18/11/11 笠間市 笠間の菊まつり・笠間歴史フォーラム。
笠間駅→笠間稲荷神社→笠間歴史交流館井筒屋→
笠間図書館→笠間公民館→笠間駅。
■笠間駅。

シャラノキ。

街路樹 シラカシ。道路にはふんだんに稲田石がつかわれている。ゴミがなくきれいでした。

■笠間稲荷神社

大鳥居

大鳥居

楼門

拝殿



菊人形展 西郷どん。 大河ドラマのシーンから10場面が展示されていた。





■笠間歴史交流館井筒屋。 2階と3階の展示物をみる。

●明治150年記念展。
写真に見る笠間の近代化−地域産業と街の発展−
○笠間の先人。パネルで紹介されていた。
弓家 善四郎(ゆげ ぜんしろう)1854〜1936。
左官職の技を芸術に高めた鏝師こてし。
山下 りん(やました りん)1857〜1939。
聖画に一生をささげた女流宗教画家。
石井 雅太郎(いしい がたろう)1856〜1916。
国会開設運動に力を尽くした民権家。
光又 柳見斎(みつまた りゅうけんさい)1866〜1939。
香取小原神社に算額を奉納した和算家。
木村 武山(きむら ぶざん)1876〜1942。
仏画を極めた日本画家。
○笠間城の模型・絵図。
○稲田石開発の歩み。鍋島彦七郎の紹介。
○宍戸焼の変遷。
○笠間焼の近代化。田中友三郎の紹介。
○福原駅・稲田駅の紹介。
●パネル展「相馬主殿とのも」。
最後の新撰組隊長といわれた元笠間藩士の紹介。
相馬主殿についての説明パネルがあった。

■笠間図書館。稲田石のベンチ。

■笠間公民館。
石膏の仏像がエントランスホールから消えていた。
公民館のかたの話では「廃校にもっていった」とのこと。

笠間歴史フォーラム。維新の時代を生きた人々と笠間。
●笠間市長あいさつ。
歴史に学び郷土のことを知っていきたい。

●平成29年度笠間城跡保存調査事業について。
 額賀大輔先生。

笠間城は佐白山上にある山城。
尾根をたくみに利用している。
平成26年より調査を開始。
平成29年度は航空測量図化・地中レーダー探査・
確認調査・絵図撮影を実施。
○航空測量図化。
上位史跡をめざすにあたり、1/500の図化。
○地中レーダー探査。
本丸跡を調査。
○確認調査。
本丸跡。3本のトレンチにより考古学的知見を得る。
○絵図撮影。
笠間城修復絵図など9点の撮影を実施。
○日本城郭協会の続100名城に選定された。
○今後も調査を継続する。

●「草莽の志士」たちの明治維新 宮間純一先生。
○草莽の志士とは具体的にはどのような人か。
について説明があった。
明治維新の前後の期間で意味合いが少し違うのか。
その時の体制からはみだして、自分の理想と掲げるところに進んだ人をいうのか。
説明をきいていて理解できなかった。

○笠間藩から脱藩した相馬主殿とのもについて講演を依頼された。
が、じゅうぶんな資料を見つけることができなかった。

○加藤 有隣(桜老ろうおう)。1811〜1884年。
笠間藩士。儒学者。尊王攘夷運動に参加。
三条実美や高杉晋作と交流。
高杉らの推薦により長州藩から明倫館教授に迎えられる。
1934年.贈正五位。

○島 男也おなり。1806〜1861年。
笠間藩士。武術家。脱藩。
諸国を遊歴。
倒幕・挙兵を計画。捕縛され獄死。
1928年.正五位。

○相馬主殿とのも。
1843もしくは1846〜没年不明。
1865年.脱藩。
1870年.新島に流罪。
1872年.赦免。
その後東京で自決。
相馬主殿の回想録がある。
1871年作成。贈友談話壱。
1873年頃作成。史略近談二。

