18/10/28 那珂市瓜連町 
水戸・歴史に学ぶ会 
明治維新150年記念講座 
嗚呼、天狗党田中愿蔵隊の顛末。

飯村尋道先生。
[ ]はhp制作者メモ。
■幕末水戸藩の天狗党と諸生党。
●天狗党。
尊王攘夷派。
水戸藩天保の改革のときに、
保守門閥派が
藤田東湖ら改革派の
下級藩士にたいしてつけた蔑称。
●諸生党。
水戸藩の保守門閥派。
弘道館の諸生が多かった。

■尊王攘夷派も
尊攘鎮圧派・
尊攘激派(急進派)に分裂。
●尊攘鎮圧派。
武田耕雲斎・山国兵部・榊原新左衛門。
●尊攘激派(急進派)。
田丸稲之衛門・藤田小四郎。
■田中愿蔵は
尊攘激派からも除名された。
急進的過激派。
●久慈郡東蓮寺生まれ。
猿田玄碩げんせきの5男。
養子となり姓を田中と改める。
秀才といわれた。
19才で時よう館(野口村)館長。
●田中愿蔵の主張は倒幕。

■田中愿蔵に対する世間の評価。
●浮浪追討記。
賊徒の長田中愿蔵は文武に
・・・諸方を乱妨または放火す・・・。
・・・常野の諸民憎まざるはなし。
●水戸朋党の争い。
筑波山に籠もり、
田中愿蔵組などと申す極悪党の者もあり。
●水戸藩資料。
元治元年(1864) 3/17・・・
藤田小四郎等と脱藩して筑波山に義挙。
6/6。田中愿蔵の一隊は野州栃木町に赴き
・・・町を火きたり。
6/21。土浦城北なる真鍋宿を
襲撃してこれを焼払へり。
●波山始末。
軍法を・・・後日、
波山一挙、早くも賊名を蒙りたるは
全く田中の此暴挙に因りたるもの・・・。
●水戸藩資料。
田中愿蔵、
右の者もってのほかふゆきとどきにつき、
7/3、筑波山より除名されたり。
●南梁年録。
田中愿蔵、
その方このたび補翼申し付け候よって
實勤いたさるぺくもの也 
元治元年(1864)・・・。
●水戸幕末風雲録。
田中愿蔵、
その部下には・・・
富豪の家に押し入り略奪を欲しいままにして 
その共謀手の付けようもなく、
筑波勢が士民の怨みを買い、
終に賊名をおって、
幕軍に討伐の口実を與えたのは
一に田中の狂暴の因・・・。
■田中愿蔵の一隊、
助川城の戦いに敗れ八溝山に拠る。
●浮浪追討記。
9/26。水戸殿人数1300人(1400人?)・・・
助川城に攻めかかる・・・
賊徒必死に防戦・・・
賊徒今は防禦かなわず・・・
敗走・・入四間の山に・・・。
●里美村史。
9/26。上深萩村・・・に分宿。
●浮浪追討記。
賊徒は敗走して
天下野村より破石坪、
諸沢村、湯之澤を通り
西金村・・・1泊す、
このとき賊徒180余人・・・
28日大沢村・・・栃原の方へ・・・。
●神長家記録。
田中勢の人数320余人。
9/27・・・田中やや遅れて到着。
神長家に泊まる。
●益子喜衛門文書。
9/27、田中愿蔵組・・・
170人(180人)、西金村一夜泊り・・・、
9/28、追掛合戦つかまつ、
八溝山にて賊徒を生捕り・・・。
●菊池粂之助「書上手扣」
賊共・・・諸沢通り 27日夕、
西金え泊・・・
28日、比藤村え出・・・
賊共大澤え繰込・・・
槇の地村え泊り・・・
槇の地村は29日未明に仕立・・・
これより人数100人はかりにて
下の宮通りにて上郷村境堅め・・・
脇通り致し候打ち漏らし申候・・・
・・・賊共高笹山通り
八溝山え登り候、
30日、・・・追々馳付け、
八溝山山狩等仕生捕り分捕り等取調、・・・
槍壱筋、
但し十文字・・・
賊徒追討の節分取槍・・・
慶応3年(1867)御評定所より下され・・・。
●佐藤安兵衛の覚書「界生雑紀」。
元治元年(1864)・・・
9/28・・・
田中愿蔵など・・・
八溝山へ登る・・・
上之宮大金沢に・・・
月ケ原より平原通り遍□□平
(堂ケ原??)にて昼食・・
・・・大勢八溝山へ攻めのぼる・・・
9/29、59人我が家に泊まり・・・
晦日は36人
10/1 106人泊り 
10/2 43人泊り・・・。
j.
●黒羽藩主大関肥後守
「浮浪打果御届」
9/29頃より・・・
高笹山辺に屯集・・・浮浪の徒・・・。
●賊徒記(旅沢家記録)。
28日・・・西金を出・・・頃藤、
大沢、栃原、山田、芦野倉、初原を通過し、・・・
槇野地村に至り・・・民家に・・投宿。
29日・・槇野地村出立、
大金沢、小金沢、久保沢、高笹山通り・・・
八溝山山頂。
社前で隊を解き解散を宣告、
山を下り離散する。
●神長家の記録。
9/28.夕方には八溝山に籠った。
●棚倉沿革私考。
先に70両を持たせ別当へ人を遣わし、
兵糧を買入れを依託した・・
山に登ってみれば籾3俵ががあっただけ。
兵糧なく・・・解散することにし、
・・・社頭にて在金を分配、
面々随意に分散・・・。
●東白川郡誌。
田中愿蔵・・・
八溝山に屯し・・・
財70両をだし、
使者を派わして糧を八溝山別当に求む・・・
使者、籾3俵を残し・・・
一隊300名、
食全く尽く・・・
党を解き山を降りる・・・
田中、高橋、餓え、
匍匐して網にいる、
塙代官これを陣屋に牽く・・・
田中愿蔵、
従容、
口を以て詩一篇を録し、
朗々高吟、
笑って刑場に消える。

