18/10/29 常陸太田市 青蓮寺報恩講。
< >はhp制作者メモ。


■青蓮寺住職さまのあいさつ。
青蓮寺は、800年たった。
800年前に畠山重忠の第2子重秀により
天台宗の寺から青蓮寺になった。
重秀は、證性房となのった。
本日このように報恩講をおこなえることに
念仏の歴史が届いていることを感じる。
ありがたいことだ。

<青蓮寺は、1218年證性房の開基。
福島県東棚倉町の蓮生寺も證性房の開基>

■法話。青蓮寺副住職さま。
31才になった。
青蓮寺は800年。
自分の歴史は31年ではない長いものと感じている。
31年の歴史ではないような気がする。
両親がいて さらにご先祖さまがいて私がいる。
いのちを考えると不思議な気持ちになる。
恩徳讃について味わってみたい。
恩徳讃は、親鸞聖人が正像末和讃でよまれた。
親鸞聖人86才の作。
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし  
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」

飼っていた猫がなくなった。
私の奥さんが猫の骨壺を抱きながら聞いた。
身を粉にするとは? なんだろう。
骨を砕きてとはどうゆうことなのかな?
奥さんは一般の家から嫁いでくれました。
調べてみました。
親鸞聖人が、念仏に出会った喜び・感謝を述べたことばに思う。
報ずべし・謝すべしの「べし」は親鸞聖人の強い気持ちを表していると思う。

<如来大悲。
●如来。阿弥陀如来。
●大悲。阿弥陀如来の慈悲の心。
小悲。私たちの心で起こす慈悲。生き物が縁。衆生縁。
中悲。仏道修行者の起こす慈悲。法縁。
大悲。阿弥陀如来が起こす慈悲。
無縁。あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲。
ただひたすら救済の活動を続ける阿弥陀如来の慈悲。
●恩徳。
阿弥陀如来の徳は恩徳・断徳・智徳がある。
恩徳。慈悲の徳。
断徳。煩悩を断じた徳。
智徳。智慧の徳。
阿弥陀如来の恩徳は。
あらゆる命を 無縁の慈悲により救うために 
はたらき続けておられる。
●身を粉にしても報ずべし。骨を砕きても謝すべし。
「報ず」と「謝す」をあわせて報謝という。
衆生が阿弥陀如来へ報謝しようとしても返せるものではない。
阿弥陀如来の救いをよろこび、
南無阿弥陀仏を称えさせていただくしかない。
「べし」とは、親鸞聖人が私たちに命令したものでない。
「べし」は親鸞聖人が聖人自身に向かって言ったことば。
親鸞聖人が尊敬する善導大師は、観念法門に書いている。
阿弥陀如来のご恩は、身を粉にして、骨を砕いても、
決して返しきれない。

親鸞聖人は、善導大師の教えを衆生にわかるように和讃としてくれた。

[観念法門]・・・また、 謹んですべての往生を願う人々に申す。
もしこのことを聞いたならば、
すなわち声に応じて悲しんで涙を流し、
どれほど劫をかさねても身を粉にし骨を砕いて仏恩の深い由来いわれを報謝し、
仏の思召しにかなわねばならぬ。
どうしてさらに毛髪ほどもこれをはばかる心があってよかろうか。・・・>

■住職さまのはなし。
お昼まで少し時間があり話があった。
念仏をとなえていれば争いはおきない。
念仏をとなえているときは けんかできない。
戦が無くなる。
夏休みになった時、お寺に来たこどもに
念仏を称えれば争いにならないと話した。
夏休み遊び続け宿題をしなかった子供。
夏休み終わりの日、おとうさんに叱られ手をあげられた。
こどもは思わず南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏。
お父さんは上げた手をさげたそうです。
こどもはお寺に来て、
お坊さんの言ったことは本当だったと報告したそうです。

人間は二度生まれる。

<人は二度生まれる。一度目は「ある」ということのため。
そのうちに自我が生まれて「なぜ生きるのか」と問う。
人間の苦悩はそこからはじまる。
鳥は卵として生まれる。
母が外側から、自身は内側から殻をつつき外の世界へでる。
タイミングが合わないとうまく殻からでられない。
人の場合。
なぜ生きると疑問を持ち問いかける。
それが卵の中から殻をつつくこと。
外から殻をつつくのが阿弥陀如来。親さまです。
阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏の念仏を響かせてくれます。
南無阿弥陀仏は阿弥陀如来がわたしに称えさせてくださっています>