▼他者にとっての明治維新。
○元隊士が語る新選組。
阿部隆明(十郎)。1837〜1907年。
出羽国百姓の子として生れる。
出羽国亀田藩高野家養子となる。
新選組に加入・脱走。赤報隊に加わる。
史談会速記録に談話を残している。


○旧幕府脱走兵が語る維新の内乱。
人見寧やすし(勝太郎)1845〜1922年。
幕臣(御家人)の子。
1867年.遊撃隊に入隊。
1880〜1886年 茨城県県令(第8代茨城県知事)
史談会速記録に談話を残している。
史談会速記録人見寧(勝太郎)

●忘れられた戊辰戦争
−笠間藩神谷かべや陣屋の奮闘記− 
添田仁先生。

○大阪城代は笠間藩主だった。
1867年。大政奉還。
1868年。1月。鳥羽・伏見の戦い。
将軍慶喜大坂城より江戸に脱出。
大阪城代牧野貞利(笠間藩主)は
家臣3人だけを連れて陸路から江戸へと逃げる。
牧野貞利大坂城代を辞任。笠間に戻る。
新政府側として4月に宇都宮藩に対して出兵。

○笠間藩神谷かべや陣屋とは何か。
笠間藩の陸奥国分領(飛び地)の拠点。
幕府による対東北戦線の一翼を担う。

○神谷領をとりまく政局・軍事的緊張の高まり。
磐城平藩 佐幕・湯長谷藩 佐幕・泉藩 佐幕。笠間藩 勤王。
四面楚歌状態の神谷領であった。

○神谷陣屋の構造。
笠間藩飛び地行政の拠点。常時40名前後。
戊辰戦争時は65名+農民211名。大砲3門。

○郡奉行 武藤甚左衛門忠信。1814〜1890年。
笠間藩士。神谷生まれ。
武藤家は、飛び地の行政を担当する家。
磐城平藩安藤家・湯長谷藩内藤家の家臣と
縁組関係を築くほど地域に根差した生活。

○語り継がれる神谷陣屋の偉業。
▼神谷陣屋をめぐる戦局。
5/6。奥羽列藩同盟成立。
6/18〜19。磐城平藩・旧幕府脱走兵仁義隊による包囲。
神谷勢たくみに時間をかせぐ。
神谷勢銃器弾薬を携帯・大砲3門を陣屋から離れた薬王寺に運ぶ。
陣屋を明け渡す。
7/3。仙台藩・旧幕府脱走兵遊撃隊による薬王寺攻撃。
神谷勢大砲を池に沈める。八茎銅山に退陣。
7/9。笠間本藩からの援軍八茎に到着。

▼旧藩主牧野貞寧の神谷陣屋に対する評価。
笠間本藩の藩論に対して忠実に勤王を貫いた。
領地を決死の覚悟で守った。
顕彰碑を建立。

○武藤忠信の功績を読み直す。

▼「勤王の志」を貫いて「決死の覚悟」戦ったのか。
武藤忠信は、
奥羽列藩同盟に神谷陣屋は勤王だとみられるのが嫌だった。
磐城平藩藩士に、籾500俵を提供したいことを話している。
武藤忠信は、平藩士と密に連絡をとっている。
仙台藩の顔色をうかがいながら「傍観」できる状況を維持している。

○百姓・町人にとっての戊辰戦争。
百姓・町人の負担は膨大。
御用金の供出・兵糧米の供出・農兵として徴発。

▼「湯長谷藩農兵戊辰戦争見聞記」による。
手広く情報を収集する人足。
自身も人足として従軍しながら、戦局や政局の情報を収集している。
戦局を伺いながら、
大儲けのチャンスを見極めようとする商人がいる。
主体的に判断し、生きる道を選択している民衆の姿がある。

●その他。
顕彰碑に書かれていることを読む場合。
顕彰碑はどのような背景のもとに建てられたかを考える。