■田中愿蔵、
助川城を敗走し
八溝山に登り解散するまで。

■まとめ。
9/26。
助川城の戦い 
→高鈴山 →赤澤銅山 →入四間村 →
上深萩村泊まり。
9/27。
上深萩村 →小菅村で交戦 →大菅村 →
東染村 →東染村で合戦 →天下野村 → 
諸沢村 →北富田村 →盛金村 →
西金村泊まり
9/28。
西金村 →頃藤村 →舘 →
横石 →大沢村 →栃原村 →
高萓峠 →株坂 →山田村 →
芦野倉村 →初原村 →恵場ケ沢 →
槇野内村 → 四道→岩崎生婦 →
梨ノ沢 →金沢で交戦 →
上野宮村で交戦 →大久保沢 →
月柄峠 →中郷村 →堂ケ平 →
笠舟山 →舟 →高笹山 →
池ノ平山 → 八溝山
9/29〜10/1未明か?。
八溝山上での解散。

■田中愿蔵の一隊、
八溝山を織り山麓で捕縛刑死する。
9/29〜10/1
八溝山→中郷路へ下山 →
途中の分岐奥州側へ →入山 →
鬼ケ煩 →大笹山 
→塙代官領真名畑村 →
牛方の伝兵衛の山小屋に入る →
10/2夜〜10/3未明。
伝兵衛から名主に密告。
名主から番所に連絡。
10/4早朝。捕縛・護送。 →
鎌田 →宮田 →中山峠 →
植田村 →台宿村 →塙代官所
[通説・金澤春友説]
10/16下河原にて斬首。21歳。
首級は水戸弘道館前に晒される。
遺骸は塙町浄土宗安楽寺に埋葬。
[1865年ゆかりの者により
供養の碑が建てられ、
1929年
田中愿蔵刑場の跡の碑が建立される。
現在は
道の駅はなわ敷地内に移されている]
最後まで行動を共にした隊員。
高橋幸之助。9/晦日捕縛。10/3処刑。21歳。
西山常蔵。10/1捕縛。10/6処刑。33歳。


古里の 風のたよりを きかぬ間は 
我が身ひとりの やみぞかなしき

田中愿蔵

愿蔵、死、処を得ず、
空しく没すと雖も、
志、
遥かに名顕はるる者に勝る。

東白川郡誌