■お勤め。
●表白。青蓮寺住職さまが美しい声で述べられた。
青蓮寺開創のいわれ歴史について。
800年にわたって見守ってくださった阿弥陀如来・親鸞聖人への報謝。
最近の殺伐とした争いの世の中。
阿弥陀如来・親鸞聖人の教えを守り念仏を称えていく。
真実の道を求めていく。

●正信偈・念仏和讃を全員で称えた。

■法話。講師 上宮寺前住職 鷲元明俊師。。
はなしをさせていただくことは勉強しなければならない。
みなさまに勉強させてもらっています。
教誨師をながいことやっている。研修会かあった。
菊池寛の短編小説「恩讐の彼方に」「ある抗議書」を題材に研修。
ある抗議書は、大正のはじめのはなし。
2人の夫婦が殺される。犯人がつかまる。
犯人は9人も殺していた。
犯人は、死刑になれば楽になれるといった。
殺された遺族に謝罪の言葉はなかった。遺族はやりきれない気持ちだった。
牧師さんの教誨師がいった。懺悔 贖罪の心です。

<菊池寛の短編小説「ある抗議書」。
大正5年。ひとりの男が警察に逮捕される。
9人もの人を殺した凶悪犯。
凶悪犯は死刑に処される。
死刑の執行の後1年後、弁護士により犯人の告白書が出版される。
凶悪犯は、刑務所でキリスト教の信者になる。
絞首刑なるときには喜びの笑みを浮かべて処刑された。
それを読んだ被害者遺族のひとりが、
やりきれない気持ちになる。
そして遺族は司法大臣閣下あてに抗議書をだす。
自分たちは殺された家族と共に苦しみながら生きてきた。
それなのに、家族を殺した犯人が、
宗教的に救われて死ぬのはおかしい。

恩讐の彼方にも深い話だが、ある抗議書も深い話だ。
菊池寛さんの作品には考えさせられる>

●この世を終えたら浄土にいきます。
仏になったら感動します。
真宗では仏になります。
不可思議です。

●心臓はお願いもしないのに
1分間に60回ほど血液を体内に送り続けてくれます。
いろんなひとのおかげで生きている。
還相回向。浄土にいったら仏になりこの世の人を救います。
縁起の法。阿弥陀のはたらき。

<縁起の法は、仏教のおしえ。
「縁起」とは、縁によって起こること。
縁によってとは、条件によってという意味。
現象あるいは存在の相互依存関係を表している。
「因縁生起」。
一切は、直接・間接に何らかのかたちで、
関わりあって生滅変化している>

■1982年。小学校6年山崎まどかさんの詩。
「人間は、生きるために 
にわとりも殺さなくちゃいけないし 豚も殺さなくちゃいけない。
生きているってことは  ずいぶん迷わくをかけることなんだ。
自分で自分のことを全部できたら 人は一人ぼっちになってしまう。
他人に迷わくをかけることは  その人とつながりをもつことなんだ。
他人の世話をすることは  その人に愛をもつことなんだ。
生きるっていうことは  たくさんの命と  つながりをもつことなんだ」

生きるとはどういうことかを考えている。
食事の時 自分の茶碗にごはんをよそおうとしたら
自分のことは自分でしない 他人にしてもらう
他人のことをしてあげる 人間は生きるのに鶏・豚を殺してしまう
自分のことを全部できたらひとりぼっちになってしまう。
人に迷惑をかけることは人とつながりをもつことだ。

■東海村の願船寺で若いときにコウサミオンさんのはなしを聞いた。
講演の後、車座になり話をした。
製薬会社で仕事をしている人がコウサミオンさんに質問した。
薬ができるまで多くの動物を殺している。
これでよいのかといつも悩んでいる。
コウサミオンさんはいった。
そうですか。
わたしは、中学一年の一人息子を自死で亡くした。
「中学生になったのだから迷惑かけずに生きろ」
と言った自分の言葉が息子を殺した。
出来ないことを息子に押しつけた。
「中学生になったのだから、
迷惑かけずに生きていけない自分にそろそろ気づけ」
と言ってやるべきだったと、いった。

