18/10/27 東海村古文書と歴史を学ぶ会 
千々乱風伝説と村松白根遺跡。
宮内教男先生。 
< >はhp制作者メモ。
■前回講座の続き。
小野崎氏は、いつから石神城にいたのか。
石神氏由緒書。
1489年。伊達・磐城と<佐竹氏のたたかい>
<佐竹氏が劣勢となり小野崎氏が>身代わりとなって死んだ。
<小野崎>通老みちとしが<佐竹氏より>石神の地をもらった。
この時期が小野崎氏が石神城に入った時と考える。
1432年石神城決戦。石神の陣をかまえて。
この戦いの時は、<小野崎氏は>石神城に入っていなかったと考える。
■石神城虎口。虎口は城の入り口。
V郭とU郭。木橋と土橋。土橋は戦国時代からか。
U郭とT郭。木橋。

■本題。
■千々乱風チヂランプウまたはチチランプウ。
日本気象資料を調べると、
建物は北東と南西を結んだ線の上に並んであった。
揚浜式で塩をつくっている。
<明治43年から昭和22年の那珂湊測候所資料。
この地方の年間卓越風は北東の風。
河口の砂じんの発達状況、那珂川、久慈川とも河口で左折。
南岸に長い砂じんがあったことは古地図にある。
北東の卓越風に影響されたもの>

以下、hp制作者メモ。
<■千々乱風の伝説。
東海村の村松 ・照沼、
ひたちなか市の長砂 ・馬渡 ・阿字ケ浦に千々乱風伝説がある。
海岸線沿いに大塚村 ・二亦村 ・青塚村があった。
海岸で人々は塩を作っていた。
元和2年 (1616) ころに北東の大風が吹いた。
風は 75日間にわたって吹き続けた。
家屋は倒壊、村は砂に埋まった。
人々は村を離れて、海岸から離れた前浜・馬渡 ・横道坪などへ移り住んだ。という。
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■古文書。
●東海村村松虚空蔵堂所蔵文書
元和 9年 (1623)に村松の東方に住む百姓 17人が、
家屋が毎年砂に吹き埋められるため移住を願い出た。
移住後も製塩の運上金を上納すると文書にある。
「村松東方の百姓おる屋敷、毎年、砂に引き埋められ、
迷惑申し候間、御神明のうち、
松の一本もこれなき空地御座間、
これなき屋敷に立て申し、移り申したき由・・・」

●ひたちなか市馬渡 飛田家文書。
宝暦14年(1764)に書かれた。
宿通り3箇所で、210余年前に下夕浜という場所を開発した。
度々の悪風で家敷が砂で吹潰されるので別の場所へ家数23軒を移した。
さらに青塚浜、二亦浜も同様なので、宿通りへ144軒を移した。
宝暦14年から210余年以前は、天文年間から寛永18年前の間か。

●小宮山楓軒編「水府志料」
前浜村。「往古大塚とて浜辺に人家ありしに、元和の初め大風に壊れ、
其後今の地に家居して前浜村に改めたりと云」
馬渡村。「往古青塚、二亦、大塚とて三ケ村にて浜辺に家居せしに、
元和の末大風にて家並も吹潰され、住ひ成かたくして今の所に移り、
寛永の末に、青塚、二亦のニケ村を合わせ、馬渡に入て一村となす。
大塚は今の前浜なり」

●明治19年頃・小池信親編「茨城県常陸国那珂郡前浜誌」。
「往古より本村北部海岸に大塚浜に亦馬渡浜の3村ありたりしか
元和3年巳8月19日より北風75日吹続き
海嘯き怒濤天を衝き烈風砂を飛し
家屋を埋没せしを以て人民居住する能はす
三分して一は前浜村ヘ 一は隣利馬渡村へ 一は隣村長砂の三村へ移住し
而して三村の名称を廃し其地を前浜罵渡長砂の三村へ分合す」

■村松白根遺跡。
遺跡は、東海村村松虚空蔵堂の東600mくらい、
原子力研究所の敷地内にある。
遺跡から海岸までは200mくらい。
標高10mくらいの砂丘に南北に広がる。
遺跡周辺に弥生時代の真砂山遺跡・白根古墳がある。
16世紀から17世紀前半の釜屋跡 ・械水槽などの大規模な揚浜式製塩跡、
建物跡・畝状遺構・土墳墓などの集落跡がある。
揚浜式の製塩遺跡は、ひたちなか市沢田遺跡 ・長砂渚遺跡にもある。
東海村からひたちなかまでの海岸地域で製塩が行なわれていた。

■2004年遺跡説明会資料より。
■見つかった遺構。
●製塩跡。
かん水槽。濃い塩水をためておく水槽。
釜屋。濃い塩水をかまで煮つめて塩の結晶を取り出す施設。
●建物跡。
平らな黒土の面に、炉跡・柱を立てた穴。
●畝状遺構。
1辺が約10mの畝が何本も並んで。
畝の幅約40p、畝と畝の間約15p。
■出土した遺物。
土師質土器。内耳鍋・かわらけ・香炉。
陶磁器。大甕・灰釉丸皿・折縁皿・丸皿・すり鉢・青磁碗・染付皿・天目茶碗。
金属製品。火打金。釘・耳金・吊り金具・小札・小刀・切羽・笄・鉄鍋・分銅。
古銭。北宋銭・明銭等。
枝銭。
石製品。石臼・茶臼・硯・鍋・五輪塔・宝篋印塔。
骨角製品。笄・サイコロ。
火打石。砥石。人骨・獣骨(鯨・犬・馬等)
■海岸や松林の地下5m前後に、砂に埋もれた中世の「ムラ」があった。
「ムラ」では大規模な塩づくりが行われていた。
「ムラ」では住まいをたて暮らしていた。
埋葬されていた人骨は約120体。そのうち約70体は幼児や小児。


■まとめ他。
千々乱風伝説は、製塩 ・移住という事実をもとにしている。
現在、このような砂丘の地に何かと話題の原子力発電所がある。
発電所は砂に埋まることは無いのだろうか・・・??>