。
武道や学問を奨励。太平の基礎を築いた。
水戸藩初代藩主威公は、日本武尊を慕い、
神道を尊び、軍備を整えた。
二代藩主義公は、威公の業績を受け継いだ。
伯夷・叔斉の「伯夷伝」で
兄弟が君主の地位を譲りあう話に感動。
儒教を重んじ、人倫の道徳を明確にした。
君臣の名分を正し皇室を守った。
その後、百数十年たった。
水戸藩は先人の遺業を継承。
その恵みを受けて今日に至る。
臣下は道を推しひろめ、
先祖の徳を高めるため何をすべきか考えなければいけない。
これが,弘道館を設けた理由。
●夫かの建御雷神たけみかづちのかみを祀るは何ぞ。
むかし、建御雷神が天照大神を助けた。
建御雷神は鹿島神宮の祭神として常陸に鎮座。
人々に神の道を知らせるため建御雷神を祀る。
●其の孔子の廟を営むは何ぞ。
堯・舜・夏・殷・周の道を孔子がまとめた。
孔子の徳を欽うやまい、
その教えを学ぶため孔子廟をつくる。

水戸藩の者は、弘道館に通うこと。

弘道館の理念をまとめると。
■神国日本の道を根本とし、中国の儒教を取り入れる。
■忠と孝はひとつ。忠孝一致。
■文と武は分かれない。文武一致。
■学問と社会活動の効は分かれない。学問・事業一致。
■神を敬い儒教を尊ぶ。一方に偏らない。

人々の考えを集め、力を発揮する。
国家の恩に報いる。
威公・義公の志が尊ばれる。
天上の神々や歴代天皇の霊も喜ばれる。

●以て其の治教を統すぶるものは誰ぞ。
権中納言従三位源朝臣 徳川斉昭である。
天保九年歳次戊戌春三月、斉昭 撰文・書・篆額]