●つながり。
命あるものは兄弟。
阿弥陀の前ではみな兄弟。

●親は頼みもしないのに子供のためにだまって働いてくれた。
阿弥陀様も同じ。
真宗の世界はそのようなもの。

●もりたはじめ 不登校児が教えてくれたもの。
90日間以上学校にいけない、14万人ものひとがいる。
つよし君は、不登校児だった。
心療内科の先生に長い間 診てもらっていた。
あるとき、自殺を考えるようになった。
つよし君は、
「長い間人間扱いしてくれてありがとう」といって病院を後にした。
心療内科の先生は、つよし君は自殺するにちがいないと感じた。
お父さんに電話した。
「私では力が足りなかった。後はおとうさんお願いします」
お父さんはつよし君を見守った。
夜、つよし君はガソリンをかぶった。
つよし君をみていたお父さんは、つよし君を抱きしめた。
「つよし火をつけろ 一緒に死のう」
父の腕の中でつよし君は泣いた。
つよしくんは、自分のいのちはひとりのものでないことをしった。
つよし君はこれから生きるという気持ちになった。
阿弥陀仏は、多くの形に姿をかえてみてくれている。

●人育ては自分育てといって、ながいさんは、
少年院を出た人が働く場所を提供してくれている。
人間は出会い。

●すすきひでこさんの実話。
すすきひでこさんは、学校の先生です。
小学5年生の担当になった時、服装が不潔でだらしない生徒がいた。
先生は報告書に生徒の悪いところばかりを書いた。
ある時、その生徒の1年生の報告書をみた。
朗らかで、友達が好き。
人に親切。勉強もでき将来が楽しみ。
その記録を間違いと思った。
生徒の2年生の報告書。
母親が病気で世話をしなければならない。時々遅刻する。
生徒の3年生の報告書。
母親の病気が悪くなる。教室で居眠りをする。
母親が死亡。悲しんでいる。
生徒の4年生の報告書。
父はアルコール依存症。暴力を振るう。
それを読んだとき、
先生は悲しみを生き抜いている生身の生徒を感じた。
不潔でだらしない生徒と決めつけてきた自分を恥じた。
その日の放課後、先生は生徒にいった。
「先生は夕方まで教室で仕事をします。勉強していかない?」
「わからないところは教えます」
生徒は笑顔を見せた。
生徒は教室の自分の机で予習・復習を続けた。
ある日の授業で、生徒がはじめて手を上げた。
先生はとてもうれしかった。
クリスマス。少年が先生にプレゼントをもってきた。
香水のビンだった。
亡くなったお母さんが使っていた香水に違いない。
先生はその香水をつけ、夕方に生徒の家を訪ねた。
生徒は、先生に気がつくと先生の胸に顔を埋めた。
「お母さんの匂いだ。今日は素敵なクリスマスだ」
6年生になると先生は生徒の担当外となる。
少年が小学校を卒業する時、1枚のカードが届く。
先生は僕のお母さんのようです。
出会った先生の中で最高の先生です。
6年後に届いたカード。
明日高校の卒業式。
先生に担当してもらい最高に幸せでした。
奨学金で医学部に進学します。
10年後に届いたカード。
先生に出会えた感謝・父に叩かれた体験があるから、
患者の痛みがわかる医者になれる。
駄目になってしまう僕を救ってくれた。
神様のように感じた。
僕にとって最高の先生です。
1年後に届いたカード。
少年の結婚式の招待状だった。
「母の席に座って下さい」と書いてあった。
1年間担任の先生との縁。
その縁により少年は無限の光を見出した。
その光を糧に、少年は人生を生きた。
人は誰でも縁の中に生きている。

<深い話です。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏>

その時の出逢いが その人の人生を根底から変えることがある。
相田みつを。

<日めくり歎異抄より。
2日 一つの言葉との出遭いが 私の人生を支えてくれることもある
11日 尊敬できる人に 出遭えた人はしあわせです>

昔の子供はひかっていた 
勉強のできる子は教室 運動のできる子は運動場

●お浄土にいけば、自分の人生に感動する・懺悔する。
仏になり皆のために役立つ。

●かめいひろしさんのはなし。 
総代の奥さんと運転手の奥さんの聞法の違い。
総代のおくさんは、仏法を喜んでいる。しかし、
総代の主人は忙しくお寺に足がむかない。
奥さんはこころよく思っていない。
ダンプ運転手の奥さん。
あるとき自分はひどい女と気づかされた。
仕事にでかける主人に頭をさげて見送った。
その後、ダンプ運転手夫婦はよく2人で寺にくるようになった。
愚者になり往生する。

<悪人とは自分のことですという自覚が、
おもわぬ世界を開いてくれる。
それが浄土>

■年賀状についておばあさんのはなし。
 御仏からよき人・もの・しゅくごうをさずかっている。
このおばあさんは、
今日までの人生で出遭った人をおがんでいる。
おばあさんは、念仏にあった人です。
なかなかできないことです。